1-1.本命はセーラー服の美少女
母と入る風呂の時間が、私は大好きだった。
私を育てるために、母は夜遅くまで働いていた。
一緒に食事は摂れなくても娘との時間を少しでも作るためにと、必ず二十一時までには帰ってきてくれる。
私も母が帰ってきてすぐ一緒にお風呂に入れるように、宿題も食事の後片付けも明日の準備も全部済ませるようにしていた。それくらい、母と過ごす時間が大切だった。
お風呂での母は、私の話の聞き役だ。
今日学校でこんなことがあった。テレビでこんな場面があっておもしろかった。そんな他愛のないことを、私は一生懸命母へと話し続ける。
私を見つめる母の眼差しは優しく、うんうんと私の話に耳を傾けてくれるのがとても嬉しくて、湯舟で温まった身体はよりあたたかい気持ちに包まれた。
母を独占できる、あたたかな時間。
私はそれが本当に嬉しくて、シャンプーをしている間も身体を洗っているときもずっとずっと喋りっぱなしだった。
口の中に泡が入り噎せてしまっても、母がいなかった時間を埋めたくて、ほんの些細な出来事まで私の口から言葉が飛び出していく。
お風呂の時間はそうしているとあっという間で──
『さて、そろそろ上がろっか』
だから、その母の一言にいつもさみしい気持ちになった。
それでも我慢して私は母と一緒に風呂を出る。
本当はさみしい。
もっといっぱい話をしたい。
母と遊びたい。
そう思っていたけれど、言えば母を悲しませることを分かっていたので、私は本音を心の片隅に追いやっては笑顔を作っていた。
だって、母は私のために頑張っているんだから。
おばあちゃんも一緒に住んでいたから、本当は寂しくなんてなかったんだけど。でも、そういう寂しさじゃない。
そんな幼少期を過ごした私にとって風呂は特別な時間だ。
年頃に成長して独りで入るようになってからも、私の癒やしに変わりなかった。
母は、私が十五のときに亡くなった。
でも、あたたかい湯に浸かればいつだって母を思い出せる。
優しい母とのあたたかい時間に包まれて、辛かったこともすぐに忘れられる。自分は独りじゃないって思える。
明日も頑張ろう、幸せになるために。
そう意気込んで再び立ち上がることが出来る。
────だと言うのに、今の私はなんとも言えない気持ちで風呂に入っている。
それも、とっくの昔に卒業したセーラー服を着て。
緑のタータンチェック柄のセーラー襟。
光沢のある緑色のスカーフ。
胸ポケットには桜を模した校章。
そして、襟とお揃いの柄の袖口とプリーツスカート。
当然のように付属していたソックスはルーズソックスだ。
まさか異世界に来て、これに袖を通すことになるとは思わなかった。
私に着衣のまま風呂に入る趣味なんてない。
ていうか、服も全部脱ぎ捨てて入る湯舟が気持ちいいんだから、服を着たままなんてそもそもあり得ない。
じゃあ、どうしてそんな珍妙なことになっているのかというと──
この日の私は、最悪に襲われ続けていた。
遡ること数時間前、最初に事が起きたのは朝だ。
営業アシスタントとして入社して三年目の秋。いつものようにいつも通りの時刻に出社すると、朝から営業課のフロアがやけに賑わっていた。
課長のデスク周辺で営業課の社員が集まっており、わいわいと和やかな雰囲気で何かを話している。遠目から見ても分かるほどの祝福ムードだった。
(ははん? さては誰か結婚するんだな)
付き合って四年の彼がいると言っていた永宮さんか、それとも別の課に彼女がいる木崎くんか。出社したばかりだった私もデスクに荷物を置いて、誰だろうと予想しながら人垣に近づいてみる。
(……あれ?)
