1-5.先代聖女の衣
夜の帳に覆われた中に蛍のような光がぽつぽつと灯っている。
その光に照らされて浮かび上がるのは白を基調とした建物たち。王都エトワールの街並みは、写真でしか見たことのない地中海沿岸の国の風景に少し似ていると私は思った。
「……きれい」
ほぅと息をこぼすように感動が漏れる。
蛍のような光には青が混じっているのか、白色の壁を淡く照らし、夜空をキャンバスにして描かれた絵のように街並みが浮かび上がっている。
例え似ていようとこんな幻想的な風景をあっちの世界では絶対に見られない。星の瞬きでさえも違って見える。
本当に、美しい。
ぜひカメラに映して、綺麗なものが見たくなったときに見返したい。手元にスマートフォンが無いのを惜しく思う。
記憶に焼き付けて忘れないよう、隣に王子がいることも忘れて私はしばらくエトワールの街をぼうっと眺め続けた。
「気に入ってくれたみたいだね」
「あっ、ごめん。話がしたいって言ってたのに、つい見惚れて……」
「ううん、いいんだ。……気に入ってくれて嬉しい」
夕焼け色の瞳には言葉通りの感情を滲ませて王子が淡く微笑む。
その微笑みに胸の奥が小さく跳ねた。
月明かりに晒されて煌めく金色の髪が眩しくて、そして美しい。
そんな見目麗しい異世界の王子と幻想的な風景を前にしているというロマンチックな状況であることに、ふと気づいてしまった。
意識した途端、頬に熱が集中する。これからするであろう話はそういうのではないというのに。お酒が入って緩くなった思考と、ショックは和らいだとはいえ失恋直後の心が新しいときめきを欲しているのだろうか。
────異世界の王子相手はなしだと、私は頭の中が描き始めた夢を振り払った。
「……美しいのは、エトワールだけじゃない。どの都も、全部、美しいんだ。本当に」
王子の横顔をちらりと見つめる。彼は宝物を眺めるような眼差しで街を見ていた。
「とても大事に思ってるんだね」
「ああ。守るべき国を愛さないはずがないよ」
それもそうかと思った。
王子ということは、いつかこの国を治める王となる。他に兄弟もいないなら、きっとアストライア王子がそうなるのだろう。
「魔王が残した瘴気は、この国を着実に蝕んできている。結界の張られた町のなかにも噴き出て、すでに一部の小さな町や村ではそこに住んでいた人々が家を捨てざるを得ない状況にまで追い込まれている。瘴気に当てられて、病に倒れた者も……死んだ者も、いる」
言葉の端々から、彼が本当に国を大事に想っていることが伝わってくる。
被害にあった人々のことを語る彼の声は苦しそうで、聞いている私も胸が締め付けられる思いがした。
食事の間は私が話してばかりだった。今度は自分が聞く番だと、静かに語り始めたアストライアの声に耳を傾け続ける。
「これ以上、大切な人が傷つくのを、俺はもう見たくない」
大切な人、と言ったときの彼の表情はこれまで見た中で一番悲しげだった。
(……もしかして、好きな人が瘴気に……?)
女の勘、というやつである。
だって彼はこの国の王子だ。政治的関係で婚約者がいたり、幼い頃から将来を約束した人がいるに決まっている。
もしかすると、その人が病に倒れたのか、または────。
悲しい想像が頭に浮かんで心が苦しい。
大事な人を失った痛みは、痛いほどに私も知っている。
「そのためにやれることは何だってやる。それが俺の王子としての責任であり、王となる者の使命だから」
そこで言葉を切って、アストライアの視線が街から私へと移された。
ぱっと目が合って、真摯さを帯びた夕焼け色に背筋が伸びる。こちらもちゃんと応えなければいけない気になる。
「……ヒマリ。突然喚び出した上に、勝手なお願いだとは分かっている。それでも……どうか、俺と一緒にこの国を救って欲しい。聖女であるキミの力が必要なんだ」
王子のまっすぐな想いと言葉が柔らかく突き刺さる。
王子の助けになりたいとは思う。
だが、世界を救うなんて大それたことが私に出来るとはどうしても思えない。
そもそもここは私が生きてきた世界ではない。
あちらとは違う、想像もできないような危険があるはずだ。過去に魔王なんてものがいたくらいだから、きっとモンスターだって存在している。
それに聖女の資質ある者として私が選ばれたということだけど、自分のどこにそんな大きな力が隠れているというのかいまいちピンと来ていない。
だから私はすぐに応えることが出来なかった。
応えたいのに応えられないジレンマがちくちくと胸を痛めつける。
そんな私の心情を察したのだろう。眉尻を下げた綺麗な顔に苦笑が浮かんだ。
「……やっぱり、すぐに答えなんて決まらないか」
「……ごめん。私に出来ることなら助けたいとは思うんだけど……」
「いや、いいんだ。ヒマリがいた世界とレアスは色々違うみたいだし、キミの反応は至って普通のことだよ」
詫びる私に王子は小さく首を振った。
私をフォローしてくれる優しさに胸を突かれる。申し訳ないという思いが胸の中に広がった。
「……ただ、ひとつだけ今すぐやってほしいことがあるんだ」
「今すぐ?」
「ああ。……実は先代の聖女様がお召になられていた衣があるんだ」
「聖女様の服って、こと?」
首を傾げる私にアストライア王子は頷いて「それを着て欲しい」と言った。
「衣には先代聖女様の力の一部が付与されているんだけど、召喚の儀で喚び出した人が一度でも着ないと効力を発揮しないんだ」
「そうなんだ……」
「一度発揮されればしばらくは持続するから、これだけ……協力してくれないかな?」
本当に着るだけでいいから。
私の顔色を窺うように申し訳なさそうに言われたら、世界救済に協力できるか応えられなかった手前、こんな簡単なことを断れはしなかった。
「いいよ。着るだけなら、間違いなく私にも出来ることだし」
「──っ、ありがとう」
素直に頷くと王子はほっとしたように笑った。そのあとで彼は後ろを振り返り、バルコニーの出入り口で控えていたエイルに目配せをしていた。
食堂の明かりが漏れて逆光の中にいるエイルの手の上に注目した。
可愛らしい彼女の手の上に服らしきものが見える。おそらくそれが聖女の衣なのだろう。元々断られてもこれだけは頼むつもりだったのか、用意が早い。
(……あれ?)
