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あに図らん思い

作者: 嚢中之玉

 開けた山間に忍ぶように、いくつもの墓が建っている。そのほとんど全てが一体誰なのか、全く私には分らないのだが、一つだけ、父の墓だけが、刻まれた名前と共に顔まで知っている。そして、いつものように懐かしい気持ちも思い出させる。

 連日に渡って空を覆っていた雲が薄まり、梅雨特有の湿り気のない五月晴れの今日。私は父に会いに来た。大した供えものも持たず訪れた私に対して、父はそれほどいい気がしないという顔をしているのかも知れないが、一方的にこちらの話を聞かせるだけなのだから特に問題はないだろう。駐車場を挟んだ向かいに建つ保育園から聴こえてくる声もあり寂しくはなさそうだが、僅かにでも供花を持った人が訪ねて来たのだから、多少顔を見せるくらいはしてもいいよなと、私は心の裡で嘯く。

 常備されている桶と柄杓を使い、水が枯れて底の汚れた花瓶を洗う。用意した黄色い菊の花を手で切りそろえ、右と左に3本ずつ、新しく水を入れた花瓶の中へ差し込んだ。柔らかな形をした黄色い花が、硬い色をした墓石の両側に咲き際立って見える。父の墓の雰囲気が色付いた。私は、そのまま墓の前に腰を降ろし、手を合わせながら目を閉じる。見えていた昼下がりの陽射しが徐々に瞼の裏から失われ、心の水面を揺らす波が静まっていった。

 「久しぶりだな親父。あんたがいなくなってもうすぐ十年だな。生きているときにもっといろいろ話せてたら良かったと思うよ。あれから結構大変だったし、頑張って来たんだぜ。死んじまう前日まで酒に酔って、呂律の回らない舌でのあんたとの会話が、いまじゃぁ懐かしくて仕方ないや。当時はうっとうしいばかりで、結構嫌いだったんだけどな・・・・・・。そっちでは酔えなさそうだけど元気にやってんのか? まぁ、いずれは俺もそっちへ行くことは決まってんだから、安心してのんびりとそっちで待ってなよ。それまでこっちで精一杯楽しんどくから」

 目を閉じたまま語り終えた私は、静かに父の返事を待ってみたが、園児たちの泣き、笑い、叫ぶような声しか聴こえてこなかった。音を立てないように、ゆっくりと立ち上がって、私は駐車場への道を辿る。父の墓を後にする私の歩は、雑草を、土を踏み、逞しく思えた。

 私は今年で29歳になる。漸く最近になって、時が経つ早さの変化を実感するようになってきた。人生への焦りが原因なのかもしれない。父が他界した時、二十歳だった私は、自身の可能性について様々な方向にイメージすることが出来たのだが、最近は固まった現実以外になかなか先を描くことが難しくなった。そうなっていくことも成長や、大人になるとかっていう事なのかもしれないとも思う。

 墓地から駐車場に降りて車に乗り込み、キーを回してエンジンをかけた。早速、窓を開けて胸ポケットから煙草を取り出し、安物のライターで火をつけた。初めの一口は、大きく吸い込んでから、十分に煙を肺に送り込む。そうして、薄く広げた唇から煙を吐き出す。幼かった自分を鼓舞し、格好をつける目的で吸い始めた煙草も、今では私の一つの要素になっている。

 心地良い風が、窓から流れた煙草の煙を巻き込んで吹いていた。その先に広がる緑と、切り開かれて建てられた保育園。騒々しい町並みの一画や、周囲に田園が広がっているような場所を考えると、死んで居座ることになる場所としては悪くないなと思った。

 辛いことがあった時、うれしいことがあった時、相談事が出来た時、元気だぞと見せ付けたい時、私は父に話しかけに来る。

 唐突に死を迎えた父を責めてやりたくて始めた行為なのだから、私の話を黙って聞くだけ聞いておけというつもりだ。

 そんな墓参りを終えた私は、かつて父も住んでいた家に帰る為、ギアをパーキングからドライブに入れ、ブレーキペダルから足を離した。


 父は、愛想も親しみもほとんど表に出さず、かといって昔気質でもなく、しかし、おとなしいというわけでもなかった。そして、無類の酒好きであり、栄養をアルコールによって賄っているほどで、そのせいか、とても細くいつも顔色が悪かった。また、煙草もよく吸う人で、家の車はいつも煙草の嫌な匂いが充満し、子供の頃の私はひどく車に酔い、幾度か吐いたことを覚えている。

