五話 19歳 4
久しぶりに帰宅が遅くなってしまった。街灯が照らす石畳を小走りに通り抜ける。
官吏用の宿舎に泊まるという選択肢もあったが、それにしては中途半端な時間になってしまったので、迷ったが帰ることにした。大通り沿いであれば夜警もいるから問題ない。
何事もなく自宅に着き、玄関の扉を静かに開ける。廊下の先に細い光が見えて、何となく安心して身体の力が抜けた。
人がいるところに帰るというのは、気づかぬうちにこびりついていた不安や緊張を洗い流す行為に思える。それは人が健やかに生きていく上でとても大事な行為だとも。
だからレオにとって自分がそういう存在でありたいのだが……私は自分と同じ紫の目を持つ青年を思い浮かべた。本人が望んでいないのだから、私の望みはエゴでしかない。
それでもやはり、切なさはある。
私は服の埃を払い、光の差すほうへ歩を進めた。狭い家だからものの数歩で光のあるじを見つける。
「ただいま」
椅子に腰かけ読み物をしていた父に声をかけると、父は眼鏡の奥の瞳を柔らかく綻ばせた。
「おかえり、エリー。今日は遅かったね」
「話が全然まとまらなくて。みんな譲らないのだもの」
かくいう私も譲らなかった一人なのだが。結局結論は後日に持ち越しとなった。
「母様は?」
「先に寝ているよ。明日は早いそうだ。鍋に夕飯があるから温めて食べなさい」
「ありがとう」
台所に立って火を熾す。
鍋のシチューを木杓で混ぜながら、私は父様を盗み見た。父は再び本に視線を落としていた。
燭台の光を受けて顔の陰影がたまに揺らぐが、父自身ははほとんど動かない。時折頁をめくるときだけ、影が形を大きく歪める。
父様は静の人だ。そして母様は動。父はひっそりと気配を殺してそこにいるが、母はじっとしていることがないのではと思うほどにぎやかである。
2人は正反対に見えるが、どうして結婚したのだろう。ふと気になった私は、体半分振り返ると父に尋ねた。
「父様はどうして母様と結婚したの?」
「どうしたんだい、藪から棒に」
「父様はもっと物静かな人のほうが好きにならなかったのかなって」
父は目を瞬かせたが、私の問いに真剣に向き合ってくれた。顎に手を置き少し考え込んだあと、告げる。
「裏切られても許せると思ったからかな」
「裏切られても……?」
予想外に穏やかでない言葉が返ってきて、私はおうむ返しした。
父がううんと再び考えるそぶりをする。
「いや、それだと少し語弊があるかな。この人になら何をされても構わないと思えたから、のほうが正しい気がする」
「何をされてもって、それなら母様がいつの間にかものすごい借金を作ってても許せるの?」
「ああ、許せるとも」
迷いなく頷く父に、私はさらに意地悪な質問をする。
「じゃあ、もし他の人と浮気していたら?」
「もちろん悲しいが、彼女の選択として受け止めるだろうね」
「……信じられない」
全然わからない。父の考えと自分の考えにこれほど乖離を感じたことは今までなかった。
シチューをかき混ぜていた手は完全に止まっていた。私はとうとう鍋に背を向けて、憤然と父に詰め寄った。
「どうして? なんで受け止めてしまうの?」
「実はね、私は自分に自信がない人間なんだ。小さい頃はのろまだ軟弱だとよくからかわれていたし、成長してからも女性には見向きもされなかった」
「そうなの?」
私は驚きに目を丸くした。同年代の男の人と比べてスマートな見た目だと思うけれど。おまけに官吏だから頭脳明晰なのも疑いようがない。今を思うと信じがたい過去だ。
父は頷いて続けた。
「だから、母様と一緒にいられることを奇跡のように思っているんだよ。それに……」
本を置いて立ち上がった父は、私の頭を胸元に引き寄せた。
「エルーシャ、こんなに可愛い娘まで授けてくれて、文句など何もないよ」
私は父の温かくて大きな手を皮膚に感じた。母と私を守ってくれる手。母様にはよく頭を撫でられたが、父様に撫でられたことは数えるほどしかなかった。
しばらく2人とも無言でいた。貴重な父の手のひらを存分に味わってから私は身を離した。照れ臭くて父の顔を見られない。
「へへ、母様が浮気なんてするはずないけど」
「そうだね、私も同感だ」
父様は優しく笑った。
「あっいけない、焦げちゃうわ!」
私は鍋を見て大げさに慌ててみせた。台所に戻って木杓を手に取り底からすくう。大丈夫そうだ。火を止めて椀によそうと父の前に座る。
