八話 18歳 3
日中はひたすらこま鼠のように動き回り、仕事が終わるとグラントと食堂へ情報収集に行く日々が続いた。
「案内なしでどうして迷わず移動できる?」
足早に歩きながら高官の部屋に向かっていると、私の後を追うグラントが心底不思議そうに尋ねてきた。2日目までつけられた案内人は今はいない上、列柱廊はどこも同じように見えるだろうからグラントが疑問を抱くのも無理はない。
「道を覚えるのは得意なんですよ」
「俺も苦手ではないと思っていたが、上には上がいるもんだなあ」
グラントが素直に感心している様子で、私は内心居た堪れなくなった。15年間暮らしていた私が宮殿内の道に明るいのは当たり前だ。あまりにスムーズに動きすぎて怪しまれる懸念もあったが、1分でも惜しい状況では迷う振りもしていられない。そんな暇があったら資料を探したい。
指示されることをひたすらこなしていると、一日は瞬く前に過ぎていく。特に新しい情報も得られず、灰色のフードの人物とも会えないまま、交流会の日を迎えた。
開会間近になり続々と人々が大舞踏会場へ集い始める。会場は恐らく宮殿で最もお金を注ぎ込まれた場所。何十もの絢爛なシャンデリアが精巧な壁画を照らし、夜ということを忘れさせるほど煌々と明るい。
官僚たちはドレスコードと官吏の正装と半々の装いだが、私は官吏の正装を纏っていた。飾り気のない釣鐘型の貫頭衣であるのは普段の制服と変わらないが、仕事着が黒基調なのに対し、正装は白基調であった。正装は、公正で廉潔な印象を相手に与える役割を持つ。
女性役人が少ないためか、ルクサンディの高官の親族らしき女性たちが招待されているようだ。彼女たちは色とりどりのドレスで華やかに場を彩り、参加者の目を楽しませていた。
「ああ、こんな時間があったら案件を一つ片付けたいわ」
「まあまあそうおっしゃらずに。コネを作るのも大事な仕事でしょう?」
「そうね。お酒で一気に距離が縮まるタイプの人もいるし、これも仕事と思って頑張るわ」
私は、この数日間共闘してきた官僚仲間と小声で言葉を交わしつつ開会を待っていた。控えめなざわめきが会場に満ちていたが、誰かが気づくと次第に参加者の目線が入口に集まっていく。トップたちが現れた。
4人の男女の中で、私の目は自然とロイドに引き寄せられた。髪と瞳の色と同じ、夜色の紺地に金の刺繍が施された正装が、ストイックでありながら匂い立つような大人の色気を醸し出している。私だけではない、周囲の人たちも感嘆のため息を漏らしていた。
「王太子殿下はいつ見ても素敵だわあ。あの方が次期国王陛下というだけで仕事のやる気も出るというものよ」
「はは……否定はしませんけれども。隣の女性がファノン首相の娘さんでしょうか」
「ええ、フラン様ね。噂通りお綺麗な方ね……殿下にエスコートされるなんて羨ましい」
お似合いのふたりだわと、私は同僚とともにロイドたちを憧憬の眼差しで見つめた。
フラン様はロイドの腕に手を回し、清艶な笑みを浮かべてエスコートを受けている。私とそれほど年は離れていないように見えるので20歳前後だろうか。ルクサンディ人らしくツンと上がった小鼻と、大きく華やかな口元が彼女の魅力を増していた。
「皆様、お集まりいただきありがとうございます。ルクサンディとメイザン国が今後良き友であり続けることを願います」
首相の乾杯の挨拶で各々持っていたグラスを掲げ、呷る。私も周りに倣って透き通る琥珀色の酒に口をつけた。
乾杯が終わると、気の早い者たちが早速挨拶回りをし始める。
「さて、私たちも頑張りましょうか」
「はい。成果を持ち帰りましょう」
キンと澄んだ音を立ててグラスをぶつけ合うと、彼女と別れた。私はグラスを揺らしながらルクサンディの役人を物色する。年齢が若すぎては王家に詳しくないだろうし、年配すぎるとこちらから話しかけるには不自然だ。
適当そうな役人を見つけ踏み出そうとしたとき、「すみません」と後ろから声をかけられた。振り返ると50歳ほどの男性が親しげな笑みを浮かべて立っている。官吏の服ではない。
「こんばんは、お話ししてもよろしいですか? 私はユーゴ・クレメンティと申します」
「もちろんですわ。私はエルーシャ・リンスです。官吏の末席を汚しております」
「あなたのようなお若い女性が官職に就いていらっしゃるとは、さぞかし優秀なのでしょうね」
「お上手ですわね、どうもありがとうございます」