 小学校に私が上がった初めての夏に、水族館に家族四人で行ったことがある。二つ上の姉と二人で、母に興奮を伝えていた行きの車内は良かったのだが、疲れて乗り込んだ帰りはひどかった。エアコンの排気口から吐き出される空気が、煙草の煙そのもののように臭く、堪えるということが難しい年代だった私は、延々と泣き喚き続けた。そこで、その原因である父は、特に表情も変えずに、母の煙草に対する小言を聞き流しながら、帰りの道中にあったゲームショップへ立ち寄り、何も言わず、私にゲームソフトを買い与えた。

 新しいゲームソフトを大事に胸に抱え込み、家に着いてすぐにゲームをしようと必死になった私は、車酔いに対して初めて向き合い戦った。あの時ほど、気分が悪く、けれども嬉しかったことは、今日に至るまで感じたことはない。

 また、酒についての父は、本当にだめな人だったと今でも思う。一度飲み始めると限度というものがなく、際限なく飲んでいくので、途中からの記憶が次の日には全くないということがざらにあった。酔いが回りだした父は、仕事のストレスを母に向けることがしばしばあり、そんな時はいつも口喧嘩をやっていたけれど、次の日に目を覚ました父の記憶の中には一切その事実がなくなってしまっているわけだから、母もすっかり呆れて、普段どおりにきっちりと朝の支度を手伝い、ごはんを食べさせた父を送り出していた。

そんな父の酒癖の悪さがあって私は母の方が好きだった。

 しかし父は、その見た目や性格に見合わず、人生設計という点においては、行動力と決断力を備えていた。大学を出てから数年間は、資金稼ぎの為に、ゼネコンの下請けを担う設計事務所に勤め、ある程度の金額が貯まると、小川さんという人と二人で小さな設計事務所を立ち上げた。

 幾度か、経営難という、単純に仕事が取れなかった時期もあったそうだが、私が中学に上がる頃には、それなりに決まった仕事量を確保出来、安定した収入を得ていたそうだ。そんな父の事務所に、私が入社出来る状態まで、どうして生きていなかったのかということは今でも残念に思っている。

 そんな人生を歩んできた父のこうした経歴については、きっとその見た目からではだれも想像し得ないであろうし、建築士だと父が名乗っても証拠を見せる段階まで疑われてしまうだろう。まず建築士と名乗ってくるような人の大半は、その見た目がインテリジェンスで、洗練された見た目をしている人物が多い。美しい髭を蓄えて、その手入れに掛けている時間を誇りに思い、髪の流れを毛の一本一本まで拘り、鏡に写る自分に愛を注ぐ。細やかさが緻密な設計に繋がっていく結果、表面にその蓄積されたものが現れていく。

 しかし父は、酒をこよなく愛し--特に日本酒だ--愛し過ぎた為、常に血色悪く、骨格が目立ち、目も落ち窪み続け、戦時下で妄信的な愛国心を掲げる日本兵みたいで、設計依頼を任せても大丈夫なのだろうかという点でも心配になる様だった。なので、世間一般の人が想像するような建築家とは、幾分違った印象を持つ父だったが、息子としての父親には憧れていた。だから建築家という職業に憧れをもち、似たような道を進みたいと、大学も建築学科を専攻し、現在は中堅ゼネコンの下請けを担う会社で意匠設計の業務に携わっている。

 あの日父が死んでから、母と、姉と、七つ下の弟と、私の四人で暮らしてきた。姉はすでに自立し、家から離れ、弟も漸く来年に大学を卒業する。

 長男として託された仕事も、後は今年で五十六歳をむかえる母を養っていくのみになる。

 家路を半分過ぎたあたりで信号に捕まった私は、青信号を渡る小学生の列をぼんやりと眺めながら、生きていくことからかかる重圧で溜まっていたものを吐き出す様に、大きく息をついた。


