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四話

 鹿毛の馬体にブラシを添わせると、馬はその鼻をレオに押し当ててきた。温く湿った鼻息に薄く笑い、尻のほうまで丁寧にブラッシングを続ける。

 王宮の厩舎はヴィクターの口添えで使わせてもらっていた。それがなければこうも気安く厩舎に通うことはできなかったはずだ。

 準備を進めていると赤茶色の髪の少女が駆けてくるのが視界の端に映った。溌溂とした雰囲気を纏う少女。年齢からすると少女と呼ぶのは正しくない気もするが、女性というにはやや顔立ちに甘さが残る。

 彼女はレオの前で止まり、一息ついて呼吸を整えた。


「殿下、レオ、お待たせしました」

「待っていないよ。鞍もこれから着けるところだ」


 レオの隣にいたヴィクターが朗らかに言った。答えようと口を開いたレオは、何も言わずにそのまま口を閉じた。

 好きに乗りたいのに面倒なことだと、鞍を乗せながらため息を押し殺す。これがあるから素直に感謝しようと思えない。

 エルーシャがレオの乗馬を見学したいと言うので承諾したものの、王孫殿下という余計な人間まで来ることになってしまい断ればよかったと何度後悔したことか。

 同僚との世間話でポロリと口を滑らせたのがよくなかった。彼がエルーシャのこととなると地獄耳になるのをすっかり忘れていたのだ。

 レオが黙って準備をする傍らで、エルーシャはヴィクターのキュロットと長靴姿を惚れ惚れと眺めている。


「殿下の乗馬服姿は初めて拝見しますがお似合いですね。こちらが殿下の御馬ですか?」

「ああ、遠出したり練習したりするときは大体こいつだ」

「綺麗な栗毛ですね」

「馬番がしっかりと世話をしてくれているからな」


 直々にお誉めに与った馬頭が恐縮した様子で、しかし見るからに頬を紅潮させて頭を下げる。

 レオは会話を無視して馬具を着け終えると、あぶみに片足を掛けさっさと飛び乗った。下からアッと驚く複数の声が上がる。

 ヴィクターに対して不遜極まりない態度に、馬頭が先程とは違う理由で顔を赤らめた。エルーシャがレオの代わりに地上の2人に謝っているが、ヴィクターはそのことのほうが気に召さないようだ。「どうしてエルーシャが謝るんだ」と口を尖らせている。

 彼らを置き去りにしてレオは馬の歩を進めた。手綱に反抗するそぶりがなくなってから、ゆっくりとスピードを上げていく。

 そのうちヴィクターも従者の手を借りてひらりと馬上に舞い乗った。ひととおり運動させた後、馬を巧みに操って高い馬術を披露して見せる。栗毛は従順に首を丸めて彼の手と脚に従っている。

 レオも幼少期には馬術を得意としていた。少しずつ感覚を取り戻しつつあるが、幼い頃から乗り続けている人間にはどうしたって敵わない。

 ヴィクターはエルーシャから手放しの称賛を受けて得意そうだ。彼女の側に歩み寄って馬上から声をかける。


「エルーシャは乗らないのか?」

「私は大丈夫です。こうして見ているだけで満足ですから」


 エルーシャは微笑んで断った。彼女は単独での乗馬経験がない。


「今まで全く乗る機会はなかったのか?」

「危ないからと止められていたのです」

「エルーシャの父君は意外と心配症なんだな」


 女性が乗馬するのは未だ珍しくはあるが、嗜む者も増えてきている。ヴィクターの意外そうな声に、エルーシャは曖昧に笑った。

 乗馬はラヴィニアが禁止されていたことなのだ。男子であったレオは馬術も求められたが、王女を一人で馬に乗せるわけにはいかない。何かあって顔に傷でも負ったら周囲の人間が罰を受ける。


 エルーシャは前世と全く違う気質を持っていそうに見えて、似通った部分が根底に潜んでいることがあった。乗馬に関してもそうだ。王女時代に口酸っぱく独りで馬に乗ってはなりませんと教育を受けた彼女は、今も誘われても乗ろうとはしない。

