逃がした魚は大きかったが釣りあげた魚が大きすぎた件
「アイーダ・アメーティス嬢、貴女との婚約を破棄させてもらう」
王立学園での卒業パーティ。ホールでは優雅なワルツが流れ、色とりどりのドレスが花のようにくるくると舞っている。
微かにそのワルツの聞こえてくる中庭では、夜風で涼む者、ライトアップされた噴水で語らう者たち、そして愛を囁く恋人たちが、よく通る声に一様に顔を強張らせその成り行きに注目している。
声の主はルビーニ王国の第一王子レナートだ。
レナートはプラチナブロンドの髪に澄んだ空色の瞳をした王族らしい美形の王子である。身分に甘んじることなく常に自分を律し努力を怠らない性格で、誰に対しても平等に丁寧に接するため、非常に人気のある人物である。しかしながら、あまり笑顔を見せることはなく、たいていが眉間に軽くしわを寄せた厳しい表情をしている。
その彼が、あろうことか衆人環視の中で婚約破棄をした。
レナートの横では信じられない、という顔をした弟の第二王子プラチド。その反対側には動揺しておろおろした様子のカシャーリ男爵令嬢のエレオノラ。この状況に唖然としているレナートの婚約者であるアメーティス公爵令嬢アイーダ。
そして、アイーダの隣でレナートに腕を掴まれじっと睨まれている、私、マリーア・アンノヴァッツィ。
なぜ。
なぜ、王太子はアイーダとの婚約破棄を私に宣言しているのだ。
「兄上、一体、これは……どういうことですか」
一番先に口を開いたのは、レナートと同じ金髪に碧色の瞳のプラチドだった。それをきっかけに、その場にいる全員が驚きから戸惑った表情に変わる。
「アイーダ嬢、これ以上エレオノラ嬢への無礼な所業を見逃すわけにはいかない。彼女へ行った数々の嫌がらせ、暴力行為への謝罪を要求し、謹慎を命ずる」
レナートは目をそらすことなく、真剣な瞳で私にそう言った。腕を掴む指に力がこめられ、少しだけ痛い。
「兄上、落ち着いてください。一体誰に何を言っているのです」
がんばれ、第二王子。こいつの目を覚まさせろ。
「プラチド、お前は騙されている。この女は私とエレオノラ嬢との仲に嫉妬し、彼女に陰で嫌がらせを続け、人前でわざと叱責し、階段から突き落とし怪我まで負わせたのだ。私は身分を笠に人を貶めるような者は決して許すことができない」
レナートは非常に落ち着いた声で、しかし、怒りの籠った口調ですらすらとそう述べた。掴んでいた私の腕をぐいとひっぱり、至近距離できつく睨まれる。
そもそもアイーダではない私は、眼前に迫る美形の迫力に瞬きを忘れて見入っていた。これからこの先、この近さでこのご尊顔を拝めることはないだろうからしっかり見ておこうと思った。
「自らの悪事を暴かれて何も言えないか、アイーダ嬢」
レナートが目を細め口の端を上げる。おお……これはこの距離では目の毒だ……。そっと目をそらすと、レナートの背後で彼の側近の青年が戸惑っているのが見えた。きっとアイーダの悪事の証拠が記されているのであろう書類を手にしている。
ここでバーンと証拠をつきつけて断罪する予定だったのだろうに。どうするつもりなの、自分の身内を困らせて。
アイーダも目を見開いて言葉を失っているし、エレオノラもピンクブロンドの頭を抱えておろおろしている。周りからは「どういうこと」「何が起きているの」とひそひそと声が上がっているが、誰もこの状況が飲みこめずに戸惑ったままだ。
レナートは厳しい目つきのまま相変わらず私を見つめている。仕方がない。私はきっとレナートを睨み返し、腕を振りほどいた。
「レナート殿下! しっかりしてくださいませ。あなたご自分が何をなさっているのかおわかりなのですか」
「当然だ。私はこの国の王子として、貴女の悪事を見過ごすことはできない」
「いいえ殿下、あなたは何もわかっていないわ。あなたが今、真っ先にすべきことは……」
私はレナートの両肩をがしっと掴んで言った。
「眼鏡を買う事です!!」
「!?」
その場にいた全員が、揃って大きくうなずいた。
私、マリーア・アンノヴァッツィはルビーニ王国の隣にちょこんとくっついている小国ムーロ王国の公爵令嬢だ。5人姉妹の末っ子で、アンノヴァッツィ公爵家のある特性を一番受け継いでいる私が公爵家を継ぐ予定だった。家督を継ぐため子供の頃から厳しく教育されて育った。しかし、今から3年前の15歳の時、弟が生まれた。念願の男児が生まれ、あれよという間に跡継ぎの座は弟に奪われ、国内の目ぼしい貴族子息は姉たちの婚約者となっており、公爵家跡継ぎの教育しか受けていない気品に劣る私は完全に売れ残ってしまっていた。