光を抜けて月明かりの下に出たエイルの手元に、見覚えがあるように思う。
緑を基調としたデザインと思われる一式。それが見覚えどころかよく知る物であることに気付いた途端、衝撃が走った。私の頭の中にクエスチョンマークが次々と浮かび上がる。
(え? えっ?)
気泡のようにポコポコと浮かぶ疑問符が頭の中を埋め尽くす。
私の前にとうとうそれが差し出された。
「これが先代聖女様がお召になられていたセイラ服だ」
「花桜学園のセーラー服!?」
同じようで少し違う響きの単語が重なった。
突然大きな声を出してアストライアを驚かせてしまったが、彼よりも絶対私のほうが驚いている。
「すごいな。聖女様の衣はヒマリの世界でも有名なんだ?」
「有名っていうか……!」
花桜学園は私の母校なのだから知ってて当然だ。
公立高校で男女ともに制服が格好いい可愛いと地元一有名な人気校で、この学舎を第一希望に目指す学生が年々増えていくほどだ。私もその一人だった。
でも私がここを目指した理由は、大好きな母が通っていたから。この学舎に入学することは私の幼い頃からの目標であり、夢だった。
しかも目の前にあるのは、私が中学二年の頃にデザインが一新されてしまい着ることは叶わなかった旧デザイン仕様。
それが今目の前にある。憧れていた、かつて母も着ていたセーラー服が。
(どうしてこれがこんなところに……!?)
頭の中を埋め尽くした記号を押し退け疑問が言葉になって浮かぶ。
(……お母さん)
いつか写真で見せてもらった高校生の頃の母が脳裏に蘇る。
母は綺麗な人だった。満開の桜のような笑みを浮かべた制服姿の母を見て、私もいつかこれを着たいと思ったのだ。
優しくて明るい母のようになりたかったから。
母が着ていた制服は事情があって手放してしまったらしい。
実際に目にすることも触れることも出来なかった憧れとここで再会することになろうとは、一体誰が想像できただろう。
私は戸惑いながらも、差し出された制服を受け取った。
「ヒマリ様、どうぞこちらへ」
憧れのセーラー服に母の面影を抱いてしまった私はそれをぼーっと見つめていた。
「はっ!?」
ふと我に返ったときには、筒状の幕の中に入っていた。
エイルが何かを言いながら幕を閉めると同時に頭上で小さな光がぽわっと灯る。
そこは衣料店の試着室ほどの空間で、しかも防音性に優れているらしい。無意識に漏れ出た声は反響することもなく周囲を覆う紺色の布へと吸い込まれていた。
手元のセーラー服に視線を落とし、しばらく無言で手元の布地を見つめる。
緑のタータンチェック柄のセーラー襟。
薄いグリーンの布地に、光沢のある緑色のスカーフ。
胸ポケットには桜を模した校章。
そして、襟の柄とお揃いの袖口とプリーツスカート。
(これが聖女の衣ってどういうこと!?)
冷静になってようやく生まれたそもそもの疑問だった。
(そういえば先代の人も異世界から召喚したって……)
それが私と同じ地球に住む人間で、しかも花桜学園の女子生徒だったということなのだろうか。
でも、先代の召喚は二五〇年も前だと聞いている。
花桜学園は私の在籍時に創立五十年を迎えていた。これでは計算が合わない。レアスと地球では時の流れが違うのだとしたらあり得るかもしれない。それでもこんなに大きくズレるものなのだろうか。
綺麗に畳まれた制服を足元に置き、上衣を手に取って開いてみる。
すると白い物体がスカートの上にぽとっと落ちた。
形状から見るに靴下だ。しかし普通のソックスより布地が厚めのようで、レッグ部分がやけに長い。膝上どころかそのまま履いたら太腿まで覆ってしまいそうだ。
この靴下の正体を私は知っている。
だって写真で見た母もこれを履いていたから。
母が現役女子高生だった当時に大流行したもの、それは────。
(…………ルーズソックス!?)
