裏側の形をリッジとする
葵の体調は改善しなかった。食事の片付けは私の一存で終わらせ、手を肩にまわし立たせる。
「ご、ごめん」
「良いから。家に送っていくよ」
私ひとりでは重たい身体だった。電車に乗せても、家まで歩けない。そう判断したら、電話を繋いだ。
「私のお母さん呼ぶ」
「え、悪いよ」
「いいから」
母さんに事情を説明した。今は夕飯の支度をしているようだ。中断してもらい、車で来てもらうことにした。高速を使ったら早めに着くらしい。
「大きな病院に行こう」
「家に帰ったら落ち着くから」
「ダメだって」
「絶交するよ」
病院に連れていきたい。誰よりも早く医者に看てもらい、病名を克明にしたかった。でも、葵は連れていっても罹らないだろう。意固地だから決めたら譲らない。そして、本能的に病院は関係の終わりじゃないかと不安になってしまう。
「できるの?」
「できる」
とにかく動くことにした。母親にSNS越しに位置情報を通知する。店から出た私は外にある椅子に2人で腰を下ろした。そうして、自販機で水を購入する。椅子に寝そべる彼女を起こし、水を渡した。
「ちょっと触るよ」
額に右手を入れ込む。手のひらから熱は感じられない。脈は平常で健康だった。素人の推測だが精神的な疲れが作用している。
彼女は身体の力をなくし、腹部まで倒れてきた。弱った彼女に私の肩を貸す。
「あれ?」
彼女の額に傷がない。
「さっきの、誰だろ、ね」
「え? ああっ……」
猫頭の男を指している。彼は忽然と姿を消したが、重要な台詞を吐いていった。スーシャを排出しているということだ。彼さえ叩けば指輪を奪われない。私の指輪は葵が死守し、翔が預けようとした重みがある。そう易々と手渡せなかった。
「幻想使いに知らせよう」
「うん」
息が荒かった。喋るのも苦痛かもしれない。その状態のままで、携帯を触ることにした。視線んを感じて、瞳を動かさず気配を感じとる。葵が拳一つ分の距離で私を凝視していた。夢現の状態でぼやけているかもしれない。
目線を気にしているうちに、車が迎えに来た。
「来たよ。立てる?」
「うん」
肩を抱いて後部座席まで運ぶ。ドアを開けたら、先を歩かせた。そして、後ろのシートに寝てもらう。
「友達は病院に連れていく?」
「うん」
「行かないって!」
「とりあえず家に送って。落ち着かせたい」
助手席に置かれたクッションを後ろにあげて、空いた座席に滑り込む。ドアを閉め、家まで案内することにした。
「沙織のお母さん。ご、ご迷惑をおかけします」
「うんうん。大丈夫だから」
どうしてサバイブ速報の記事なんて開いたのだろう。掲載された悪意に滅入るほど、葵は心が追い詰められていた。一緒にいて気づかないなんて不覚だ。もっと彼女が何をもっているのか知らなくちゃいけない。
「ついたよ」
時間がかかって家に着く。古いマンションがサイドミラーに写っていた。対向車を警戒しつつ、後部座席を開ける。そして、半分残った水と葵を引きずり出した。
「母さん。待ってて」
葵は右ポケットに鍵を入れる癖がある。指すって、形をくっきりさせ、鍵を持つ。
「やらしい」
「葵、何言ってんの」
「やらしいムラムラする」
「もう笑えないって」
室内に入り、布団に寝かせた。上から掛け布団をする。
「薬はどこ?」
「私が取れるから。しなくていいよ」
やっぱり薬なんてない。嘘をついてまで病院に行きたくないようだ。ただの駄々っ子か。
「ねえ、私は心配してるんだよね。葵が重症にならないかどうかって」
「うん」
「薬はどこ?」
「ごめん。ない」
「病院に連れていくね」
「やだ」
「行くよ」
「キスしたらいいよ」
「笑えないって言ってるでしょ!」
怒鳴ってしまった。優しさが空回りして自分に突き刺さって血が出ている。
「ごめん。嫌いにならないで」
「病院に連れて言って、絶交しても、私が勝手に縁を結ぶから」
「保険証ないよ」
「分かったから」
やっと抵抗をやめた。心から聞こえるエゴを抑制し、荷物をまとめて車に戻す。そうして、病院に向かった。
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母さんが手配してくれた。葵は診察を受けにいく。私はドア際の席で腰を下ろした。
「やあ。五十嵐さん」
「お、お前は」
内科に猫の被り物が来ていた。靴を脱ぐ常識はあれど、被り物は脱がない。
「私はリッジだ」
「何でここにいる」
「お前にスーシャは向けていない。ただ見に来ただけだ」
起き上がり、走れば届くまでの間合いに持っていく。
「伊藤を見に来た」
「彼女は病人で指輪がない。狙う必要がないだろ」
すると、リッジは吹き出した。腹を抱えて足がもつれている。看護師が彼の身体を透けて進む。彼は実体を持っていない。
「それを君が言い出すのか?」
「え?」
「記憶喪失ってどっちの事だろうな」
彼は何かを知っている。私が知りえない何かだ。
「君は伊藤のことが嫌いだ。そして、記憶なんて戻らなければいいと思っている」
「そんなことない!」
「記憶が戻ったら虐められる。今度は美佳や麻衣も輪になって参加するはずだ」
伊藤葵は自我が強くて独善的だ。歪んだ共通認識をグループ内でも伝染させる。彼女はイジメの中心人物で、私たちをバカにしてきた。だけど、記憶喪失で性格が反転する。毒素が抜けて優しい人になった。
「仲良くしたかった子と友達ごっこは楽しいよな。だって、お前が不器用で叶わなかった夢だから」
「そんなこと、ない」
「だったら前の学校に連絡すればいい。住所を尋ねて、家族に知らせればいい。邪道だけどSNSで呼びかけるのもあるね。親も君の悩みを解決するはずだ。でも、しない」
心のなかを侵される。透明な黒手袋は受付の荷物置きを通過した。
「指輪に『葵が一生思い出せませんように』と願うんだ。そうしたら怖いものはなくなる」
「そんなこと、できない」
「別に提案だ。でも、しないならお前はずっと不安だ」
忽ち彼は姿を消した。葵のところに行ったのではと推測し、走っていく。