そこで、遠縁であるが同じ年で仲の良かったアイーダを頼って、このルビーニ王国に留学することにしたのだ。美しく優しく人望のあるアイーダの周りにいる優良物件を見繕ってもらって、私を嫁にもらってもらおうという作戦である。留学して2ヶ月。勉強に励み、学内のイベントにもなるべく参加し、ミミと愛称で呼んでくれる友達もたくさんできた。そろそろ目標を達成できそうな手ごたえを感じ始めた頃、私はあの婚約破棄騒動に巻き込まれてしまったのだ。
アイーダの婚約者であるひとつ年上のレナートは、この卒業をもって立太子される予定だった。しかし、あの騒動を起こしたせいで保留となっているらしい。
あの後、私たちは王城の一室に場所を移した。人目がなくなってから、私はレナートにやっと自己紹介した。アイーダは私の隣にいる美女だと知った時の愕然としたレナートの表情が忘れられない。人が膝から崩れ落ちるのを初めて見た。
確かに私はアイーダと同じライトゴールドの髪で親戚だからか何となく背格好も似ている。しかし、アイーダは青い瞳だし私は菫色の瞳だ。彼女のような気品も落ち着きもないし、淑やかな雰囲気もない。
レナートがここまでアイーダに興味がなかったことに、全員が驚いていた。むしろドン引きだった。
二人の婚約が決まったのは今から2年前。この間、レナートはありとあらゆる手を使ってアイーダを避け、お茶会をすっぽかし、パーティのエスコートは全て弟のプラチドに任せ、決してアイーダを視界に入れることはしなかった。愛想はないけれど、品行方正なレナートが彼女に対してだけこの様なあからさまに不躾な態度を取ることを皆訝しんでいたところだった。
床に膝をつくほどショックを受けたレナートは、しばらくした後立ち上がり、「謝罪は後日……」と言い残し側近を連れて部屋を出て行った。彼の代わりに弟のプラチドが平身低頭アイーダと私に謝罪し、その場は解散となった。
「レナート殿下は、最初から私との婚約を拒絶していたの。でも、父が強引に進めてしまって……。だから、いつかこうなるとは思っていたの。気にしないで」
帰りの馬車の中で、アイーダは寂し気な笑顔でそう言った。こんな状況でも、泣いたりわめいたりせず、冷静でいられる彼女がとても悲しかった。
「でも、あんな場でする話じゃないわ」
他に結婚したい相手ができたからと言って、あのような人前でする話ではない。アイーダはこの国一番の皆が憧れる淑女なのに。私はやり場のない怒りを持て余して、自分の膝をぽかぽかと叩きながら言った。
「そもそも、アイーダはあの子に嫌がらせなんてしていないじゃない。少なくともこの2ヶ月はずっと私が一緒にいたんだから、そんなことできるはずがない」
そうなのだ。アイーダは美しく賢いので、そんないじめみたいなことはしない。そもそも、彼女は完璧なのでそんなことする必要がないのだ。
「こういうことになってしまったのは、殿下に心を砕けなかった私の落ち度なのよ。そんなことより、心配なのは……ミミ、あなたよ」
アイーダが口元に手を寄せ眉をそっと寄せる。そんな悩まし気な仕草がとても艶めかしい。その色気ちょっと分けてほしい。
「その、こんなことで変な注目を集めてしまって……あなたの作戦に影響がないといいのだけれど」
私はアイーダの言葉にハッとした。
なんてことなの! 私は自国でモテなさ過ぎて男漁りに留学しに来た上に、婚約してもいないのに婚約破棄された不名誉極まりない令嬢になってしまったわ!
「そんな、そこまでひどい言われようはしないと思うわ」
「しまった! 全部声に出てた!」
思わず立ち上がって頭を抱えた私を見て、アイーダが少し笑う。
「本当に……ミミの明るさに私はいつも救われているわ」
「そ、そう? そう言ってもらえるなら……」
私はすました顔でスカートを整えてゆっくりと座席に腰をおろした。そっとアイーダを見ると、彼女は窓から遠くを見ている。口元は令嬢らしく微笑んでいるのに、とても悲しそうだ。何の落ち度のないアイーダをこんな目に合わせるレナートに、私はとても腹が立った。
あのバカ王子! こてんぱんにやっつけてやるんだから! そうだわ。後日謝罪するって言ってたから、そこそこ将来性のある側近を紹介してもらおう。王子の命令なら側近だって断れないでしょ。まあ、話はまずボコボコに殴ってからだけどね!
