五十嵐沙織
陽縁は数分遅れて登場した。
「もう始めたの?」
「今からやるよ」
私は指輪を装着し、ヨークへ要求しようとする。
「もう記憶が戻ってるんでしょ」
「幻想使いって私の知り合いなの」
「それは君が一番わかってるんじゃないかな」
翔の願いは過去未来に届く。すっと、彼女の存在が鮮明になった。今なら幻想使いに同情できる。たしかに、私は過去の自分が嫌いだ。
「うん。あれは未来の私でしょ」
振り返ると彼女がいる。この陽縁を救える方法は一つだけあった。
幻想使いは選択肢を増やしてくれる。麻衣の話は考えを固めてくれた。
情報は私の判断材料だ。指輪をもらって数日。
私は未来を選択する。
「これから変わる『彼女』に、私の命を半分分けて」
指輪は円形が広まって、私の頭上に留まる。天使になって翼でも生えそうだ。
「そう来たか」
「ちょっと待って!」
陽縁が両手首を掴んだ。世界の変革を阻止しようとする。
「私の言ってたこと聞いてた?」
「貴方に生きてほしい」
だから違うって!
つらそうに叫ぶから辞めたくなる。でも、私はエゴを突き通す。
「生きるのが地獄なの。三橋にじゃないにしろ、期待されたくない」
「私は『伊藤葵となった三橋陽縁』に期待してなかった」
「じゃあ、私の演技が不満だから。そうやって嫌がらせしてるの」
「ずっと、矛盾してた」
「え?」
空き教室はクーラーがなかった。寒さや暑さの両極端しか詰め込めない。でも、今は穏やかな風が身体を包んでいる。天使の輪っかが明るかった。
「死にたいなら、伊藤葵にならなければよかった」
「……」
「貴方は私が好きなんでしょ」
「……」
「私が好きだから死にたくなくて、でも死にたい気持ちも本当なんでしょ」
「私は三橋になりたくない」
「三橋に戻すって言ってないよ」
幻想使いの言葉が役に立った。言葉を巧みに使えば叶う。ヨークは私たちの敵ではない。彼とリッジが同じなら、代償で締めればよかった。自由に行動できた過去が、信頼に繋がっている。
「貴方はこれから変わる。三橋陽縁や伊藤葵じゃない。心に問いかけてる」
「やめてよ。もう私は傷ついてて、嫌なの」
「たしかに心地よかった。これまでの生活は楽しかった。ずっと生活を続けたい。でもね、貴方が負い目を感じながら続けたくない。貴方、話していて泣いてたじゃん。死にたいって死にたいって」
つまるところ、私は優しさなんてない。
「これは私のエゴなんだ。あなたが生きてくれるだけで、青空を見上げられる。どうしてか、あなたから目を離せなくなった」
「嘘つき。そんなこと言わなかった」
「いじめっ子を好きになったなんて、気持ち悪かった。でも、貴方が別人でよかった」
伊藤葵は許さない。殺す機会があったら刺す。変わらぬ復讐心と貴方への愛情は両立する。
「あなたは私を愛してくれた」
料理は誰かに作ったことない。部屋に誰かを招いたこともなかった。これまで二人も友人だ。でも、陽縁は替えのきかない何かだ。
「私はあなたを手放したくない」
「ぐっ……ううっ……」
手首から力が抜けてきた。膝から陽縁が倒れて、目元を覆う。私は髪の毛の短い方が好き。
「五十嵐沙織。それが君の願いか」
「これからも変わりません」
「代償は『三橋陽縁』と『伊藤葵』に一生会えないことだ」
「良いですよ。彼女の心の形は記憶に刻まれてます。どの形でも、会いに行きます」
世界は私と陽縁のものだ。誰も邪魔を入れてこないようにする。
「いつか私に飽きるよ」
「そうかな」
目線を合わせ、片膝を床につける。その両手で陽縁の頬を拭った。右手の人差し指に水滴がつく。
「陽縁は主人公だよ。そして、私も主人公なんだ。世界が何もかも奪おうとしても、私たちは奪われない」
私は五十嵐沙織として生きる。人を傷つけた過去も、身勝手な願いを背負う。その重みで大人になる。
彼女へ私の命を半分あげた。生きる重みをエゴで追加させる。
「ヨーク。良いよ」
「葵。いいかな」
「…ううっ」
「嫌だった?」
「ううん」
彼女の体が浮遊する。
世界が振動している。
ヨークの被り物が見えなくなった。
「また見つけに行くよ」
「本当に?」
「大好き」
「私も」
そうして世界が変わった。




