苦くて苦しい
永遠に降り続ける雪。それは時間が経つと共に高く、そして深く積もっていく。凍てつくような寒さの夜、白い息を吐きながらその中を歩くのは私ただ一人。終わりの見えない旅路に、不安と焦りを募らせていた。
その道中、長いトンネルを抜けるかのように突然現れた光は、瞬く間に辺りの雪を溶かしていった。全て消えて虚無となった世界で私は茫然と立ち尽くす。
「ねぇ、ここから抜け出そうよ」
どこからともなく現れた君は、天使のような優しい声で悪魔のような言葉を囁いた。ふぅ、と後ろから生温い吐息を掛けられ、思わず身震いをする。
「全部、無くなっちゃったね」
一本一本指を絡め、君は私の手を握る。もう雪は降っていないし寒くも無いのに、私の心はどんどん凍りついていった。
やっと朝が来たのに、何故か心は夜明けを拒んでいる。自分でも理解出来ないその感情が私の中で蠢いていた。
「あんなに不安で焦っていたのに。夢から醒めるのが怖いんだー」
君は私の心の中を見透かし、まるで代弁するかのように言葉を連ねる。同時に力を込めて強く手を握られ、君の長い爪が皮膚に食い込んだ。赤い鮮血が私の指を伝い、何も無い空間へ滴り落ちていく。痛いはずなのに痛みは殆ど感じず、それを上回るほどの恐怖に襲われていた。
「そうだよね。自分を救う為に作り出した夢──それが無くなっちゃったんだもんね。旅に終わりが見えなかったのは、ずっとこの世界に浸っていたかったから。そうだよね?」
より一層力を入れて握り締められる。見えない君の歪んだ表情を想像しながら呻き声を上げた。
本当は、不安が心地良かった。焦るのが堪らなく好きだった。雪も寒さも、私を支える薬になっていた。終わることのない夜の世界に、私はずっとすがっていた。
自分の感情を理解した途端、それまで鈍っていた痛みが強くなった。それを分かっているかのように、君は爪先で傷口を撫でる。はーっ、と甘い吐息を耳元に掛けてくるが、私は苦虫を噛み潰したような表情で次の動きを待った。
「うん、うん。夢の世界にずっといたいって気持ちも分かるよ。でもね? もういい年なんだから、現実を見ないと。物語には始まりがあって、終わりがあるんだよ。永遠に続くものなんて、存在しない。もし在ったとしても、気味が悪い」
最初は子供を諭すように優しい口調で話すも、最後は語気を強めて突き放すように言う。何か言い返したかったが、君の言う通りだった。
私が創り上げた、私を救う為の夢。私が一番幸せな、私の理想の世界。醒めないと、戻らないといけない。分かってはいても目を逸らし、閉じ込めて逃げていた。
帰る場所は無いけれど、帰らなきゃ。
「この夢から抜け出して、現実に帰ろっか。大丈夫、一人じゃないから安心して? それじゃあ、ゆっくり目を閉じて、手を握り返して」
目を瞑り、君の手を握る。手汗と血が混ざりあって気持ち悪い。吐きそうになるのを抑えながら、耳を澄ました。
「深く息を吸う。そうしたら、『帰りたい』って願いながら叫んで」
力を込めて息を吸う。苦しいと感じる限界まで吸い込むと、大きな声で叫んだ。
その瞬間、体が軽くなり、ふわふわと飛んでいるような感覚になる。目を開けたくても開けられず、耳からは君の楽しげな笑い声だけが聞こえてきた。
「これで現実に帰れるね。そうだね、戻ったらまず最初にすることは──一番大事な人に会いに行って」
一番大事な人。心の中でその言葉を反芻する。そんな人なんて、と考えながら頭に浮かんできた人が一人、あの人だけだった。ぎゅっと手を握り直すと、後ろに居るであろうあの人に思いを馳せる。
君が、私の帰る場所になってくれると信じて。幻想の旅を終え、君に会いに行こう。
夢の世界に逃げても、いつか現実に帰らなくてはならない。帰る為に必要な鍵は近くにあるかもしれないし、ないかもしれない。