ふと出来た隙間からその人が見えて、私は首を傾げた。
細身の長身で甘いルックス。その上仕事も出来るとなればモテない訳がない、爽やかな笑顔が売りの営業課のエース。人当たりもよく付き合いも良いので、課長や部長たちにも気に入られている。
────私の先輩である、三枝木さん。
この半年間甘いひとときを過ごして来た恋人が人だかりの中心にいた。しかも、デレデレの笑顔を浮かべる課長と一緒にだ。
どうして彼が? そう思って立ち止まっていたら、中心にいる彼と不意に目が合った。しかし、すぐに逸らされてしまう。
違和感がますます大きくなる。結婚報告ではなく、何か仕事でめでたいことがあったのだろうか。
でも今は大きな案件も抱えていないはず────。
「あっ! 天河さんおはよう!」
「おはよう、永宮さん。どうしたの?」
私の考え事は、可愛らしい声に遮られた。
声を掛けてきたのは渦中の人物だと予想した一人、永宮さんだった。
私と彼の関係は誰も知らない。当然、目の前の永宮さんも。だから訳知らぬ風を装い、私はいつも通りの挨拶を返した。
「すごいんだよ、ビッグニュース!」
「えー? なになに?」
目をきらきらと輝かせて興奮気味に言う彼女を微笑ましく思う反面、話題の中心が彼だと察した胸中は複雑だった。
それでも私は努めて明るく、興味深々な風で永宮の話に耳を傾ける。
「三枝木さん、羽柴課長の娘さんと婚約だって!」
「……婚約?」
しかし、次の瞬間、可愛らしい声が言い放った単語は私に衝撃を与えた。
(羽柴課長の……娘さん、って……なんで……?)
恋人は、私のはずでは?
一体どういうことなのかと、混乱する私の胸中をよそに永宮さんは続きを紡ごうとしてくれる。
「そう! なんでもね────」
「ああ、天河くん! キミも聞いてくれるのかね、三枝木くんと娘のことを!」
そこへ割り込んできたのは、羽柴課長だった。でっぷりとしたお腹を揺らしてやってきた課長は、どうやら話したくて話したくてたまらないらしい。
嬉しそうな表情からは見て分かるほどの幸福感が伝わってくる。その課長の後ろでは、彼が曖昧な感じに微笑んでいた。
(……一体、何なの?)
複雑な胸中を隠して聞いた話はこうだった。
不幸なことに、課長の娘さんはあるとき痴漢に遭遇してしまったのだという。
怖くて声も出せずにいたその時助けてくれたのが彼──三枝木さんであった。
娘さんにはさぞヒーローに見えたことだろう。見事彼に一目惚れをしたそうな。
可愛い──それこそ目に入れても痛くない程に可愛がっている娘のピンチを助けてくれたのが、自分のお気に入りの社員であると知り、羽柴課長は娘の恋にノリノリで協力した。
三枝木さんも三枝木さんで最初は遠慮しつつも、食事に誘われれば断ることなく参加し、課長一家との距離を縮めていったとのことだ。
課長の奥様も『結婚はまだ早い』なんて言いつつ、彼の人柄を気に入り今では満更でもないらしい。
そしてついに先日、課長の方から『婿に来ないか』との申し出たところ、三枝木さんが快諾してくれたそうだ。
ありがたくも丁寧に三枝木さんの婚約者となった娘さんの写真を見せてもらったが、課長に似ず笑顔が可愛らしい美少女だった。
──もっと詳しく言えば、私の母校でもある花桜学園のセーラー服を着た美少女。
ああ、薄緑色の襟に桃色のリボンが懐かしい。娘さんは現役の女子高生だった。
まさか、そんな──正直そう思った。
しかもこれは最近の話ではないらしい。三枝木さんが課長の娘さんを助けたのは一年も前のことだった。
私と恋人になる前から、だったんだ。
周りには付き合っていることを秘密にしていたから、課長や大勢の前で詰め寄ることもできない。そのまま就業開始時間となり、その場は解散となった。
私はどうにか業務中に隙をみて三枝木さんと接触できないかと試みる。
だけど、あっちはあっちで私を避けているようで、就業開始早々に「外回りに行く」と言って昼まで戻ってこなかった。どうやら私に対して気まずさを覚えるくらいには、今回のことにうしろめたさを感じてくれているようだ。
彼からようやくメッセージが届いたのは、昼休憩になってからだ。
『そういうことだから』
そのたった一言だけ。
私がそれを受信したのは、非常階段の踊り場。
二人の逢瀬の場として使っていたところで、もしかしたらここで待っているかもしれないと思ってやって来たところだった。
まったくもって意味が分からない。
「そういうことって、どういうことだっつーの!」
ビルとビルの間を通り抜ける風に、私の叫びは攫われていった。
天河聖鞠、この世に生を受けて早くも二十五年。
初めてのお付き合いは高校一年生。
