【六節】海の上と闇の底
【六節】
人間は物語を書き記す。
人のため、自身のため、世のためか。
紡ぎ出される文章は後世にまで残される。
人々がその物語に様々な感情を抱き、共感し、称賛する。
やがては他者による改変、こうであって欲しいと望むイフの物語が生まれる。
ある者は救われ、幸福絶倒を迎える結末。
ある者は救われず、なにも残らない虚無を迎える結末。
多種多様に人々の感性を経て、物語とは変化
していく。
この物語も大きな変化を加えられたイフの世界。
あるいは、別の何かか。
どれだけ時間が経ったのか、薄暗い海の中を徐々にではあるが昇っていくのが分かる。
それもそのはず、魔女の屋敷は既に見えない程に離れていた。
「このクスリを海の上で飲めば、いよいよ地上に行けるのね」
片腕に握りしめられた小瓶。
魔女が作り出した、人になれるクスリ、それを見つめながら姫は呟いた。
上を見上げると僅かにだが、明るく見えた。
もう少しで海の上へ出る。
こんな形で望んでいた海の上へ出るなど、以前の姫は心にも思わなかっただろう。
考えれば、あまりにも不自然な出来事が多い。
姉達は帰ってこない、魔女は何故か私を助け、無償でクスリを見繕ってくれた。
そして今は海の上へ向かっているときた。
「一体何が起きているのかしら、お父様達も心配だわ」
考えることは山ほどあるが、まずは目の前の事だけに集中することにした。
考えに耽っていると、さっきよりも明るさが増した。
包まれた泡の中からも光が見える。
海の上だ、あれほど望み焦がれた場所へと、ついに姫は到達したのだ。
「これが海の上、お姉さまの話の通りね、なんて素敵なの」
姫は初めて目にする光景を眺めるばかりだ。
肌に伝わる空気、少し冷たい風、見渡す限り広がる空と雲、そして燦然と輝く月。
どれも神秘的で、姫の気持ちはすこぶる興奮していた。
今まで沢山の美しいものを目にしてはきたが、これほど目新しいものはない。
海に岩場が見えたので、少し腰を掛けた。
「こんな世界が、私の住む世界の真上にあったなんて、信じられないわ」
しばらく景色に眺めていると、船が見えた。
船の上では明かりがいくつにも灯され、人間達が舞踏会を楽しむ姿があった。
「大きな船だわ、人間達も楽しそう」
躍りを愉しむ人だかりの中に、とても見目麗しい青年を見つけた。
身なりの良い青年は他の人間達に微笑みをかける。
姫は青年の美しさに心を射抜かれた。
「素敵な人、どこの方なのかしら」
届かぬ眼差しを青年に向け続ける。
青年はやがて、船の中へと入っていった。
景色にも満足し、大事なことを思い出すように、姫は少し離れた場所に見える島を目指した。
「お姉様達を探さないと、あの砂浜が良さそうね」
泳いで砂浜へ向かい、その近くまで来た姫は、魔女に貰ったクスリを見つめる。
あまり魔女の言うこと信用が出来なかったが、恐る恐る小瓶の蓋を開けた。
妙な匂いが鼻につく、あまり好ましい香りではない。
「本当に人間のように足が生えるのかしら、でも今はこれしかない」
ぐっとクスリを飲み込んだ。
クスリに味は感じられなかった。
ただ、体が妙に熱くなってくる。
「なにかしら、頭がぼーっとしてくるわ」
視界がぼやける。
体調を悪くしたように姫は、砂浜と海の境で寝込んでしまった。
尾ひれの方に痛みを感じる。
「痛い!このクスリのせいなの?」
痛みは鋭く、やがて姫は気を失ってしまった。
「そろそろ、姫様がクスリを飲んでる頃だね」
屋敷で何かを眺めながら魔女は呟く。
「あたしも支度の時間だ、早くしないと愉しい余興に乗り遅れてしまうねぇ」
王様から奪った槍を杖に変化させ、ぬらりと消えていく魔女。
「ここも既に役割を終えた。店じまいだ」
魔女がその言葉を口にした途端、海洋の森は崩れるように海底の砂となって消え失せた。
無惨にも心臓を貫かれた王様達の遺体も、泡になって消えていく。
その場は何もない、真っ暗闇の海の底へと還っていった。