私は照れてはにかんで見せながら、この男がどうして私に話しかけたか考えた。使節団の中で一番若造の私は重要な情報など持っていないように見えるだろうし、実際実務の面ではその通りだ。クレメンティに利があるとは思えない。
「ぜひこの後一曲ダンスをご一緒しませんか?」
「ええ、喜んで」
「貴国の王太子殿下は大変な美丈夫であらせられる。独身でいらっしゃるのでしょう?」
「そうですわね。フラン様とはとてもお似合いに見えましたわ」
私が心から言うと、男は笑ったまま辛辣に言い放った。
「しかし首相は、フラン嬢を本気で王太子妃に据えたいとお思いなんでしょうかね?」
「というのは?」
男の本心を図りかねて、私は慎重に相槌をうつ。
「首相は任期が終われば再び選挙があるでしょう? 所詮いっときの権力でしかないのに、娘を王太子妃になど出過ぎているとは思いませんか?」
「確かに恒久的な地位ではありませんわね。ルクサンディの方は皆さんそう思っていらっしゃるのですか?」
「大っぴらには言いませんがね。王太子殿下だって本気では取り合っていないでしょう?」
「そうでしょうか」
私は首を傾げた。ロイドは丁寧にフラン様をエスコートしているが、義務的と見ればそう見えるかもしれない。だがロイドがフラン様を気に入っていたとしても、こんな公の場で私情を露わにしていたら王族失格だと思うので、本当のところはわからない。
クレメンティは普通なら他国の者には知られたくないであろうことを軽々しく話しているが、果たして単なる世間話のつもりなのか、それともあえて情報を与えようとしているのか。そもそも彼の語る情報が正しいかもわからないのだが。
もしかしたら私が同僚にこの話をすることを期待していて、メイザンの人間にファノン首相の求心力が落ちていることを印象づけたいのかもしれない。噂話を広めるのは若い女と相場は決まっている。
なるほど、この男が私に話しかけてきた理由が何となく掴めてきた。そうとなれば、真偽の見極めは後にして思う存分情報を吐いてもらったほうがいいだろう。
私は少々不躾な発言をしてみた。
「貴国はてっきり婚姻を機に、我が国との繋がりをより強めたいのかと思っていましたわ」
「それはもちろん、願ってもないことです。しかし何もフラン嬢でなくてもよいのでは、と思わずにはいられませんな。王太子殿下に嫁ぐのは、高貴な王家の血筋に相応しい人間でなければ」
「他に最適な方がいらっしゃるとお考えで?」
「誰とは言いませんがね」
クレメンティは肩を竦めた。自分の娘や親族を推してくるかと思ったが、そこまで露骨ではない。
「失礼ですが、クレメンティ様はどのようなお仕事をされていらっしゃるのですか?」
「私は議員の一人です。実は木っ端貴族なのですがね、革命に貢献したことが評価されて取り潰しは免れました」
「貴族様だったのですね。それでは、王家の方々にもお仕えになっていたのですか?」
「私はさほど高級官吏ではありませんでしたから、何度か拝謁したことがあるくらいです」
「王家といえば、最近メイザンで面白い噂がありますのよ。何でもエミリオ王子が生きているらしいという、出所もわからない取るに足らない噂ですけれど。貴国ではきっと、定期的にこのような噂が流れるのでしょうね?」
「ええ、まったく誰がこんな噂を流しているのやら。……ああ、ダンスが始まるようですね」
もう少し突っ込んで聞き出したいところだったが、タイミングを逸してしまった。ロイドとファノン首相が相手の女性の手を取ってホールの中心へ進み、音楽に合わせて優雅に踊り始める。ロイドと対照的なフラン様の真紅のドレスが回る度に美しく広がり、まるで大輪の花が咲くかのようだ。
トップたちのダンスが終わると、他の参加者たちも順々に加わり始める。私もクレメンティに引かれてダンスに混ざった。関係者の親族が呼ばれているとは言え女性の数は多くないので、さほど込み合っていない。
貴族とあってクレメンティのリードは踊りやすいものだった。無難にダンスを終え、少し汗をかいた様子のクレメンティが私を誘う。
「どうですか、この後部屋で休憩など」
その言葉に思わず眉をひそめそうになるが顔には出さず、困惑だけを乗せる。さすがに私をどうこうしようとは考えていないと信じたいが、夜会中に若い女が男と2人きりになるのは不用心極まりない。クレメンティの誘いに乗るつもりはなかったが、反面もう少し情報を得たい気持ちもある。
迷う素振りを見せることでこの男を引き留められないかと思案していたとき、クレメンティの後ろから歩み寄ってくる姿に気づいた。