「ミミ。側近を紹介してもらうのは良い案だけど、ボコボコにするのは国際問題になってしまう可能性があるからやめた方がいいわ」
「また声に出てた!」
数日後、レナートは本当に謝罪にやってきた。とは言え、婚約破棄をしたアイーダの屋敷の敷居を跨ぐことはできないので、私が王城へ呼び出される形だった。豪華絢爛な応接室で最高級の紅茶と見たことのないほどの繊細な細工を施されたケーキを頬張っていた私の前に、顔色の悪いレナートがやっと姿を現した。
「待たせてしまってすまない、アンノヴァッツィ公爵令嬢」
一度も噛まずに家名を言ってのけたレナートに素直に感心してしまった。発音しづらい上にたいていの人がまず噛むんだ、うちの家名。数日前に知ったばかりだろうにきちんと覚えてくれた。たったこれだけのことでも、彼が真摯な態度で私に向き合ってくれているのがわかってしまった。
ゆっくりと向かいのソファに腰を下ろしたレナートは、とても疲れた様子で両手を膝の上に置いた。髪を後ろで緩く束ねているが、ほつれてしまった一筋の髪が白い頬に影を落とし、物憂げな表情に拍車をかけている。
アイーダと言いレナートと言い、この国の人は皆どうしてこんなに色っぽいのだ。
口の端についたクリームをぬぐいそうになった私の手に、すかさずナプキンを握らせてくれた侍女はとても優秀だ。私はなるべく品よく見えるようにナプキンで口をぬぐった。そもそも上品な淑女は口の端にクリームなんてつけないのだが。
「あなたには本当に申し訳ないことをした。その、内密にだが君の留学理由をアイーダ嬢から聞いた。あなたの経歴に傷をつけてしまったこと、深く遺憾に思っている」
そう思ってるならできるだけ優良物件紹介してください。
すぐに両手で口をふさいだが、今日は大丈夫だった。声には出ていなかったようだ。レナートは私から目をそらし、ぼんやりと床を見つめたまま動かない。
「できるだけ優良物件か。考えておこう」
「やっぱり出ちゃってた!」
壁際に控えている侍女たちが非常に残念そうな表情をしている。
「アンノヴァッツィ公爵令嬢」
「レナート殿下、言いにくいでしょう。マリーアで結構です」
「ありがとう、では、マリーア嬢」
居住まいを正したレナートは、しっかりと私の目を見た。凛とした表情はやはりとても整っていて、自国の腑抜けた王子たちとは比べものにならないくらいかっこいい、と思った。
「アイーダ嬢から聞いているとは思うが、私はずっと彼女を避けていた。視界に入らないようにし、姿絵を開くこともしなかった。幼少の頃以来、言葉を交わしたこともない。それゆえ現在の彼女の姿を知らなかった。だから彼女の隣にいたあなたをアイーダだと思ってしまったのだ」
「子供の頃は、プラチド殿下を交えて3人で遊んでいた、と伺いました」
「そう。まだ8歳程度の頃までは彼女が王城に来るたびに一緒に庭で遊んでいた。だから、髪の色だけで判断した。その美しい金髪はなかなか他にはいないから」
私の髪はアイーダ程手入れもしていないし美しくもないのだけれど、とりあえず自分が褒められたことにして少し照れた仕草をしてみた。
レナートは膝の上で組んだ手を見つめながら、小さく息を吐いた。いつの間にかすぐそばに来ていた侍女が、手の付けられていない冷めた紅茶を新しい物に取り替えた。
「……レナート殿下はとても優秀なのに、どうしてあんなことをしたのですか? どういう状況になるかお分かりにならないはずがないでしょうに」
私の声が聞こえているはずなのに、レナートは何も答えなかった。視線を落としたままの顔色は悪く、目の下にはうっすらとくまが見える。王子様の割には不健康そうだな、この人。
私は温かくなった紅茶をごくりと飲みこみ、再び壁際の侍女たちを見た。彼女たちは相変わらず残念そうな顔をしている。どうやらその表情の理由は私のがさつさのせいではなく、このレナートのせいのようだ。
「王太子になれなくなっちゃうかもしれないじゃないですか。どうするんですか」
私は声を張り上げてはっきりと言ってみた。侍女たちの顔がいっそう曇る。
間違いない、レナート殿下は人望がおありになる。彼が王太子にならないことを皆悲しんでいる。