布を織り込んでヒダを作り、自分にとって最も良いところで靴下がずり下がらないように固定用の糊で接着して着用する。あのルーズソックスだ。
この一日で様々な衝撃と出会ったせいか、頭がクラクラする。
夢から醒めた瞬間のような現実感が私を包んでいる。
母親の面影を感じていようが、憧れていたあの頃を思い出していようが、冷静になって考えよう。
私は、これから、コレを、着る。
花桜学園のセーラー服を、当時のコギャルスタイルで。
(一回着るだけだとしても、二十五にもなってセーラー服はちょっと……!)
先代聖女がどんな人物だったのか、ギャルはギャルでも母のような清楚めのギャルだったのか、それともガングロかまたはマンバなのか、クラクラする頭がどうでもいいことを気にし始める。私は混乱していた。
てっきり、聖女と言うだけあって白を基調とした清楚な衣装なのだと思っていたのに。だから、私は着ると言ったのだ。
それなのにそれが九十年代または二十年代の女子高生スタイルとは一体どういうことか。
────先代は母と同世代の女子高生だったのかもしれない。
(うわぁ、スカート短っ……!)
上衣を置いて持ち上げたプリーツスカートは、屈んだら下着が見えてしまいそうなほどの丈だった。見せパンはないの、見せパンは……!
(……くそぅ、課長の娘さんを思い出しちゃった)
スマートフォンの画面いっぱいに映された少女。若い女性の瑞々しさが全面に表れていて、課長に似ず、奥様に似たのかそれはそれは可憐だった。
緑色のタータンチェックのセーラー襟だけは変わらなくて、いつか私も着た白地に桃色のリボンという組み合わせの制服がとてもよく似合っていた。
それに対し、私は八歳も下の女性に恋人を持っていかれたアラサーだ。自分で言ってて悲しくなっちゃった。
(着るって言っちゃったし、仕方ないか……)
たった一回、たった一回着るだけ。それだけでいいし、ここは異世界だから知り合いに見られるということもない。
それに幼い頃から憧れていたセーラー服に袖を通すことができるのは、ちょっぴり嬉しい。
あの時叶わなかった夢がここで叶う。できればもう少し若い時に着たかったけれども。少しでもポジティブに思考を持っていこう。
そうして私は空色のドレスを脱いで、あの頃の憧れを身に纏い始める。
ソックタッチが無いので固定はできなかったけれど、ルーズソックスもちゃんとヒダを作って履いた。
最後にスカーフを襟の下に通しリボン結びをすると、その瞬間私の身体中にあたたかいものがぱぁっと広がった。
頭の先からつま先、指と指の間も余すところなく見えない膜に包まれたかのような感覚。
衣に残る聖女の力が復活したのかもしれない。
着替えを終えた私は天幕を開いた。
そばにはエイルが控えていた。ちゃんとローファーもあったようで、さっき穿いていたヒールではなくそちらに爪先を入れる。
ローファーを履くのも久しぶりだ。これも先代が使っていたのか、革に皺が入っていて年季を感じる。
アストライア王子は、こちらに背を向けて王都の街並みを眺めていた。
金糸の髪がふわりと靡いて、私の登場に気づいた王子がゆっくりと振り向く。
「……着てみたけど、これで大丈夫?」
こちらを振り向いたアストライアに問いかける。
裾が短くてスースーする。
心許ない感覚がどうも落ち着かなくて、早く脱ぎたい。そう思ったとき、私の姿を目に留めた王子の顔に笑みが広がった。
その笑みは悪さを携えていた。これまでの彼には見られなかった、黒さを感じた瞬間だった。
「……フフッ。聖女というからには聡い人だと思ったんだけど、来てくれたのがキミみたいに少し馬鹿な人で本当によかったよ」
人を小馬鹿にするような口調でニヤリと笑った彼には、爽やかさの欠片も見当たらない。
態度を一変させたアストライア王子に私は眉を顰めた。
「は?」
「それ、もう脱げないよ。アンタが世界を救ってくれるまで」
「はぁぁぁぁぁ!?」
意地悪い笑みで告げられた言葉に対する私の声が辺りいっぱいに広がる。
混乱した私はその場でセーラー服を脱ごうと試みて、上衣の裾を掴んだ。
でも、固定されたように持ち上げられずびくともしなかった。
感触は間違いなくただの布だというのに、硬い石のように曲がりもしない。
「何これ!? 何で脱げないの!?」
動けばひらひらと裾が揺れるのに、スカートも脱げない。
試しにリボンを解いたらそれは解けた。ローファーだってすぽっと簡単に脱げた。
それでもやっぱりセーラー服は脱げません。
ルーズソックスもずり下がることなく綺麗なヒダを保ったまま、私の脚を包んでいた。
こうなると、不安がひとつ思い浮かぶ。
「ねぇ、これお風呂どうするの!?」
毎日の楽しみ、至福のバスタイム。
それを奪われたのはどうやっても脱げないセーラー服が教えてくれていた。