一話 7歳
おんぎゃあと産声を上げた時のことは覚えていないものの、記憶にある最初の映像はこちらに伸ばされる2つの手。
壊れ物を扱うように私をそっと抱き上げて胸元を開ければ、私は一も二もなく乳に吸い付く。
「いい子だね。たんとお飲み……」
わたし…… わたしはなにをしているんだろう……
ひどく苦しかったような……
でも今は……すごくあたたかい……
思考はろくに働かず、私はすぐに眠りへと誘われた。
私のささやかな髪を親指がくすぐる。その指はかさついていたが、温かくて心地よかった。
揺蕩うようにまどろみ、お腹が空けば泣き、ふと思考を巡らせるが纏まらず霧散し、また睡魔に抗えず眠った。
私、エルーシャ・リンスは王宮に仕える官吏の娘。7歳である。
父は宰相様の部下のそのまた部下で、一応貴族の末端に籍を置く。母は商人の娘で、王宮で下女として働いている。私の豊かな紅茶色の髪は母から、紫色の目は父方の家系から受け継いだものだ。
城からほど近い場所に位置するこぢんまりとした一軒家で、親子3人仲良く暮らしている。
そんな私の楽しみはたまにあるお城訪問。なぜかというと、運が良いと遠くから王太子殿下を拝見できることがあるから。
ロイド王太子殿下の通る道は使用人の入ってよいエリアからは大分離れているので、麦粒サイズの御姿である。もちろん顔色などわかるはずもないが、彼が幸せでありますようにと指を組んで祈りを捧げる。
4年前に王太子妃殿下が亡くなった頃はかなり気を病まれたそうだが、月日の流れは優しく包み込んでくれただろうか。どうか心身健やかでいらっしゃいますように。
母は私の奇行には慣れたもので、王太子殿下の姿が見えなくなるまでやらせてくれた。
「気は済んだかい?」
「うん」
「それじゃあ行こうか」
私に立ち上がるように促し、母が手を差し出す。私はにっこり笑ってぎゅっと繋いだ。
前世の王女時代にはついぞしたことのない経験だ。私は当然傅かれて生活し、人とは節度ある距離を保っていた。家族を愛し、私も家族から愛情を与えられたが、甘えられた記憶はあまりない。
単純に比べることはできないが、繋いだ手の温かさを知った今は贅沢はできなくても幸せだなあと思う。
前世の私はメイザン国と敵対しているルクサンディ国の王女だった。名はラヴィニア。
メイザンとルクサンディは停戦中で長年睨み合っている状態だったけれど、ラヴィニアが9歳、ロイドが10歳の時、恒久的な和平のために婚約が結ばれた。
政略結婚ではあったが2人は穏やかに親睦を深め、いつしか互いに愛情を抱くようになっていく。
しかし順調に和平に向かっていると思われた矢先、好戦派によって毒を盛られ、私はこの世を去ることになった。随分ともがき苦しんだ。死相はさぞ醜いものだっただろう。
もう人に殺されるような人生は遠慮申し上げる。今の身分と容姿に相応しい平穏で平凡な生涯を送りたい。
というわけで、私は誰かに前世の記憶があると訴えるつもりはかけらもなかった。たとえ言ったところで気が触れたと思われるのが落ちだろう。
それでも遠くからロイドの幸せを願うことくらいは許してほしいのだ。
母とやってきた城で、ある時私は一枚の絵画に目を奪われた。微かに笑みを浮かべるたおやかな女性が描かれている。
これは大変な傑物だ。前世で一流の品に囲まれて育った私はうぬぼれでなく目が肥えていると自負している。ぜひ作者の名前が知りたいとサインを探して目を凝らすが見当たらない。
「おかあさん……あれ?」
私が絵画に気を取られているうちに母の姿はなくなっていた。どうやらはぐれてしまったらしい。
戻ってくるかもしれないとしばらく待ってみるも、一向に現れる気配はない。通りかかる下女が3人目になったところで、不審げな目線に耐えかねて私は歩き出した。
いつも待機を命じられる休憩所へ行けば何とかなるだろう。幸いにして道順はわかる。
わかると思っていたのだが。
「うーん、こまったわ」
私は迷っていた。どこかで曲がるところを間違えたらしい。格好だけは勇ましく、仁王立ちして腕を組む。やみくもに動き回るのもよくないが、外れの方に来てしまった様子で人が通る気配もなく、ここでじっとしていても仕方がない。
