二話 7歳〜9歳
たとえ会えはしなくても、いつか近くまで行きたいと思っていたのに。
もう誰もいないなんて……。
私が目を覚ますと、心配そうに覗き込む母の顔が飛び込んだ。ホッとしたように微かに息を吐き、私のこめかみをさする。涙の跡がついているのだろう。
口の中が気持ち悪い。けど、それよりももっとお腹の中が気持ち悪い。
「おかあさん……」
「大丈夫かい? 怖いことがあった?」
「うん……しんぱいかけてごめんなさい」
母は何も言わず私を抱きしめた。
私はロイドが処刑されるのなんて絶対に見たくない。ヴィクター殿下も、顔見知りになったからには生きていてほしい。
父が帰宅して食卓につくや否や、私は早速切り出した。
「おとうさん、ききたいことがあるの」
「なんだい?」
「おとうさんのようなおしろに仕える人になるためにはどうすればいいの?」
「これは難しい質問だなあ」
父は腕を組んで考え込む。
「まず、当然学がないといけない。王立高院に入るのが一番の近道になるだろう。そもそも入学が難しいが」
「はい」
「まあ、エリーは賢い子だから大丈夫だろう」
親馬鹿が飛び出した。
「エリーは官吏になりたいのかい?」
「うん」
「女性の官吏は数は少ないが、いないわけではない。志を持って目指せばなれると思うよ」
目元に皺を寄せて微笑む父に、私は力強く頷いた。
父は応援してくれるようだが、その隣で母は渋面を作っている。
「エルーシャは賢いから侍女になれるかもしれないと思っていたけど、まさか官吏とはねえ」
「うん、決して楽な道ではない。エリーはなぜ仕官したいんだい?」
「それは……王さまを支えたいから」
ひいてはロイドを守りたいから、とこれは心の中で付け足す。
固い決意を込めて私が言うと、父は私を抱きしめた。
「エリー……なんて立派な子なんだ!」
「うっ、おとうさんくるしい……」
今日はよく抱きしめられる日だ。私はちょっとこそばゆくなった。苦しいのと恥ずかしいのとで父の腕を叩くと、ごめんごめんと離される。
その様子を苦笑して眺めていた母が、そういえばと私に尋ねた。
「エルーシャ、お前ヴィクター殿下といつお知り合いになったんだい? 殿下がご心配なさっていたよ」
「……あっ」
忘れてた。
「おわびとお礼をしなきゃいけないよね?」
「そうねぇ……お手紙を書いて、お父さん経由で何とかして届けてもらおうか。簡単に会えるお方ではないからね」
という母の言に従ってお詫び文をしたためた。のだが。
その後、簡単に会えるお方ではないはずの殿下とは度々邂逅することになる。
私が狭い空き室で勉強を始めてしばらく経つと、ヴィクター殿下が現れた。私が登城許可を得ると、いつもどこからか聞きつけてやって来る。
私は勉強の手を止めた。
「エルーシャ、調子はどうだ?」
「ごきげんようヴィクター殿下。おひまなんですか?」
「 二言目にはそれか」
殿下は8歳とは思えぬ大人びた苦笑を浮かべた。
王族だからと気後れするわけもなく、回数を重ねるごとに遠慮がなくなっていった私の発言にも殿下は怒らない。初めて会った時の子どもっぽさはどこにも見当たらない。声は幼く高いままだけれど。
「もっと来ればいいのに」
「かんたんに言ってくれますね」
今度は私が苦笑した。こういう我儘は健在だ。
下女の仕事は3交代制で、小さな子どもがいる母は大体朝から夕方まで従事する。しかし人数の都合で月に一度程夕方から夜までの勤務になることがあり、遅くまで娘を独り家で待たせるのは不安だからということで許可を申請して私をつれて来ているのだ。つまり、正当な理由がないとそうそう王宮に来ることなどできない。当たり前である。
「身体は大丈夫なのか?」
「殿下、何度も言っていますけど、私は別に身体がよわいわけではないですからね」
最初の出会いで醜態を晒したせいで私に病弱なイメージがついているらしく、会う度に同じことを聞かれる。私の返事が本当かどうか、殿下は薄青の目で探るように見つめてくる。