私がずっと己の背後へ注目していることを不審に思ったクレメンティが振り向き、驚きの声を上げる。
「お、王太子殿下」
「失礼、こちらのお嬢さんと約束していましてね。リンス嬢、私と踊っていただけますか?」
「喜んで」
差し出された右手に、私の身体は意識せずとも流れるように礼をとり、その手をとった。ロイドは僅かに目を瞠ったが、微笑み直して私を導く。
やがてダンスが始まると、ロイドのリードに私は舞うように踊った。考えなくても足がくるくると回り、軽やかにステップを踏む。数えきれないほど一緒に踊った相手。私の身体はロイドから離れ、またあるべきところに収まるようにぴたりと戻る。
私はいつしかラヴィニアに戻ったかのような感覚に陥っていた。
「あなたはあの男が誰なのか知っているのか?」
夢の中にいるように頭の中がぼうと白く淡くなっていた私は、耳元で囁かれたロイドの言葉にすぐには反応を返せなかった。
「……え、あ、すみません、何か問題がある人物だったのですか?」
「……知らないならいい。ただ、これ以上近づかないほうがあなたのためだ」
「わかりました」
忠告を受けて私は素直に頷く。
夢のような時間はすぐに終わってしまった。身体を離すと、数秒の間無言で互いを見つめ合う。静かな瞳は感情のないように見えるが、その実戸惑いと警戒がその目に混在しているのが私にはわかった。
私の手をとったまま、ロイドが言う。
「明日以降は私の客室に来てください」
「私はもう外交府の手伝いをしなくてよいのですか? お払い箱ということですか?」
「いや、あちらからは文句を言われた。あなたは本来来るはずではなかった人なのに」
ロイドは憮然としているが、役に立てたのが嬉しくて私はつい破顔した。私の顔を見て、ロイドはさらに納得いかなげな顔をした。
ロイドと別れてからは、言い付け通りクレメンティと距離を置く。
辺りを見回すが、最初に話しかけようとした役人の姿は見当たらない。そのうち会場の片隅に交渉の席で一緒だったルクサンディの官吏を見つけ、そちらに近付く。
踊り舞う男女を、目立たない場所から見るともなしに眺めている男に私は声をかけた。
「ごきげんよう、ギディさん」
「ああリンスさん、こんばんは。王太子殿下と踊っていらっしゃいましたね」
「見ていらしたのですね、お恥ずかしいわ」
「いやあ、初めて一緒に踊るとは思えないほど息ぴったりに見えましたよ」
「王太子殿下のリードがお上手でしたから。そうだわ、明日から王太子殿下のお側に仕えることになりそうで、ギディさんとお話しできるのは今日が最後かもしれません」
「それは残念です。リンスさんはメイザンの方なのに我が国の文化にお詳しくて、よく勉強されておられると一同感心していたのです」
「ありがとうございます。勉強した甲斐がありました」
外交官が知る範囲を逸脱していたなら失敗だが、ギディに気にする様子がなさそうなので一先ず安心する。
「我らの上司は外交のトップとはいえ経験値で言えば貴国のバルフォア卿の足元にも及ばない。こういうとき、我が国で技術の継承がなされなかったことが悔やまれます」
ギディが軽い調子で言うものだから、私は咄嗟の返事に窮した。ギディに対し肯定することも否定することもできないが、それは私も感じていたことであったからだ。
ルクサンディの官僚は革命で一掃され、ほぼ全員が入れ替わった。どんなに優秀な人物であっても、バルフォアのように何十年も第一線で活躍してきた者にはそうそう敵わない。
私は元ルクサンディの人間として、それが心苦しくてならなかった。今の私はメイザンの人間と自覚しているが、ルクサンディが不利を被るのは嫌なのだ。
幸いにしてバルフォアは、片方が不利すぎると一旦交渉が成立しても短期間で決裂しやすいという考えの下、メイザンの利益だけを貪欲に求めようとはしていない。そうでなければ私が口出しするところだった。
「リンスさんは私の上司が口を滑らせると少し焦っていらっしゃいましたよね。それを見る度、本当は同胞なのではないかと錯覚しそうになりましたよ」
「そんなまさか、おほほ……」
にこにこと話すギディに、私は乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。メイザンの人間としても、外交の席にいる人間としても失格である。
調子に乗りかけていたが、まだまだ未熟ということだ。私は自分を戒めた。