レナートは少し考えるそぶりをした後、つい、と視線だけを上げた。その瞳はまっすぐに私を見ていた。
「…………私が王太子にならなければ、全てうまく行くと思ったんだ」
「はい?」
それっきりレナートは黙ってしまい、私は両手で持ったカップを揺らしながら次の言葉を待っていたが、彼が口を開く様子はなかった。
「そこまで言ったんだったら、詳しく話してくださいよ」
「……」
「誰にも言わないですから。内容にもよりますけど」
「…………」
「気になるじゃないですか」
「………………」
「ああ、もう!」
私は立ち上がり、ずかずかと大股で歩いて彼の隣にどさりと座った。そして、耳に手をあてて体を寄せた。
「ほら、こっそり、私にだけしゃべっちゃいなさいな。私は他国の人間なのでそのうちいなくなりますから。しゃべってすっきりしちゃいなさい」
彼はぎょっとしたように少しのけぞったが、ふふ、とちょっとだけ笑って観念したように身を寄せてきた。
「プラチドが、アイーダ嬢のことを好いているのだ」
「えっ!?」
「内緒だぞ」
「わわわ」
「あいつは真面目な分、分かりやすい。子供の頃からずっと彼女を想っている。だから、私はアイーダ嬢に近付かないようにしていたのだ」
「ほほほう」
「しかし、アメーティス公爵が、娘は王太子と結婚させる、と言って私との婚約を進め、議会もそれを承認してしまった。徹底的に無視していれば諦めるかと思ったが、なかなかうまく行かず……卒業が近づいてきて焦ってしまったんだ」
私は首を傾けてレナートをちらりと見た。彼は面白いいたずらを思いついた、みたいな無邪気な表情をしていた。
「だったらいっそのこと、私が王太子にならなければいい、と思ったのだ。私がならなければ、プラチドが王太子になる。そうすれば、アイーダ嬢はプラチドの婚約者になる。全て丸く収まるじゃないか、と」
耳にあてていた手を私はゆっくりと口にあてた。
この人めっちゃいい人じゃーん!
よし、声には出なかった。
「どうしたら廃嫡されるだろうか、と悩んでいたところで、カシャーリ男爵令嬢が近づいて来た。カシャーリ男爵はちょうどとある疑惑があり、密かに調査をしている人物だった為、利用させてもらった」
「利用? ……ああ。では、側近の方が持っていらしたあの書類は」
「そう、カシャーリ男爵の横領の証拠だ。あなたは勘がいいな。あの後彼がカシャーリ男爵の不正を暴き、令嬢の甘言に惑わされた私を断罪する予定だった」
レナートの後ろで戸惑っていた青年はアイーダを追い詰める役ではなく、台本通りいけば男爵の横領の証拠を突き付け、あのような場で婚約破棄したレナートを断罪して王太子の座から遠ざける予定だったのだ。彼とレナートはどんな関係なのだろう。私さえいなければ、今頃彼は愚かな王子を廃嫡に追い込んだヒーローになっているはずだった。
青くなる私を見て、レナートはくすりと笑った。
「しかし、大事なところで私は失敗してしまった。しかも、関係のないあなたを巻き込んで」
レナートは青い顔のまま、前髪をくしゃりと片手でかき上げた。
うわ、めっちゃイケメン。
私はふう、と息を吐いて彼に正面から向き合った。
「殿下、私にお詫びしてくれるんですよね。さっきの優良物件の件は無しで。その代わり、明日街に連れてってください」
「え?」
「殿下が今までで一番おいしいと思った物が食べられる店に連れてって下さい。で、お腹いっぱい奢ってください」
「今までで、一番」
「そ、一番。今、何思い浮かべました」
レナートはあごに手を置きちょっと考えた後、顔を上げた。
「マルバール亭のステーキ」
「ステーキいいですね! そこ予約しておいてください。明日一緒に行ってたらふく食べましょう」
「承知した」
「それから、明日の為に今日はゆっくり睡眠を取って下さい。殿下、あんまり寝てないでしょう。クマがいます」
私が目の下を指さすと、レナートはそっと自分の下まぶたを両手の指で押さえた。
「……確かにそうなんだ。忙しいのもあるが、あまり眠れない」
「羊でも数えたらいいんじゃないですか」
「国民の数を超える程数えているんだが、眠れない」
「じゃあ、特別にアンノヴァッツィ公爵家の数え歌教えてあげますね。よく見ててください」
