六話 19歳 5
畑の世話を終わらせ外交府の職場へ向かう最中、頭の中で先日の議論を思い起こす。
「君の案は空想に過ぎない。実現できる根拠を示さなければ予算はおりないぞ」
「やってみなければわからないじゃないか。絶対にできることばかりやっていては、ゆくゆくは先細りするだけだ」
「金も場所も無尽蔵に湧くものではない。効果の見込めることから行うのは当然だ」
「しかし凶作への備えは何を置いても優先すべきではないかっ」
「程度の問題だ」
「まあまあ2人とも、お茶でも飲みたまえ」
ベテラン官吏の言葉に従い、血気盛んな30半ばの官僚たちはむすっとした表情で一気に茶を飲み下した。
私は書記をしながら考える。目標はすぐに実現できてしまうものでも非現実的すぎるものでもいけない。全員が納得できるに越したことはないが、実際には難しい。
私にできることは何だろうか……
「おい、無視するのか!?」
考え事をしながら歩いていたために、自分が声をかけられていることに気づくのが遅くなった。
足を止めて仁王立ちする男性官吏に向き合う。どこかで見たことのある顔だが、直接話した記憶はない。
「申し訳ありません、何かご用でしたか?」
年は20代後半といったところか。痩身で背はそれほど高くない。内務府の制服を身に纏った彼は、なぜだか既に怒りを露わにしていた。腕を組み、私を侮蔑の表情で睨む。
「君はどうやってヴィクター殿下に取り入ったんだ?」
その手の類いだったかと、私は立ち止まったことを早々に後悔した。
しかし相手は一応先輩である。私は慇懃に尋ねた。
「取り入ったとは何の話でしょうか」
「何かと目をかけていただいているだろう。君のような若輩者に、どうして殿下が懇ろに声をかける? 理由があるはずだ」
「私にはわかりかねます。殿下に直接お聞きしてみては?」
「できるわけがないだろう!」
彼は顔を赤くして怒鳴った。
「どうせ色仕掛けでもしたんだろうけどな。君のような人間がいると我々全体の士気が下がる。即刻宮廷から去ってほしいものだ」
「……私のことは何と言われようと構いませんが、そのお言葉は殿下を侮辱されるものではありませんか?」
「何を言うんだ、失礼にも程がある!」
先に礼を欠いたのはどちらだ。唾を飛ばさん勢いの相手と反対に、私は頭が冷えていく感覚を味わった。
官僚の中にこのような浅慮な人がいるとは知りたくなかった。陛下やロイドを支える人間は、努めて思慮深くあるべきである。まったく嘆かわしい限りだ。
私は憤りを抑えてにこりと笑った。
「でしたら、殿下には私から『殿下は私の色仕掛けに引っかかっているご様子ですので離れたほうがよろしいそうです』と忠申いたしますね。ご助言ありがとうございます。それでは」
「ま、待て」
呼び止めを無視して歩みを再開する。
仮にも自身が殿下のお気に入りと認める人間に暴言を吐いたのだから、こうなるのは予想できたはずだ。
本当に告げ口したりはしないにせよ、この脅しで彼が懲りてくれればいいのだが。
しかしそんな私の願いも虚しく、彼は私の腕を掴んで引き留めた。強制的に振り返らせられ、顔をしかめそうになるのを堪える。
「……離していただけますか?」
下手に神経を逆撫でしないよう、あくまで冷静に訴えたが、逆に力を込められる。い、と声が出そうになった。
大げさにしたくなくて我慢していたが、だんだんと馬鹿らしくなってくる。
これ以上は付き合っていられない。私が警告を発しようとした時、図ったように思いがけない姿が現れた。
「君たち、楽しそうに何をしているんだ?」
「ちょ、長官」
外交府長官はにこにこと人の良い笑みを浮かべ、軽やかな足取りで私たちの元へ歩み寄ってきた。官僚が慌てて手を離す。
「僕も混ぜてくれない?」
「いえ、大した話ではありませんので。失礼します」
手首をさすりながら、裾を翻し逃げるように去っていく背を見送ると、長官に向かって頭を下げた。
「助かりました、ありがとうございます」
「もう少し決定的なところまで待っていようかとも思ったけど、怪我をされても困るしねえ。こういうことはよくあるの?」
「いいえ、ここまでは初めてです」