相手は友人に紹介された大学生で、彼は会いたい=ヤりたいだった。母から初めての相手は慎重に選びなさいと教えられていたので、私はたった一週間で彼とのお別れを決めた。
次は奨学金制度を利用して入学した大学一年の春こと、相手は同じ大学の一年生だった。
その頃、おばあちゃんが入院したりでほとんど独りの生活をしていたので、生活費や返済する奨学金のためにバイト三昧をしていた。
ある時、彼が偶然にも私のバイト先に食事をしに来たのだけど、連れていたのが知らない女の子だった。
親密そうにしていたので、空気を読んだ私はその場でお別れメールをお送りした。
その次は大学三年生の夏。友達と行った海で知り合った、社会人二年目の人だ。
前回の反省を踏まえ、彼との時間をちゃんと取るようにしていたら、お金をせびられるようになった。
貸したけど、なかなか返済されないお金。
私にも生活があるから返してくれないと困る、と突き詰めたら「パチンコに使ってお金がない」と告白された。お金は諦めてお別れした。
そして、次。
入社した会社で私の育成担当だった人──三枝木さん。
格好良くて、ミスをした私に厳しいことを言いつつも、あとでばっちりフォローしてくれて。
仕事も出来て、皆からも頼られて、独りぼっちだった私にはそんな彼が眩しく見えた。だから、恋をするまでそう時間は掛からなかった。
しかし三枝木さんはやはりモテる。言い寄る女性は数知れず、だ。
それでも今は仕事が恋人だからと断っているのを知っていたから、私も特に告白するなんて考えていなかった。
近くにいられればそれでいい、そう思っていた。
だけど、きっかけさえあれば関係なんて簡単に変わる。
それは今から半年前のこと。
大きめのプロジェクトがひと段落して、課の皆とした打ち上げでのことだった。
────二人で飲み直さないか。
三枝木さんからそんな誘いをされて、断れるわけがない。
むしろ、期待してしまった。
そして、彼となら──そう思って初めてを捧げた。
皆に気を遣わせてしまうから内緒にしようと言われ、社内恋愛ってそういうものだと思って納得した。
人目を忍んで、非常階段の踊り場で、時には私の部屋で二人のときを過ごす。
休日にデートをしたことも無ければ、彼の部屋に呼ばれたこともない。彼を慕う後輩が来るかもしれないし、会社の人間に会ってしまうかもしれないから、そう言われて。
────そういうことだから。
過去の経験を踏まえて考えれば、それがどういう意味なのかは容易く想像できる。
端的に言うと、私は弄ばれた。
というか想像せずとも、非常階段に来る前に立ち寄った女子トイレで私は答えを得ていた。
自分の他にも、彼の相手が存在していたから。
人並み以上に性欲のある三十手前の男が、高校生との健全なお付き合い耐えられるだろうか?
──いいや、耐えられない。そういうことだ。
十五の頃に母が亡くなりそれからは祖母との二人暮らしだったけれど、その祖母も私が二十歳の時に亡くなった。それから私は独りだった。
身寄りもなく、独りぼっちで、しかも自分を好いている相手。
正直、ちょろいと思われたのだろう。
──最悪だった。
最悪過ぎて、その後どう仕事を乗り切ったか覚えていない。
次から次へと雑用を引き受けとにかく仕事に没頭した、と思う。
気づいたらとっくに会社を出て、私は帰りの電車の中に乗っていた。
最寄り駅を降りたら、ザーザーと雨が降っていて、とぼとぼと歩きながら泣いた。
無情にも降り続ける雨によって、あっという間に顔も全身もびちゃびちゃのぐしょぐしょになって気持ちが悪い。
でも急いで帰りたくても、そんな気力なんてどこにも残っていない。
そうしてようやく辿り着いたアパート。
涙と雨に濡れた視界で足元がよく見えなかったせいで、私は階段を踏み外してしまった。
「──きゃっ……!」
手すりに掴まろうと握り締めていたバッグを咄嗟に手離した。
階段の上にボトッと落ちた鞄からこぼれた中身が、階段を転がり落ちていく。
背後に傾いでいく身体。
濡れた手ではつるつるの手すりは滑ってしまい、掴めなかった。
落ちる。
私も、鞄の中身のようにゴロゴロと。
その時だった。眩しい光が私を照らしたのは。
アパートの照明もしくは雷かと最初は思ったんだけど、その光は蛍光灯とは全く違う種類の光に思えた。
とにかく眩しすぎる。
瞼の裏まで突き抜ける眩しい白金に、私は閉じた目を開けなかった。
それから間もなく、私の背中が──ぽすん、という柔らかな衝撃を捉えた。
予想したものとは全く違う衝撃におそるおそる目を開いてみれば──
「レアスへようこそおいでくださいました。聖女様」
眩しい微笑を携えた、眉目秀麗な青年が私を抱えていた。