 これがロイドであれば違うのだろうかと、深い藍色の髪と瞳を持つ王太子を思い浮かべる。怖いと躊躇いながらも、ロイドの手を取る光景が容易に描けた。

 他事を考えていることを察したように鹿毛が首を振ったので、レオは慌てて手綱を絞った。


 人も馬も息が上がるくらいに動き終えると、馬から降りて紐を柵に繋ぐ。

 早朝から乗り始めたが、真夏の日差しはすぐに強さを増して気温もどんどん上がってきた。しっとりと汗ばんでいる馬体を洗い、丁寧に拭き上げて馬番に託す。

 そのうちヴィクターも帰ってきて、自らやる必要はないだろうに馬を手入れし始めた。これがエルーシャの前だけでないのなら素直に感心するが、当然口に出したりはしない。

 2人が手入れし終えるのを待っていたエルーシャは、これが本題とばかりにレオに尋ねた。


「レオ、今日の仕事終わりは時間ある? 夕ご飯を食べに行きましょうよ」

「いいけど」


 ちらりとヴィクターを見ると、案の定渋面を作っている。


「俺は行けない」

「さようですか」


 エルーシャが何ら気にした様子なく言った。なかなか容赦がない。

 ヴィクターは不服そうだったが、食い下がることはなくレオと連れ立って職場へ戻った。帰り道でぶつぶつと「ずるい」とか「冷たい」とか文句を言っていたが。

 いったい誰に対して言っているのやら。レオにだったら的外れだし、エルーシャにだったら本人に言えばいい。




 今日の仕事が終盤に差しかかった頃、エルーシャはレオの職場に顔を出した。

 まだ分厚い紙の束を抱えているレオを見てエルーシャが聞く。


「まだかかりそう?」

「ごめん、もう少しかかる」

「わかった。待ってるわね」


 夕食の約束をすると必ず彼女は終業時刻直後にやって来るので、お馴染みのやりとりとなっている。どうやらレオが仕事を終えたときに自分が来ていなければ5分と待たずに帰ると思っているらしい。心外だ。エルーシャであればいくらでも待つつもりなのに。