 九年前の冬だった。当時、大学で講義を受けていた私の携帯に着信が届いた。

 それほど興味がそそられるようなテーマでもなかったから、マナーモードの振動にはすぐに気がつき、発信者が姉だというのを見て不思議に思った。仲の良い姉弟ではなかったし、平日の二時なんかに電話してくるような用件など考えつかなかった。

 去年、大学を出た姉は大手自動車メーカーの事務職に就いていた。勤務時間中のはずなのに電話を掛けてくる姉は暇なのだろうかと、天井を見つめながらぼんやり考えた。

 耳から頭を抜けていくように、教授の近代建築の考え方や特筆する点の説明が流れていた。過去の歴史に学ぶという課程というのは、どの学科においてもおしなべて必要なものらしい。法隆寺も、モンサンミッシェルも、オペラハウスも、落水荘も、当時の建築様式と技術を最大限生かしたものだったからすごいのだけれど、同じものを作れる現在としては、一時代の建築物だったと認識するのが正しいと考えている私は、ある程度の理解をもつと、そうした有名建築の深遠にでも迫ろうかという講義には興味がなかった。ましてや、その技術を応用した建物がいくつも乱立している状況でもあれば、ますますと知る必要性が薄れていると思っていた。

 そんな講義だったから考えつけたのかもしれない。もしかしたら緊急の要件かもしれないと。だから私は、講義を退出する旨を申し出るとすぐに姉の携帯に掛け直した。

「・・・・・・お父さんが死んだ。」と大泣きし、引きつったように言葉を繋ぎながら姉は私に告げた。

 だけど、よく理解が追いつかなかったから私は冷静だった。それでも何と返せばいいのか分らず、しばらく言葉が出てこなかった。どうにか考えを纏め上げ、現状を教えてもらい自宅へと急行した。

 家に帰り、二階にある父の寝室へ上がると、中から扉を開けて弟の康平が抱きついてきた。そうして、言葉にならない喚きを私に伝え続けた。

 中学がテスト期間中で、普段よりも早めに帰宅した弟は、病欠で寝ている父に何かいるものはないかと聞く為に部屋に入ったそうだ。中に入り、何度か呼びかけても返事が無かったので、よほど悪いのかと心配になって顔を覗き込んだのがきっかけだった。寝ている感じを受けなかったらしい。だから、そのまま耳を父の口元まで持っていき呼吸を確認した。

 父の息が耳に吹きかかることをじっと待っていたが、だんだん願うように待っていたが、いくらも待ってもそうはならず、なにがどうなのかも分らず、とにかく母に電話をかけたが留守電になり、姉にかけ、とにかくやるべきことを箇条書きのように伝えられ、思考を切り離して処理をしたそうだ。

 そこから私へと連絡が回り私は家へと帰ってくることになった。

 今になっても、当時中学生の弟が医者を呼び、父の急死の対応をしたということは、純粋にすごかったと思う。

 しかし、そこから私は長男という責任の基に家族を背負う形となり、暗礁に乗り上げたような心持と常に葛藤する日々が待っているとは思ってもみなかった。

 急性膵炎という診断結果をもって死亡届が書かれ、私が喪主の葬儀が行われた。その時の記憶はひどく曖昧で、ただ強がり涙を堪え続けていたことだけを覚えている。

 いつか越えたかった背中は、その死と共に不朽のものとなった。

 多分嫌いだった人が、会うことのできない存在になった時、慈しむ気持ちに溢れてしまう。私は父がいなくなってから、家族を守るということを考えると、先が不安で不明瞭で、自信がなくって仕方が無かった。誰の責任にすることも出来ず、頼りかかれる人もいない。怖くて怯えるしかなく、八つ当たりのように墓前で文句ばかりを言っていた。

 そして九年が経ち、そうした一切は徐々に感謝へと変わりつつある。

 私は、きっとまた文句を言いに父の前に来ることになるだろう。それでもたまに、今までありがとうと伝えるだけの時もあればいいなと思った。

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