【十節】序ーⅠ
【十節】
彼の者はどこから来たのだろうか。
千里先の未来すら見通し、万物の事象に介在しない力を行使する者。
彼の者に並ぶ者はこの世におらず、ただ一人、世界の理を知る者。
使命かそれとも約定か。
この世の神という存在に召し仕える上位の存在なのだろうか。
それを知ることも、探ることも決して叶わない。
彼の者はどこにでもいて、どこにもいない。
ある意味、この世界に普遍的に存在している。
行使せり力は魔法、見渡す眼は千里眼。
古くよりそれを知るものは、彼の者を魔法使いと呼ぶ。
声が聞こえている。
海の中にいるはずなのに、その響きは明瞭に頭の中で響き渡る。
不思議な感覚と同時に、それは恐れに変わる。
三女の姫様はこれまで生きてきた中でも、かつてない恐怖を覚えていた。海の底へ逃げるか、それが果たして可能なのか。
船にいる何者かが普通でないことはわかる。
異様だ、その一言に尽きる。
見たところただの小船ではあったが、じわじわと三女の姫様には感じる何かが確かにあったのだ。
このまま海の底へ戻ろうとしても逃げ切れるとは到底思えなかった。
選択肢は自ずと見えていた。
陸地はすぐ目の前まで来ている。
ここで引き下がったところで何も変わることはないのだろう。
三女の姫様は、ありったけの勇気を振り絞り、頭上の船がある海面へと向かった。
「そうそう、戻ってこないならこっちもそれなりの考えを用意していたからね。正しい選択だ」
響く声はより強く感じられた。
その声は波紋のように馴染み響く美しい声でもあったが、肌に冷たく染みるようだった。
「お前さんにはこの先、とてもとても辛い未来が待っている。それは避けることもできやしないんだ。だけどね、立ち向かうことはできるだろうさ。そうでもなければ、こんな海の上にまで己の意志では来れなかったろう?」
船で喋り続ける声の眼前まで近づく。
あと一呼吸で船の端に手が届く距離まで来た。
「さぁ、顔をお出しなさいな。いきなり取って喰おうなんてないさ。私が食べたいのは人魚の肉なんかじゃないから安心しな」
恐る恐る、船に手を伸ばして海面へ浮かび上がる。
船には風を纏う帆もなければ、それを支えるマストさえない。
ただ一人、煤色に焼けたローブを羽織った女性が船に乗っていた。