 2人の会話を背中越しに聞いていたレオの同僚が、我慢できないと言いたげに振り返った。うずうずとした様子で懲りずに何度目かの質問をする。


「本当に恋人同士じゃないのか?」

「違います」「違うって」


 レオとエルーシャは異口同音に否定した。レオが続ける。


「何回も言ってるでしょ。それ、絶対にヴィクター殿下の前で言わないでよ。面倒くさいから」

「面倒くさいなんて言ったら不敬罪でしょっぴかれるぞ」

「本人の前でも言ってるから大丈夫だよ」

「……妙に肝が据わってるよな、おまえって。たまに只者じゃないんじゃないかと思うよ」

「ありがとう」

「呆れてるんだよ」


 レオと同僚との掛け合いをにこにこと嬉しそうに眺めていたエルーシャは、


「それじゃあ、お仕事が終わったら声をかけてね。私は殿下に挨拶してくるわ」


 さらりと言い残して出て行った。

 後ろ姿を見送りながら同僚が呟く。


「……あの子もレオに負けず劣らず只者じゃないと思うけどな」




 街中の大衆食堂に着くと、エルーシャは挽き肉とじゃがいものパイを、レオは野菜のシチューを頼んだ。2人とも酒は頼まず果実水を注文する。

 店内は騒がしく、すでに出来上がっている男たちが陽気な笑い声を立てている。

 エルーシャは束の間何の気なしに男たちを眺め、それからレオに焦点を戻した。きらりとアメジスト色の瞳に光が入る。


「仕事はどう?」

「半年もいればさすがに慣れるよ」

「レオのことは私の耳にも入ってるわよ。歩く大陸辞典なんて呼ばれてるらしいじゃない」


 からかいを感じ取ってレオは顔を顰めた。


「誰が言い出したか知らないけどセンスがないな」

「あら、わかりやすくていいと思うけど。それにしても、半年でよくそこまで各国の地理や歴史を覚えられたわね」

「……好きだから覚えられるのかもね」


 へえ、と吐息のような相槌を零すエルーシャの目には、感心の他に懐かしさも混じっているようだった。

 きっと心の中では思っているのだろう、かつての弟も得意としていた、と。

 少なからぬ後ろめたさを抱きつつ、料理が来たのを良いことに食事に集中するふりをする。エルーシャもそれに倣った。

 2人して無言で食事を進める。レオは男にしては食が細いが、それでもエルーシャよりは食べるのは速い。大方食べ終えたところでふとレオが顔上げると、エルーシャは目を伏せてパイを切り分けていた。

 雑多な店内で、レオの目にはエルーシャが一人だけ別の空気を纏っているように見えた。見る者が見れば高度な教育を受けた所作とわかるだろう。

 優雅な仕草で料理を口に運んでいたエルーシャが、ぼんやりと自分を見ていたレオに気づく。


「どうかした?」

「何でもない」


 レオは首を振って返した。彼女が首を傾げると、纏っていた不思議な空気は霧散した。

 隣の席で赤ら顔の男たちが喧しくダミ声を交わしている。どうやら今度ある祭りについて話しているらしい。

 レオは興味も湧かず聞き流していたが、エルーシャは違ったようだ。パイを切る手を止めて、忘れてたと目を輝かせる。


「20日後に女神祭があるのよ。街中夏の花で飾られて、いろんな出店が立つの。去年はまだいなかったでしょう? 一緒に見に行きましょうよ」

「ヴィクター殿下と行きなよ」

「殿下と? まさか」


 エルーシャは笑い飛ばした。ヴィクターの顔を思い浮かべて、多少不憫に思いながらはっきりと断る。


「人混みの中を歩きたくないから行かない」

「そっか。レオと行けるなら休みをもぎ取ろうと思っていたけど、大人しく仕事することにするわ」

「好きにしなよ」


 ヴィクターがこの場にいれば「何だその言い方は」と怒り出しそうな返事の味気なさだが、エルーシャが気に留める様子はない。

 むしろ別のことが気になっていたようで、ちょうど名前が出たタイミングで尋ねてくる。


「その、ヴィクター殿下は……レオに優しい?」

「優しいと思う?」

「……ちょっと当たり強いわよね?」


 エルーシャが困ったように眉を下げる。その顔には苦笑と労りが浮かんでいた。果たして自分のせいだとわかって言っているのだろうか。


「優しい方なんだけど、容赦なく人を使うところがあるから。レオが優秀な分こき使われるのかしらね」

「君もこき使われた経験があるの?」

「私は部下じゃないから仕事に関して指示はされないけど、仮に部下だったら贔屓することはないと思うわよ」


 したり顔で語るエルーシャに本当か? と疑いながらも、意外にも妙に説得力を感じる。


「ねえ、それよりレオを父さまと母さまに紹介したら駄目? 一度家で食事会をしましょうよ。」

「何て紹介するつもりだよ。恋人だって誤解されたら困るだろ」

「そうだけど。レオは誘わないとすぐ食事を抜くでしょう? わかってるのよ」


 咎める目にレオは視線を逸らした。ルクサンディにいた頃よりも体格は良くなったが、平均に比べると細身であるのは事実だった。長い監禁生活を送っていたせいで食に対する執着心がない。


「エルーシャだって仕事に集中してるとすぐに食事を忘れるだろ。君に言われたくない。こうしてたまに付き合ってくれれば十分だよ」

「でも……」


 エルーシャは諦め切れないようだった。けれど年頃の娘がいい歳の男を連れて来たとなれば、親は恋人かそれに近い何者かと思うに違いない。

 レオには現状で十分すぎるのだ。必要以上にエルーシャの人生に関与したいとは思っていない。


 彼女が幸せであればいい。ただそれだけ。

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