一話 19歳 1
夏の始まりを思わせる日差しの下、私はせっせと畑仕事に勤しんでいた。
土を握って固めたり指でこすったりして状態の記録をとる。麦わら帽子の下にじんわりと汗が滲んだ。
太陽の光は緑を色鮮やかに照らしている。
最近ぐんと成長速度を増した茎葉に、私はだらしなく目尻を下げた。自分が何で育てた作物はどうしてこんなに愛おしいのだろう。
私がいるのは王宮の敷地内にある畑である。隅の僅かなスペースを借りて、この春から数種類の野菜を育て始めていた。
農土府の役割は食料の安定供給と農業を発展させることだ。そのために農作物の撮れ高と備蓄を記録したり、市場価格と流通を調査したり、生産性の向上のための施策を打ち出したりする。
つまり今やっていることは、黒土の研究の一環ではあるものの、もはや私の仕事の範囲を超えていた。だからこうして休憩時間に様子を見に来ているわけである。実益を兼ねた趣味と言ってよい。
兼務となって半年。当初は仕事に忙殺されて趣味どころではなかったが、最近ようやく要領もつかめてきたところだった。
葉っぱの色味をじっくりと観察し、ノートを汚さないように気をつけながら茎の太さを書きつける。
「やっぱりこっちのほうが立派だし伸びがいいわね」
「……エルーシャ? 何をしているんだ?」
耳馴染みのある声が聞こえ、しゃがみこんでいた私は顔を上げて振り返った。ヴィクター殿下が少し離れた石畳の通路で立ち止まっている。
殿下の隣には着飾った若い令嬢が立っていた。見覚えがないので官僚ではなさそうだ。夏を先取りしたような爽やかな青のドレスは、遠目からも彼女の金色の髪によく似合っているように見えた。
女性に声をかけてから殿下が私のほうに近寄って来るのを見て、私も立ち上がって歩み寄る。殿下の磨き上げられた靴を土で汚すわけにはいかない。
畑の入り口で立ち止まると被っていた麦わら帽子を取った。髪が藁に引っかかって引っ張られる。
殿下が私の頭を珍妙な面持ちで見るのを気にせず、形だけは優雅にお辞儀した。
「ごきげんよう、殿下。珍しいところで会いましたね」
「それはエルーシャが珍しいところにいるからだろう。こんなことまで仕事なのか?」
「これは命じられた仕事じゃないんです。趣味みたいなもので」
「趣味も仕事なのか……」
呆れ混じりに呟かれ、誤魔化すように頬を掻く。殿下があっという顔をしたのを見て、私は自分の失敗に気づいた。
「20歳を前に顔を土で汚す女がいるか?」
「ここにおりますよ。ええと、ハンカチ……」
ポケットからハンカチを取り出そうとすると、それより先に殿下が皺一つないハンカチを差し出す。
「使え」
「殿下のものを汚すわけには……」
当然断ろうとしたが、殿下は構わず私の顔を拭いた。汚れた手で殿下の腕を掴むわけにもいかず、私はされるがまま棒立ちになる。
殿下は思いがけず繊細な手つきで私の頬を拭い、少ししてから満足そうに頷いた。
「よし、土は取れたぞ」
「ありがとうございます……」
もごもごとお礼を言う。汚れたハンカチをいただこうとする前に殿下はさっさと懐に仕舞ってしまった。
汚れ物を殿下に持たせるなんて臣下失格だが、どことなく嬉しそうな様子に謝って水を差すようなことは言いづらくて視線を逸らす。視界の端に所在なく佇む青のドレスが入ったところで、ようやく殿下とともに来たご令嬢のことを思い出した。
日傘を差して華奢な靴を履く彼女は、突然自分を置いて行った殿下を健気に待っている。
「殿下、あちらのお方は……」
「ああ、俺は彼女ーーキーソン伯爵令嬢に庭園を案内するために来たんだ」
ヴィクター殿下と違い畑には一切近づかず、舗装された路で待っている。貴族令嬢のあるべき姿だ。
殿下が彼女に手を上げると伯爵令嬢は優雅に腰を落とした。私に向けたわけではなかろうが、ぺこりと返礼して殿下に向き直る。
「それはご案内中に引き留めてしまい申し訳ありませんでした。さ、早くお戻りください」
「もう少し有り難がってくれてもいいと思うんだがな……それじゃあ戻るよ。気をつけて」
「はい。お声をかけてくださりありがとうございます」
未練げなく踵を返した殿下を私は頭を下げて見送る。殿下が戻ると、2人は連れ立って庭園のほうへ歩いていった。
さてと、と帽子を被り直して再び畑に向き合う。あまり昼休憩の時間は残されていない。
元の場所に戻って記録を再開すると、支柱のしるしを目安に数を書き付けていく。最後に総括を書いたら終了だ。
立ち上がると両手を上げて大きく伸びをする。ずっと同じ姿勢だったせいで腰が痛い。けれどゆっくりする時間はない。
使った道具を片付け、手洗い場でさっさと服を着替える。こういうとき官衣が筒型だから楽で助かる。女性の同僚からは「地味すぎて洒落っ気が足りない」と不評だが。
歩きながらはしたなく裾をパタパタとあおいで火照りを逃がし、人影が見えると手を止めて官僚らしく澄まし顔を貼り付けつつ、若手が詰める職場へと戻る。
「おかえり。また畑か?」
「はい。先輩から引き継いだトマトちゃんは元気に育ってますよ。見に来ます?」
「遠慮するわ」
あんなに可愛い子を見に来ないなんてと私は口を尖らせた。不満げな私を気にせず、先輩がペン先で部屋の外を指す。
「そうだ、長官が来てるみたいだぞ。何か見せるものあるんじゃなかったか?」
「本当ですか? 決裁が欲しいものがあるんです」