「そう? それならいいけど。あまりに目に余るようならちゃんと報告してくれよ。僕の責任問題になるからね。それはそうと、君に渡すものがあるんだ。ついてきてくれるかい?」
長官が返事を聞かずに歩き出したので否応なく後に続く。どうせ例のものだろうと目星はつく。
職場の前を通り過ぎ、最奥にある部屋に入る。
外交府長官の執務室は、書類が散乱するルムヤルの部屋とは正反対に完璧に整理整頓されている。物がなさすぎて本当に仕事をしているのかと不安になるくらいだ。
探し始めて間もなく、長官は目当てのものを見つけた。
「これだよ。いつものやつ」
私は差し出されたものを受け取った。予想通り、ルクサンディ国首相の娘、フランからの手紙だ。
ルクサンディから帰ってから、何の縁かフランとは文通友達のようになっていた。
文通友達というならどうして長官経由で受け取るのかというと、宛先が外交官エルーシャ・リンスになっているからである。
長官はペーパーナイフを取り出しながら感心した様子で言う。
「ファノン首相のお嬢さんもなかなか賢しいよね。君個人宛てでいいところを、わざわざ外交府を通させるのだもの」
私は苦笑いで同意した。借りたペーパーナイフで封を切り、手紙を開く。ふわりと華やかな花の香りが漂った。
紙面にはいつもの美しい筆遣いが踊っている。
長官は執務机にもたれかかり、片手を私に向けて促した。
「さあ、内容を聞こうじゃないか」
「それでは、読みます」
私は重々しく宣言した。呼吸を整えて、一気に読み進める。
「『親愛なるエルーシャ・リンス様
そろそろ本格的に暑い時期が訪れますが、お元気ですか?
あなたからのお返しは無事届いたわ。素敵な贈り物をどうもありがとう。香水はとっても良い香りだし、ガラスの容器もすごくお洒落ね。お部屋に飾ってあるのよ。
あなたが帰ってからもう一年経とうとしているのね。なんだかあっという間だわ。わたくし、同年代のお友達が少ないから、エルーシャと知り合えて嬉しかったのよ。何度も言ってるからもう知ってるわよね。
エルーシャはわたくしに必要以上に畏まったりしなくて気が楽だったの。あなたのそばにいると不思議と気分が落ち着くのよ。きっと……』」
ごほん、と私は一つ咳払いをした。
「『きっと王太子殿下も同じお気持ちなのでしょうね。
ついでだけれど、ギディもあなたに会いたがっているわ。気が向いたら会ってあげてちょうだい。
そうそう、近いうちにあなたの国から使節団が来るんですって? あなたももちろん来てくれるのでしょうね?
その時はグラント様もご一緒にね、必ずよ。
グラント様はお変わりなくいらっしゃる? あの方のムスっとしたお顔を思い出すだけで、自然とわたくしの頬はほころんでしまうのよ。
でも、いつかわたくしだけに笑ってくださったらって思うと……ふふ、なんて幸せな想像かしら。
良いこと? この夢を実現するためにはあなたにルクサンディに来てもらわないといけないのよ! わかっているわね。
エルーシャとグラント様にお会いできる日を楽しみにしています。あなたの友人フラン・ファノン』……以上です」
「ありがとう。何度聞いても圧を感じる文章だねえ」
読み終えた私はふーっと深く息を吐いた。フランの手紙を読むのは気力を消耗する。
口でもあけすけな彼女は、手紙だとよりパワーを増す。フランのすごいところは、これを私だけでなく赤の他人に読まれても平気なところだと思う。
長官は楽しそうに思案した。
「外交官宛てにこうも露骨に催促されると、無視するのも厄介なことになりそうだなあ……。君は今度の使節団の長がヴィクター殿下であることは知ってる?」
「はい、存じております」
「使者の任免権を持っているのは殿下だ。殿下に直談判してくるといい。これは外交府として君を推薦するということだから、当然外交官として仕事をしてもらうけど」
「……承知いたしました」
「不服そうだね。なに、殿下も君の訴えなら無下にするまいよ」
長官が笑うがそういう問題ではない。
ルクサンディに再び行けるのは嬉しいし、もちろんフランにも会いたいけれど、彼女の願いを叶えるために骨を折るのは私なのだ。なんだか釈然としないものがある。
彼の国の外交官、ギディが言っていたのはこういうことかと私は悟った。どこまで意図しているのか知れないが、フランは人使いが荒い。