私は殿下の視線を振り払うように首を振った。
「殿下もこんな使用人のエリアにいらっしゃらなくても」
「エルーシャが来てくれないんだからしかたないだろう」
「もう、私はお勉強中なんですよ」
殿下は私の手元を覗き込んだ。
「経済学に経営学、それに法学まで……あいかわらずすごいな。貴族の嫡子ですらここまでやってないだろうに」
「私は平民すれすれの貴族ですからね。他の人よりもうんとがんばらないと王立高院に入学することができないのです」
「……王立高院になど行かなければいいのに」
「またそれですか……」
王族は王立高院に入らない。それぞれに相応しい教師が王宮に呼ばれ、一対一で高度な教育を施される。わざわざ高院に入る理由がないのだ。
だから殿下は私が高院に行きたいと言うと露骨に拗ねる。幼い頃に抱きがちな独占欲でも湧いているのだろう。
殿下の気持ちを和らげるため、熱を込めて言う。
「私、必ず王宮に戻ってきますから。殿下はそれまで待っていてください」
「……ああ。エルーシャに負けないように勉強しないとな」
王制を支えたいと勉学を積む私の姿に触発されて、ヴィクター殿下は帝王学の授業をサボることがなくなった。
殿下は拳を作って頷いた。
仕官を志した7歳の時から、私の毎日は勉強漬けになった。あっという間に8歳となり、9歳の誕生日も過ぎた。
最近の息抜きは城下町を散策することだ。その途中に香水専門のお店がある。ずっと気になっているけれど今の私には敷居が高くて入りづらい。
前世では私専用に香り高い精油が多種取り揃えられ、自分で調合を楽しんだり人に贈ったりしたものだ。ロイドにも気分を落ち着かせる安眠の香水を何度か贈った。
思い出を複数思い浮かべるとうずうずして堪らなくなり、ついに私はドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
店員が私を見て「おや」という顔をしたが、すぐに笑みを向けてくれた。私も笑い返して順に棚を見る。
高い物から安い物まで品揃えは豊富だ。試しに安めの精油のフタを開けて香ってみるが、記憶にあるものより質は良くない。不純物が混じっていたり、精製が中途半端なのだろう。
だが安物でさえ私のお小遣いでは手が出なかった。そっと小瓶を戻す。それでも名残惜しく小瓶を見つめる。お父さんやお母さんに作ってあげたいと思ったんだけどなあ。
「お嬢さん、お使いで来たの?」
店員の言葉に私は閃いた。お金がある人にスポンサーになってもらえばいいのか。
「ううん、でもありがとうお姉さん!」
きょとんとした顔の店員を後ろに、私はお店を飛び出した。
「おかあさんっ」
「何だいエルーシャ、お前がそんなに慌ててるなんて珍しいね」
「あのね、わたし、香水を買いたいの」
息が上がってブツ切れになった。
母は目を丸くして、
「香水だって? エルーシャも年頃になったんだねえ。……まさか、角の質屋の息子と何かあったんじゃないだろうね?」
「ないないっ」
いきなり勘違いして怒り出したので私は勢いよく手を振ると、俯きがちに訴える。
「お母さんに贈り物をしたいと思って。それで、香水なんてどうかなって。きっとうんとすてきな香水を贈るわ」
母は商人の娘。お金がないわけではないが決して贅沢を好むわけでもない。嗜好品なんて必要ないと言われないかとどきどきしながら判決を待つ。
母は少し考えていたが、うんと頷いた。
「エルーシャが香水がいいと言ってくれるのは何か理由があるんだろう。お前には昔からそういうことがあるからね。香水なんて久しくつけてないけど、お願いしようかな」
「ありがとう!」
それでね。私はもじもじしながら続けた。
「香水を買うには今の私のお小遣いでは足りなくて……」
「さてはそれが本題だね? まったくこの子は、賢しいんだから!」
「きゃーやめて、くすぐったい!」
私の企みは当然あっさりと看破され、私と母は揉みくちゃになって笑った。
無事にスポンサーからお金は貰えた。