先輩の言葉に私は急いで身だしなみを整え、書類を引っ掴むと早速長官の元へ向かった。これを逃すと次はいつになるかわからない。
執務室に通されるとルムヤルは相変わらず大量の書類に囲まれていた。顔を上げてちらりと私の顔を見たルムヤルが意外そうに片眉を上げる。
「なんだ、元気そうじゃねーか」
「それはもう、長官に仰せつかった業務に追われて元気いっぱいですよ」
私の精一杯の嫌味は反応も返されなかった。嫌味にカウントすらされていないかもしれない。負けた気分だ。
長官は私が差し出した書類を奪い、ざっと目を通してサインした。
「良いだろう。各府にばら撒けるようにしておけ」
「わかりました」
「外交府の仕事はどうだ?」
「大変ですが楽しいです」
二つの府を行ったり来たりする生活を思い浮かべながら月並みな返答をする。
兼務となって最初に苦労したのは、私を外交府の出張窓口と思っている農土府の官僚たちの雑務に追われることだった。もしくはその逆。外交府まで行くのは面倒だ、ちょうど近くに外交府所属の人間がいることだしあいつに持ち込もう、と私を使いっ走りに捉える者が非常に多かったのである。
私個人で判断できるものならいいがそんなものは少ない。各部署ごとに書類をまとめ、承認を得るのは一苦労だった。というのも、外交府は外交府で私を農土府の人間としてみなしているので、その場で説明を求められたりするのだ。わからないと返事するとさらに一往復余計な手間が増える。
そんなわけで、自分が全く関わっていない業務にも精通せざるを得なかったのである。
遠い目をした私にルムヤルが続ける。
「あっちの長官はクセが強いだろ?」
私はあっけに取られて長官を見つめた。外交府長官もルムヤルには言われたくないに違いない。
「なんだその顔は」
「いえ、その……何でもありません」
冗談なのか本気なのかわからない。
「外交府長官とは直接話す機会はありませんから。先輩方は良くしてくださいます」
「ふん」
自分から聞いたくせに面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「模範解答はつまらん。本音を言えよ」
「……中には非常に敵視してくる人もいますね」
私が数人を脳裏に思い浮かべながら白状すると、ルムヤルは楽しそうに口角を吊り上げた。
「そうだろうよ! 若造のくせに二府跨いでる上に王族や高官とも親しいんじゃ、やっかまないほうが嘘だろ」
部下の不遇を喜ぶとは、まったくこの人は……。呆れながらも、私を敵視する人間がいるのは事実だった。私が怪しげなすべで権力者と懇意になり、華やかなポジションを獲得していると思っているのだ。
前世の記憶を利用しているのは事実なので完全に否定できないのが辛いところだが、私だって望んで兼務になったわけではないとは強く主張したい。プライベートと仕事のバランスが崩れきっている現状は本意ではないのだ。
ルムヤルは背もたれにぐっと体重をかけて腕を組むと、私を見下ろすように顎を突き上げた。これは耳の痛いことを言われそうだ。
「お前はどうせ空気悪くしたくないとか甘っちょろいことを考えて何も言い返してないと思うがな」
「……はい」
「根底にあるのは『面倒くせえ』だろ」
私は否定できなかった。仕事をちゃんとやっているならいいんじゃない? という気持ちがあるのは事実だ。
だって正直どうでもいいんだもの、自分がどう思われていたって。
私が必死になるのは家族ーー父さま、母さま、レオと、ロイドに関わること。それとヴィクター殿下も。お世話になっている先輩や知り合いのために尽力することは厭わないけれど、自分を嫌っている相手にこちらからあえて何かしようとは思わない。
「相性が悪い奴はとことん合わないもんだ。それは仕方ないにしても、見下してくる奴をそのままにしておくと後々厄介なことになりかねんから気をつけろ」
「……経験者は語る、ですか?」
「よくわかったな」
ルムヤルは人の悪い笑みを浮かべた。
「長官はどうされたんです?」
「説得して味方につけたに決まってるだろ?」
「……さようですか」
どういう説得だったのかは聞かないでおこう。私は相槌を打つだけに留めた。
「そういや、また土いじりに精を出してるみたいだな」
「あ、はい。ようやく余裕を持てるようになってきたので、人に任せきりだったのを自分でもやり始めています」
「まさか俺も本気でお前が2人分の仕事をこなすとは思ってなかったんだがなあ、感心感心」
「……今、何とおっしゃいました?」
とんでもない言葉が聞こえた気がした。気のせいであってほしい。
私の願いも虚しく、ルムヤルは悪びれずぺろりとのたまう。
「だって普通は無理だろ。2人分だぞ。物理的に無理だって」
「長官がやれとおっしゃったではありませんか!」
「いや、そのうち音を上げると思ったらお前何も言わないしさ」
「やれと言われたからにはやりますよそれは! 一体どれだけプライベートの時間を捧げたことかっ」
この半年間、私はずっと隈とお友達だった。会う人会う人にぎょっとした顔で見られたものだ。最近になってようやく、本当にようやく、10代に相応しからぬ隈とおさらばすることができたのである。
私の怒りなどどこ吹く風と、長官は「でも勉強になっただろ?」とまるで良いことでもしたような顔で頷いている。
……決めた。密かに考えていた計画を実行に移してやる。絶対に就業環境を改善してやる。
私は心の中で固く誓った。