人気のある方へ向かいつつ、次に会った人に道を聞こう。そうと決めると私は再度歩き出した。
「きゃっ」
「うわっ」
歩き始めていくらかも経たないうちに、曲がり角で誰かとぶつかって私は尻もちをついた。見上げると小さな男の子が困惑げに立ち尽くしている。
「おまえ、こんなところで何をやってるんだ?」
レディに手を差し伸べようとは思いつかないのかしら。私は内心腹を立てながら自力で立ち上がり、スカートをはらった。立ち上がると私の方が少し高いくらいであまり背丈は変わらない。
髪は紺色、目は薄い青。そして同じくらいの年の少年というと。
「ヴィクターでんかでしょうか? しつれいいたしました」
私はスカートをちょんと摘まんで礼儀正しくお辞儀をした。舌が回り切らず舌足らずになるのはご愛嬌。
「私はまいごです。でんかこそ、こんなところで何をされているんですか?」
「おれのことはどうだっていいだろっ」
「あ、言いたくないのでしたらかまいません。それではしつれいします」
「お、おい、少しぐらいキョーミをもて!」
我儘な。聞かれたいのか聞かれたくないのかはっきりしなさい。
前世で弟をたしなめたことを思い出しつつ、私は愛想良く笑った。
「えーっと、でんかもまいごですか?」
「ちがう!」
「それはよろしゅうございました。それではこんどこそ」
「ききたいならこたえてやるっ」
殿下がお顔を真っ赤にして甲高い声で叫ぶ。なんだか面倒そうだからさっさと退散しようとしたのに、勝手に話し始めたせいでタイミングを逸してしまった。
「おれは、帝王学がイヤでにげてきたのだ。帝王学ってわかるか? おまえが考えるよりもずーっとむずかしいのだぞ」
逃げてきたと悪びれもなく明言する殿下に、今度こそ呆れた顔を隠せなかった。私が理解できないと思ってこんなことを赤裸々に話しているのだろうけど。
帝王学は前世で私も学んだが、6歳の頃からやっていたかというと怪しい。メイザンではかなり早い時期から教えるのだなと関心するが、それで嫌いになっていたら元も子もない。
「でんかは、どうしててーおーがくがおきらいなんですか?」
「しんみんのためと言っているが、おれたちがぜいたくするために税金とかをあつめるのだろう? 王なんていないほうが、みなしあわせになれるのではないのか」
「あらあら……」
随分と過激な思想をお持ちのようで。王族でなければ下手したら打ち首では?
教師がどんな教え方をしたらこんな拗らせ方をするのだろう。そして、こんな時に道を説くのがヴィクターから見て祖父にあたる王であったり、父のロイドであったりするのだと思うのだけど……一体何をやっていらっしゃるのかしら。もしかして仲がよろしくないの?
代わりには到底なれっこないが、私の思うことを話してみる。
「でもでんか、王さまがいなくてはできないこともあるとおもいます。ぜいきんをつかって王族はくらしていますけれど、それだけではないですよね。みちをきれいにしたり、はしを作ったり、ききんにそなえたり」
殿下は私の意外な口上にしばし呆然となったが、我に返ると反論してきた。
「しかしそれは王がいなくてもできることだろう?」
「私は、王さまがおわすだけでしんみんにとってきぼうになることだってあるとおもうのです。もちろん、国をよくおさめておられればのはなしですが」
ラヴィニアが医療院や孤児院に慰問で訪れると、皆それは目を輝かせて歓待された。あの喜びようが嘘でないのなら、王族の存在は辛い日々の中で少しは励ましになるのではないだろうか。
殿下は答えあぐねて口ごもるも、納得いかないようで更に言い募る。
「しかし、となりの国は王制から共和制になってしばらくたつぞ。王がいなくてもへいきということではないのか?」
私は首を傾げた。
「メイザン国のまわりに、きょうわこくなんてありましたか?」
「8年ほどまえに、ルクサンディが王制をはいししただろう? いまはルクサンディ共和国だ」
……何ですって?
私は震えを抑えながら、喘ぐように尋ねる。
「お、王族はどうなったのです?」
「みな処刑されたはずだ」
それを聞いた途端、私は嘔吐しそのまま気絶した。