私は立ち上がり、テーブル横の空いたスペースに移動した。そして、変顔をしながら右手のひじを勢いよく高く上げる。
「いち!」
案の定、レナートは目を見開いて驚いている。
私は間髪置かずに左手を真横に伸ばし風を切る。もちろん変顔のままだ。
「に!」
くるりと回って床に這いつくばるように身を低くする。
「さん!」
そのまま低い体勢で右足を伸ばして床を擦る。
「よん!」
その後も両手両足を存分に動かし、時には全身を使ってジャンプして、ご! ろく!……と続けた。
「じゅう!」
最後に右手の豪快なアッパーパンチが空を切った。息を切らせることなく服の乱れを直し、私はレナートの隣の席へ戻った。彼は唖然とした表情のまま固まっていた。
「寝る前に、私の今の姿を思い出してください。楽しかったでしょう。3歳の弟は今の数え歌を見るとげらげら笑った後、ぐっすり眠るんですよ」
レナートは見開いていた目をきゅっと細め、ほほ笑んだ。
「はは、3歳児と同じ扱いか。……わかった、寝る前に君のことを考えることにしよう」
ずっと疲れたようにしていたレナートが楽しそうに笑ったのを見て、私は急に顔が熱くなった。私のことを思うんじゃなくて、私の変顔を思い出すってことだからね! パタパタと手で顔をあおいで、じろりとレナートを見た。
「人間は睡眠不足でお腹空いている時ってろくな事考えないんですよ。殿下、あなたは今、その状態です。とりあえず、今日の晩ご飯も栄養とかカロリーとか何も考えずに、美味しい物お腹いっぱい食べてください」
「心得た」
レナートと明日の約束をして、私は王城を後にした。馬車の中で、別に食事は私と一緒じゃなくても良かったんじゃないかな、と今頃気づいた。
次の日の午前中、事態は急変した。なんとプラチドがアイーダに求婚し、アメーティス公爵がそれを許したのだ。人前で婚約破棄されたアイーダには傷がついてしまった。だったらレナートとプラチド、どちらが王太子になろうとも、できるだけ身分の高い相手を確保しておいた方がいいと思ったのだろう。
貴族令嬢は家の繁栄のための道具にすぎない。私は深くため息をついた。
昼が近くなり、そろそろレナートが迎えにくる時間だった。私は玄関へ向かう前に、アイーダの部屋に顔を出してみた。すると、彼女はとても晴れ晴れとした顔をしていて、めずらしく楽し気にはしゃいでいた。そうか、アイーダもプラチドのことが好きだったのか。
だったらまあ、いいか。やるじゃん、レナート。
そう思いながら階段を下りると、玄関にはすでにレナートが待っていた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いや、私も来たばかりだ」
そっと横にいた公爵家の執事を見たら、首を振っていた。どうやら結構待たせていたらしい。レナートの手を借りて王家の馬車に乗った。当然馬車では二人きりになるはずもなく、件の側近の青年も乗っていた。
青年の説明によると、あの後カシャーリ男爵はあっさり逮捕されたそうだ。レナートが指示して集めた証拠は完璧で、男爵は現在牢に入っており家族は自宅で軟禁されている。
レナートの婚約破棄騒動は、男爵の悪事を暴くためにプラチドやアイーダも協力して一芝居うったという設定にしたらしい。そこに私が絡んでいる時点でとても無理のある話ではあるが、王家がそう通達したので誰もそれに異を唱えることはできない。
「あれ? じゃあ、レナート殿下とアイーダの婚約破棄はなかったことになったのでは?」
「そこは普通に、想い合っている二人を結婚させた、というだけです。お互いに身分に申し分はないわけですし」
側近の青年は眼鏡をキリっと上げながら淡々と説明した。レナートは窓枠に肘をついて外を見ている。
「へえ、じゃあ、何もかも丸く納まったってことですね。レナート殿下はこのまま王太子になるんですね」
レナートはなぜかむすっとしている。
「私はこのまま廃嫡でも良かったのだがな」
「何をおっしゃっているのですか」
側近は丁寧な口調ながらも呆れたようにため息をついた。台本ではレナートを断罪する役だった彼だが、もしレナートが本当に廃嫡されてもそばで仕えるつもりだったのだろう。とてもレナートを裏切るような人には見えない。