しばらく無言で食べ進めていると、規則的に頁をめくっていた父がおもむろに口を開いた。
「恋人でもできたのか?」
「ごほっ、な、なんで?」
シチューが変なところに入ってむせそうになる。父は視線を本に落としたまま、言い訳のように呟く。
「あんなことを聞かれたら、そう思うだろう」
「別にいないわ」
「……まあ、男親には言いたくないだろうから、これ以上は聞かないが」
「そんなことはないけど……」
本当にいないもの。影もない。これではロイドのことを言っていられない。
「仕事でそんな暇ないわ」
「まだ忙しいのか?」
「最近はだいぶ落ち着いてきたけど、心の余裕がないの」
「そうか……」
ほっとしているのか残念に思っているのか、父の表情からは読み取れない。
「父様、ありがとね」
「何のことだ?」
「私のことで、色々言われてるでしょう?」
言われていないわけがない。特例の兼務といい、ロイドやヴィクター殿下に目をかけてもらっていることといい、調子に乗った若造と私のことを良く思わない人間だって多い。
私には直接言わなくても、父は嫌味をたくさん言われているはず。
しかし父は何のことやらと首を横に振った。
「あいにくだが、私は鈍感なのでね。悪口を言われても気づかないんだよ」
「もう、ごまかさないで」
「それが本当なんだ。母様にもよく『もっとしゃんと立って、そうすれば少しは良い男に見えるんだから』って褒められたよ」
「それって褒めてるの?」
全く似ていない物真似にくすくす笑う。私に気を遣わせないための嘘であることはわかっているが、私はそれに甘えた。
シチューを口に含むと、ほんのりとした甘さが口いっぱいに広がる。母様の幸せの味。
2人の愛情を感じながら、どうしても私は考えずにはいられない。レオにも家族がいたら、と。
そう思ったとき、つい口に出してしまっていた。
「恋人とかではないけど……紹介したい人は、いたの」
「いた?」
「うん。必要ないって言われちゃったから」
ぽつりと私が呟くと、父は本を閉じて私に向き直った。眼鏡を外して食卓に置く。
「恋人ではないが、大事な人なんだね?」
「家族みたいに思ってる人。だから、父様と母様に会って欲しかったんだけど、彼からしたら他人でしかないものね。私が大切な人たちに仲良くしてほしいっていうのは、私の我が儘でしかないの」
「その“彼”が会ってやってもいいと言うなら、私はぜひ会いたいけれどね。だってエリーの大事な人なんだから」
「父様……」
やっぱり父様が女性にモテなかったなんて嘘に決まってる。
私が感激して見つめると、父はごほんと咳払いをして視線を逸らした。
「その……話を聞く限りだと、ヴィクター殿下ではないようだな」
「どうしてそこで殿下の名前が出てくるの」
呆れると同時に一気に気が抜けた。感動までどこかに行ってしまったような気がする。
「ありえないわ。みんなして同じようなことを言うんだから」
「それなら、ヴィクター殿下のお側についている青年か?」
私はとっさに次の言葉が出てこなかった。
レオについて父に語ったことはなかったし、父から話題を出されたこともなかったはずだ。それなのになぜ。
「……どうしてそう思うの?」
「私だって宮廷に身を置く人間だ。噂話なら耳に入る。今殿下のお側にいるルクサンディの青年には、一人の官吏が関わっているらしい。その官吏のせいで帰国の日程が遅れた。これだけ情報があれば十分だ」
「……」
「おまえの口から説明を聞けるのを待っていたが……。エリーがルクサンディに行きたかった理由は彼だね?」
「……うん」
私はシチューに視線を落とした。先程とは違い、怖くて父の顔を見られない。
どうやってレオのことを知ったのか? ルクサンディの知識はどこで得たのか? 聞きたいことはたくさんあるはずだ。父は私に隣国の情報を得る機会などないことを、ロイドよりもよく知っている。
正面から微かに吐息が聞こえて、私は父の追及に身構えた。
「エルーシャ、小さい頃から不思議な子だと思っていたが、おまえはまだまだ私たちの知らない秘密を抱えているようだね」
「……」
「恐れなくていい。おまえが私たちの娘であることは変わらないのだから」
父の言葉に思わず顔を上げると、いつもと変わらぬ優しい微笑みがそこにあった。
「……ありがとう」
私はすんと鼻をすする。父は目尻の皺を深くした。




