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幻想使いは嫌う

 彼女が入った診察室に姿はなかった。器具を揃える看護師が点滴を打っていると教えてくれるから、寝かされている部屋まで案内してくれる。

 扉を横にスライドして入った。看護師や医師が慌ただしく右へ左を歩いている。話によればベットが三つあり、その一つはカーテンに包まれている。ピンクの布越しに相手が誰か確かめた。


「葵?」

「うん。入っていいよ」


 めくったら目を瞑った葵がいる。左手から白い管が繋がり、点滴の液体を1滴ずつ注射されていた。


「沙織のお母さんは?」

「車にいる」


 医者から過労だと診察された。栄養も足りてないようだから点滴でも打っとけと言われたらしい。心なしか頬がやせ細っている。


「私、お金払えないよ」

「なら働いて返そう」


 私の母に借金する。そうして、バイトで返せばいい。


「うん」


 白い枕に後頭部を押し付けている。


「沙織。わたし考えたんだ」

「何を?」

「どうして虐めっ子の私と一緒にいてくれるの」


 同じことを前に聞かれた。謎が解消されないなら、くり返し質問することで納得のいく形に固めようとする。なら、私は病人の手伝いをしなくちゃいけない。


「だって今のあなたは前と違うから」


 心を開きすぎた。慰めは弱っている彼女に活かされる。


「まだ違うんだ」

「前の葵は人のために動いたことなんてないからね」


 病気は人の心を繊細にして、隠していた思いをむきだしにする。サバイブ速報の目に触れて体を壊してしまうほど脆かった。


「そうか。葵っぽくないんだ」


 葵は自分自身じゃないことに気を落とした。


「今のままがいいよ。優しいし」


 電車で席を譲ろうとしたことがある。葵は嫌がられても座らせて、自分の優しさを突き通したはずだ。その尊さが眩しかった。


「でも、私は葵じゃないならダメなんだ。ダメなんだよ」

「だから、前のあなたより今が良いって」

「私はあなたに尽くすつもりだった。なのに、全てが裏返りしてる。今日だってそう」


 虐めた過去は償えない。発覚後の振る舞いが私の心を傷つけた。尽くされても返せない。


「私には強い痛みが必要なんだ。全てを変えたんだから、それがないとダメなんだ」


 何かおかしい。具体的な言葉は整理してないが、流れの一つに異物が混入している。

 過去の掘り起こしは一時停止した。


「額に傷、なかったね」

「……」

「私に何かを隠しているでしょ」

「沙織。またご飯を」

「記憶喪失は本当なのかな」


 目を久しぶりに合わせてくれた。一点の曇りなき眼差しが顔や身体を射抜く。


「伊藤葵の底を見たな。お前に頭を撫でてもらうために尽くしたいんだって。結局は自分のエゴを押し通すだけの子供なんだよ」


 右手の横に現れた。彼女のチューブを透明な手で通過する。


「お前……」

「お前なんてはしたない」


 リッジが邪魔をしてきた。


「お前を虐めた人間だ。同情する肩を持つなよ。だいたい、虐めていた人間に協力してどうする。お前が辛いだけだ」

「沙織、こんなやつの耳を貸すな」


 ベットから動こうとした。しかし、近くの看護師がリッジの身体を透かし、何かありましたと目を覗き込んでいる。やはり、大人にリッジが目視できない。


「どうしました? 伊藤さん何かありました」

「沙織!」

「見ろよ。真実がバレて焦っている」


 真実なのか。真実ってなんだ。でも、なんで私は虐めた人間を協力している。イジメの過去も背負って生きるとして、協力することにつながるのか。何が正しさになるのだろう。

 葵が前と空気が違う。周りを利用して安全なところで笑わない。でも、悪い人間になりたがる。


「それで、沙織。これで分かっただろ。彼女を今のまま従わせる願いが最善だ。伊藤葵もそう望んでいる」

「そ、そんなの間違ってる」

「いいか。これはお前のために言ってる」


 頭が割れそうだ。通学路で見た黒猫や弁当から落とした卵焼きの映像が再生される。

 葵とご飯食べたことと、子供の葵に弁当を捨てられたこと。彼女とショッピングして笑っていたことと、私の体操服を捨てて笑っていたことで振り返る。


「俺の言っていることが正しい。社会はお前を支持している。大人がいうんだから間違っていない。どうしてためらう必要がある。虐めた奴が悪いんだ。そんな奴らに人権なんてない」

「そうか。そうなんだ」


 夜の彼女なんて細い夢だった。虐められた人間は心に傷を持ったままだ。深まるぐらいなら、虐めた人を虐げたい。彼女の顔は腸が煮えくり返る。

 指輪の願いは予め持っていた。


「沙織。その願いは待て」


 カーテンが横に飛ぶ。腰をかがめる看護師は軸がブレて、尻餅をついた。


「げ、幻想使いさん」

「飛ばしてきた」


 振り返る。フードをかぶった女性が不敵な笑みを浮かべリッジを睨みつけた。


「え、あの量を倒したの」


 保存しているスーシャの数倍だよとコストが大変だからと小言を漏らす。


「サバイブ速報を軸にスーシャを増やしている。どうせ今ならヘイトも貯まりやすいだろ」

「そう世界を変えたからね」

「だが長くは続かない」


 幻想が前傾姿勢になったら、リッジは叫んだ。非常識な甲高い悲鳴で、心が不快になる。


「退散するよ。やれやれ、ひとりは上手くいったのに」


 そうして彼は消えていく。残ったのは静寂と、幻想の見えない大人だけだった。

 幻想使いは一呼吸おいて看護師の背中にあたり、身体が透ける。


「葵は私としばらく同伴すること。そうしないと、お前は危ない」

「私はいいから沙織を助けて」

「違う。沙織から守るために私が来た」


 その首は病人から方向を変え、フードのつばがこちらへ来た。


「沙織はスーシャに感染している。お前はお前で自力に脱出するんだな」


 元々はお前をスーシャへぶつけるつもりだったならな。幻想使いは白い歯を見せた。

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