何ともご都合主義ではあるが、大国ともなるとそうやって国を守っていくものなのかもしれない。
田舎の小国出身の私は足をパタパタとさせて外を見ていた。視線を感じて振り向くと、レナートと目が合った。
「あら、殿下。ずいぶんと顔色が良くなりましたね。たくさん眠れましたか?」
「ああ。寝る前に君のことを思い出したら心が温かくなって、数年ぶりによく眠れたよ」
レナートは胸に手を当て、ほう、とうっとりと息を吐いた。側近がぎょっとしてレナートを振り返る。何でそんな誤解を招くような言い方をするのだ。私はあわてて両手を大きく振った。
「違います! 弟を寝かしつける時にする方法を教えたんです! よく眠れるんです」
「な、なるほど」
レナートは片手で口を押さえてくつくつと笑っている。ちくしょう、からかわれたのか。
馬車が止まり窓から外を確認すると、見上げる程大きな屋敷の前だった。マルバール亭は庶民臭い店名とは程遠い、一見王宮かと見間違えるほど豪華な建物だった。通された個室は実家の私の部屋よりも広く、どこを見ても高級な家具や調度品があふれていた。
「さすが、王子の来る店」
「私しかいないので、マナーなど気にせずたくさん食べてくれ」
「レナート殿下も同じくらい食べてくださいよ」
「はは、お言葉に甘えさせてもらおう」
広々としているが一分の隙もない室内に始めは落ち着かなかったが、レナートが学園でのことなどを上手に聞き出してくれたので、少々、いやかなり一方的に私が話し続け、気付いたらすっかりリラックスしていた。聞き上手な王子おすすめのステーキも大変美味しかった。
食後のデザートを食べていると、レナートの側近がやってきた。その様子から早急な用事なのがわかったので、どうぞ、と促すと、レナートは席を立ち部屋を出た。一人デザートを堪能し、給仕が淹れてくれたおかわりの紅茶を飲んでいたら、再び部屋の扉をノックされた。返事をする前に扉は開き、騎士服を着た男性が慌てて入ってきた。
「お嬢様、レナート殿下は緊急の用事で先に帰られましたので、代わりにお迎えにあがりました。申し訳ありませんが、至急帰り支度を」
「あら、そう。お忙しいこと」
給仕の女の子と顔を見合わせた後、私は支度をして部屋を出た。騎士の後ろをついて行き、来たときとは違う豪華な玄関から馬車に乗った。
この店に来たのも初めてで、そもそも他国の人間である私は知らなかったのだ。
豪華に見えた玄関はこの店では一番質素な従業員用の玄関で、男性の着ていた騎士服はこの国の騎士団の制服ではなかった。
あっさり誘拐された私は既に馬車から外を眺めていた。どう見ても郊外に連れて行かれているのに今頃気付いて、どうしたものかと考えていた。
隣の小国の公爵令嬢を誘拐したところで、手間を考えたら身代金の要求ではないはずだ。第一王子と食事なんてしたもんだから、何かしら勘違いされたに違いない。現在貴族の間で次の王太子は誰だレースが始まっているのだから。でもレナートと私は何にもない。ほぼ他人だ。それに犯人が気付いてしまったらきっと人知れず始末されてしまうだろう。
馬車が止まったタイミングで抜け出して、馬を奪って逃げるか。
馬車ごと崖から落とされたらたまったもんじゃない。気取った靴なんて履いてくるんじゃなかったわ。ていうか、誘拐される前提で準備してくるかっつーの!
ということを考えながら狭い座席で準備運動をしていたら、馬車が突然止まった。外を窺うとそこは林の中だった。隠れるように建っている山小屋の扉が開き、中から数人の男女が走ってくる。
私は考えるよりも先に馬車を飛び降り全力で走り出した。足の速さには自信があったが、騎士には敵うはずもなくあっさり囲まれてしまった。
「ちょっと! ……ハァハァ……令嬢が走るとか、あんた……何なの」
ゼイゼイと息を切らせてやっと追いついてきた少女を見ると、何となく見覚えがあった。
「あら、あなた……カ……ガ……? ……ガッチャン男爵令嬢?」
「カシャーリ男爵よ!」
そこにいたのはカシャーリ男爵令嬢のエレオノラだった。
「あなた、自宅で軟禁されてるんじゃ」
「そうよ! このままだと処刑されるだけだから、あんたを誘拐して身代金もらって国外へ逃げるわ!」
