二十二話 18歳 16
外交府長官から今後の説明を受けて職場に戻る。
見慣れた廊下に安心感を抱き、私は自分がすっかり農土府の人間になっていたのだなあと気がついた。最初は配属先にがっかりしていたというのに変わるものだ。
長官に兼務の件を報告すると、ルムヤルは事前に知らされていたようで驚きはしなかったが、大層不満そうに鼻の穴を膨らませた。
「あいつ、宰相に直訴するとは卑怯な奴め。いいか、兼務になったからと言って仕事を減らすつもりはないからな。承知しておけ」
「あの、それって私が2人いないと無理だと思うんですが」
ルムヤルになら思ったことをはっきり言える。
正直農土府の業務だけでも手一杯なところがあるのに、これに加えてとなると研究を進められなくなってしまう。それは困る。
私の至極真っ当な意見はルムヤルに鼻で笑い飛ばされた。
「なんだ、やる前から弱気だな。こっちの仕事のついでにあっちの仕事を片付ければいいんだよ」
「簡単に言わないでください……」
長官ならできるかもしれないが、その域にたどり着くまでどれくらいかかるのか。
当分まともな休みは取れなさそうだと私は項垂れた。
翌日から謹慎期間に入った。私には調べたいことがあった。謹慎という不名誉な形ではあるが、まとまった時間が取れるのは有難い。
取っておいた新聞記事を書棚から取り出す。エミリオ王子が生きていた? と一面に打ち出し、センセーショナルな噂を巻き起こした例の新聞だ。
記事の署名にはシービィとあるが、新聞社の人間なのか、それとも外部の人間か。調べる価値はあるだろう。
ルクサンディにいたときに、もしかしたらと思ったのだ。
私はメイザン政府がエミリオ王子の生存情報を入手し、それが外に漏れたのだと思っていた。ヴィクター殿下も恐らく同じだろう。
でも、もし逆であったら? 私が知っている時系列より前に、街で噂が流されていたのだとしたら?
彼の生存を知っている人物がメイザンにいたならば、可能性はゼロではない。
謹慎期間の最終日に私は新聞社に向かった。
年季の入った木製の扉を叩くと、髭面の男がのそりと顔を出す。
「なんだ嬢ちゃん、うちに何か用か」
「この記事について聞きたいことがあるんですが」
私が持っていた新聞を見せると、男はあからさまに「またか」という顔をした。
「お嬢ちゃん、記事に興味を持ってくれたのは嬉しいんだがな、あいにく個別には対応してないんだよ」
「名乗るのが遅くなりましたが、私は王宮官吏のエルーシャ・リンスです」
「……あんだって?」
応対する気なく門前払いしようとしていた男は、私が政府の人間だと名乗ると信じ難いという表情で振り返った。
「通してくださいますね?」
「ちっ、仕方ねえな」
男は小声で悪態をつき、面倒臭いという態度を隠そうともせず一応という体で応接間に私を通した。それから「待ってろ」と言い残し奥へと引っ込む。
お茶を淹れてもらえる気配は当然ないので、部屋に飾られている表彰状を眺める。10年ほど前に表彰されたのを最後に、栄誉とは久しく縁遠いようだった。
しばらくするとしゃがれ声が近づいてきて、杖をつき足を引きずった女が現れた。
「まったくしつこいな、何度来られてもネタ元は明かせな……これはまた想像以上に若いお客さんだね」
中年の女は私を見て目を瞬かせたが、杖に体重を乗せて立ったまま座ろうとしない。長く話す気はないという意思表示だ。
ソファーから立ち上がると私は改めて挨拶した。
「農土府所属のエルーシャ・リンスと申します。この記事の件で参りました」
「農土府だって? 何でまた? まあいいさ、何度も言ったがうちは記事を載せただけだよ。筆者について聞かれても答えられないし、圧力をかけるのならそれを記事にしてやるから覚悟することだね。弱小新聞社だからって舐めてもらっちゃ困るんだ」
これまでも政府の人間が何度か聴取に来たらしい。情報の流出を危惧するなら当然だ。
何度も繰り返したセリフだからだろうか、女はすらすらと淀みなかった。あくまで外部からの持ち込みであると主張する彼女に、半分以上は鎌をかけるつもりで私はあえて断定的に言う。
「この記事を書いたのはあなたでしょう、シービィさん。この名前が本名かはわかりませんが」
「……どうしてそう思うんだい?」
女は僅かに眉を顰めた。
「あなたにはルクサンディ人の特徴がありますもの。高い鼻と、大きな口。ルクサンディ出身の女性であること、そして……その足を拝見すれば、自ずと答えは導き出せます」
レオとルクサンディ家の執事の言葉から、過去にレオに近づいたことで惨い目に遭わされた女性がいたことは窺い知れた。
その女性がもしメイザンにいるとしたら、記事の情報元は彼女ではないだろうかと私は仮説を立てていた。
正直可能性は高くないと思っていたし、まして記事の執筆者が当人であるとは予想もしていなかったが、この反応は当たりのようだ。