「うわあ、全部言っちゃってる!」
それはないだろう、と最初に否定した一番頭の悪い誘拐を起こしてしまったようだ。うちの公爵家から身代金が届くまで何日かかると思ってるんだろう。
「思ったこと全部口から出ちゃう系令嬢て私くらいかと思った」
「何よ、それ。ぐたぐた喋ってないで、髪のひと房よこしなさいよ。アンノバッチー公爵家に送り付けるんだから」
「アンノヴァッツィ、よ。下品な呼び方しないで」
「発音しづらいのよ! いいから早く! 髪でも指でも切り取っちゃいなさい!」
エレオノラがそう叫ぶと、周りにいた3人の騎士が私に手を伸ばした。
「ちょっと! さわらないでよ! あんたたち、今どういう状況かわかってるの!?」
「お前こそわかってるのか!?」
騎士の一人が眉をひそめて私を睨んだ。
「あんたたち雇われの騎士でしょ? 今のやり取り見てて、この誘拐がうまく行くとでも思ったの? こんなアホ令嬢の言う事聞いて逃げ切れるとでも思ってんの」
図星だったのか、騎士たちは気まずそうにひるんだ。
「今ならまだ戻れるわよ」
「騙されないで! あんたたちはもう片足つっこんでるのよ。自首したところで公爵令嬢誘拐は死罪だわ」
「片足どころかどっぷり両足つっこんでるわよ」
「あんたの国ってこんな令嬢が普通なの!? ムーロ王国にだけは逃げるのやめるわ」
「失礼な事言わないで! こんなんなのは私だけよ!」
私がエレオノラに掴みかかろうと手を伸ばすと、その先をさっと剣で防がれた。焦れた騎士のひとりが剣を抜いたのだ。
「いい加減にしろ。俺たちは金さえ手に入ればそれでいいんだ」
首元に剣を当てられ、私は動きを止めて騎士を睨んだ。黙った私に気を良くしたエレオノラが私の背後にまわった。
「最初から大人しくしていればいいのよ。私はただ母様と逃げられればいいだけなんだから」
エレオノラは私の髪をひとつかみ左手で握り、騎士へ目配せをした。騎士が私の首元から剣を外し髪を切ろうとした瞬間。私はエレオノラの腕をひき、全力で彼女を騎士にぶつけた。
「きゃあ!」
体勢をくずしてエレオノラを受け止めた騎士に足払いし、私は再び走って逃げた。林の開けた広い場所を見つけ、すぐ後ろまで迫っていた二人の騎士の位置をすかさず確認した。そこで急に立ち止まり振り返る。振り返った勢いのまま左手を振り下ろし一人目の騎士の首に手刀を入れた。
に!
右から殴りかかってきたもう一人の騎士の拳を右手のひじで払う。
いち!
そのまま体を反転し、左足で回し蹴りを決めた。
はち!
その後も相手の攻撃を全てかわし、剣を抜く暇をあたえずにすばやく打撃を入れた。
我がアンノヴァッツィ公爵家は、全部で80種類ある型を組み合わせて戦う武道の名家だ。奇数は防御、偶数は攻撃。相手に合わせて組み合わせ、時には合わせ技にして戦うのだ。全ての型を覚え、とっさの判断で組み合わせるのが私が5姉妹の中で一番うまかった。だから、弟が生まれるまでは私が跡取り候補だった。
上空からの頭突きが決まり一人の騎士が崩れ落ちた。着地したらもう一人に踵落としだ。最後の一人の位置を確認しておこう、と空中で視線を林に移すと、視界の端に金髪の青年を先頭に騎士の姿が見えた。その後ろには武装していない貴族の青年たちが立っている。
全員が、ぽかんとして私を見上げていた。
すん、と血の気の引いた私はそのまま地面に着地した勢いのまま頭を低くしてしゃがみこんだ。私を殴ろうとした騎士の拳が空を切る。
「やだぁーーーー!! こわぁーーーい!!」
両手で顔を覆った私は頭を下げるついでに騎士の股間へ思い切り頭突きしておいた。騎士が言葉にならない声をあげて内股で倒れ込む。
バタバタと走る音がして、倒れた敵をルビーニ王国の騎士たちが捕縛した。
「マリーア嬢。無事で良かった」
指の隙間からちらっと確認したが、やっぱりあの金髪はレナートだった。
「違うんです、殿下」
「何がだ」
「これは、私の本意ではなく」
「すばらしい身のこなしだった。早くて見えない瞬間もあった」
「どこから見てたんですか」
「エレオノラを突き飛ばしたあたりから」
「全部見られてた!」
終わった! 私の令嬢生活終わった!
私は地面に突っ伏して悶絶しようと身を倒そうとしたら、すかさずレナートに横抱きにされてしまった。
「ぎゃあ、何するんですか! 殿下!」
「怪我はないか、マリーア嬢。とりあえず安全な場所へ移動しよう」
歩けます、離して、と言って暴れてもレナートは下ろしてくれなかった。山小屋の辺りでは騎士たちが数人の男女を縛り上げている。その中にはエレオノラもいた。
レナートは待たせていた王家の馬車に乗り込み、横抱きにした私をそのまま膝に乗せて座席に座った。
「軟禁されていたカシャーリ男爵家の者たちが逃げ出したと言う知らせが届いてね。捕獲の指示を出して部屋へ戻ったらあなたがいなかった。給仕や他の従業員の証言からすぐに馬車を追って来たんだ」
全く気付かなかった。逃げ出さずに大人しくしていればすぐに助けてもらえたのに。私は自分の浅慮に心底がっかりして脱力した。それを甘えているのだと勘違いしたレナートがぎゅっと私を抱きしめた。
「突然巻き込まれ、誘拐され、怖かっただろう。かわいそうに」
レナートは目を細め、心底心配してくれている様子だった。
私はアンノヴァッツィ公爵家の後継者として育てられたが故に、そんじょそこらの騎士よりも強く、自分の身を心配されたことなどなかった。かわいそう、なんて嫌味でしか言われたことがない。
初めて与えられた純粋な優しさに、私はつい涙が出そうになった。
「殿下。追いかけてきてくれて、ありがとうございました」
「何を言うんだ、当然だろう」
数日前に出会ったばかりの小国の令嬢を、第一王子自ら助けにきてくれるなんて。さすが大国は違うな。きっと国民ひとりひとりのことを大切にしているのね。
鼻をぐすりとすすると、レナートがくすりと笑った。見るからに高級そうなハンカチで鼻水を拭いてくれた。馬車が微かに揺れ、窓の景色がゆっくりと動き出した。
「マリーア嬢……私も、ミミ、と呼んでいいだろうか」
「え? はあ、どうぞ」
「ありがとう、ミミ。私は昨夜、眠る前に君のことを思い出したらよく眠れたんだ」
レナートは王太子になるための勉強に忙しかったのもあるが、アイーダとプラチドのことにも心を痛めここ数年不眠だった。それが、私の変顔を思い出したら悩みを忘れてゆっくりと眠れたそうだ。
「あの10の数え歌がまさか優れた攻防の型だったとはね。あなたの戦う姿を見たら、目の前の霧が晴れ目が覚めたような気分だ」
「そうでしょうね、私も私みたいな令嬢を見たことないですもの。それにしても、レナート殿下、そろそろ下ろしてください」
膝から降りようとした私をレナートはがっちりと押さえた。意外と力があり、しばらくの間じたばたと暴れたがなぜか彼の腕はほどけなかった。
「そして、あなたの言う通り睡眠を取り満腹になったら、気持ちが前向きになった。そして、素晴らしい考えに導かれた」
「神の啓示でも受けたみたいな表情ですね」
「まさに神の導きかもしれないね。ミミ、私と結婚してほしい」
「……はい?」
さすが王家の馬車は全く揺れない。微かに聞こえる馬の駈足だけが車内を埋める。
レナートはニコニコしたまま私の言葉を待っているようだ。
「いや、何言ってるんですか」
「優良物件を紹介すると約束しただろう」
「レナート殿下より優良な物件はこの国にはおりません」
「うわあ! いつからいたんですか!」
いつの間にか向かいの座席の端っこにレナートの側近が座っていた。あまりの気配の無さに全く気付かなかった。
「最初からいます。いきなり二人きりにさせるわけがないでしょう」
「ここまで優良な物件は求めていません」
「自国の王子とは比べものにならない位かっこいい、と言ってくれたではないか」
「それも聞かれてたとは!」
私の心の声が大きすぎるのかレナートが地獄耳なのか、もうどっちかに違いない。
「マリーア嬢、既にムーロ王国のあなたのご実家に婚約の打診の文書を出しました」
側近が手元の書類に目を落としたまま言った。
「しっかりと王家の紋章を入れた文書です」
「それ、断れないやつ!」
「自分で自分の身を守れる王太子妃なんて、こちらとしては願ったり叶ったりです」
「ミミ、良い返事がもらえると信じている」
レナートがにっこりと笑った。その笑顔があまりにも美しくて、私は見とれてしまった。それを諾と見なしたレナートが改めて私を抱き直す。
「いや、私、跡継ぎの勉強しかしてこなかったので、この通り淑女教育がまだまだで」
「義理の妹になるアイーダ嬢から教わればよい」
「何年かかるか」
「何年かかってもよい」
「私のことアイーダと間違えたくせに!」
「かりそめでも私の婚約者ならこっちの健康そうなほうがいいな、と希望を込めてあなたの腕を掴んだ」
アイーダよりタイプだった、と婉曲に言われて私はかあっと頬が赤くなった。
「そうか、私と結婚してくれるか」
「そんなこと言ってないし!」
「そうか、とても幸せな気分だ」
「聞いて!」
全くかみ合わない私たちの会話を、側近の彼は目を細めて聞いていた。
後日、私の実家から婚約の承諾の書類と一緒に私宛の手紙が届き、
―――自分で伴侶を探して来いとは言ったが、そこまで大物を釣ってこいとは言っていない。
と、ただ一行だけ書いてあったのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
物理的に敵をボコボコにしたらスッキリするよね! っていう話です。
このお話の続編もあります。(https://ncode.syosetu.com/n3394gq/)
タイトル上のシリーズのリンクか作者マイページからどうぞー
よろしくお願いします!