少しは長く話す気になったらしく、女は「よいしょ」とソファーに腰かけて足をさすった。私もソファーに座り直す。
女は髭面の男に「お茶持ってきてちょうだい」と頼むと、居住まいを正して私に向き合った。
「さて、あんたは何を知ってるんだい?」
「あなたがルクサンディでレオという男に会ったことがあること。そしてそれが原因で、クレメンティ家の人間から拷問か何かを受けたこと。……信じがたいことに、もしかしたら執事が率先して行ったのかもしれませんね」
「……聞き覚えがある気もするが、さて、レオなんてよくある名前だから」
女はとぼけようとするが、名前を聞いた瞬間、その瞳に痛みか苦みのようなものが過ったのを私は見逃さなかった。
嫌な記憶を呼び起こすことを心の中で謝りながら、私は畳みかける。
「レオはあなたのことを覚えていました。二度とあんなことを繰り返したくないと、今でも後悔している様子でした」
「後悔か……そんなもの、する必要はないのに」
女はしゃがれた声で低く呟いた。ソファーの背もたれにもたれかかり、ふーっと澱みを吐き出すように長いため息をつく。
男が紅茶を持って現れた。私にお茶を勧め、自分も口を付けてしばらく考えに耽っていたが、沈黙の後吹っ切れた様子で話し始めた。
「ユーゴ・クレメンティが捕まったという話を聞いたし、もう喋ってもいい頃合だろう。もう15年も前のことさ、私はルクサンディで木端記者をやっててね。クレメンティの周りが何やらきな臭いって情報を得て、下働きとして屋敷に潜入したんだ。そのときさ、レオに会ったのは」
遠い過去を思い出そうとして、彼女の目はぼうっと虚空を眺めている。
「レオが王子だなんて、当時は信じちゃいなかった。だけど10代半ばの少年が閉じ込められているのを見過ごすわけにはいかないと思ってね。私は彼を助けようとしたけど、屋敷の人間に気づかれて酷い拷問を受けた。死ななかったのはたまたまさ。メイザンの医者が通りかかったのはまさに奇跡だった。そのときに足を痛めてしまって、それ以降上手く動かせない。この声も、昔はまだ聞ける声だったんだけど、喉を潰されてまともに話せなくなってしまった。これでもマシにはなったけどね」
「そう、でしたか」
「それからさ、もしかしたらあの少年は本当に王子だったのか? なんて馬鹿げた推測が私の頭にこびりついて離れなくなったのは。けれど、これ以上クレメンティの周りを嗅ぎ回るのは危険だった。助けてくれた医者に頼み込んでメイザンに連れて行ってもらって、レオのことは忘れようとしたけど、忘れることなんてできなかったよ。……あの子はどうなったんだ? 今はどうしてる?」
「彼は無事です」
「そうか……よかった」
女はほっと目を綻ばせた。
「シービィさん、でよろしいんでしょうか」
「シービィはルクサンディに来てからライターとして名乗ってる名だ。シービィと呼んでくれればいいよ」
「シービィさんはレオに会いたいですか?」
彼女は首を横に振った。
「レオには酷なところを見せてしまった。私の顔を見たら嫌なことを思い出すだろうから、私には会わないほうがいいさ」
「そうですか……」
レオはシービィに会えば喜ぶのではないかと思うが、彼女に会う気がないのなら無理に会わせることはできない。
私は残念に思い――最近同じようなやりとりをしたことを思い出した。
シービィの立場に私がいて、私の立場には宰相がいた。ロイドに真実を話す気はないと伝えると、宰相はその顔に憂色を浮かべて私の意思を受け入れた。
宰相も、私と同じようにロイドは喜ぶはずと思ったのだろうか。
私が新聞社を後にした時、辺りは夕暮れの気配を纏い始めていた。
本当なら今日まで自宅で待機していなければならない身。顔見知りに見つからないよう警戒しつつ足早に歩を進める。
最近は遅くなりがちだったから、この時間に街を歩くのは久しぶりだった。
空は冴え渡るような紫から遠く朱色へと移りゆき、王都の街並みは燃えるがごとき緋色に染まっている。
軒下には痩せた猫が丸まり、どこに繋がれているのかロバの鳴き声が微かに聞こえる。
不意に私は足を止めた。
それほど人通りは多くないが、通りの真ん中で立ち止まった私を避けながら人々は通り過ぎて行き、あるいは後ろから追い抜かして行く。
私はたった今生まれたばかりの赤子になったような奇妙な感覚に陥った。
――こんなにも世界は美しかっただろうか?
ある者は急いだ様子で小走りに駆けて行き、ある者はのんびりと帰路に着く。これからが始まりとばかりに煌々と明かりを灯す飲み屋に入っていく人がいる。
退屈で変わらぬ日常を、人々は有り難がらずに生きている。
唐突に思った。
私はメイザンが好きだ。
これで第一部にあたるルクサンディ編は終了です
ここまで読んでくださりありがとうございました




