十二話 18歳 7
私はぐずぐずと鼻を鳴らして自分を襲った青年の首に縋りついていた。ロイドに離れるよう促されてもイヤイヤと首を振って拒否する。宝物を取られまいと抵抗する幼子のように。
ロイドが周囲を気にしてか、はたまた怒りを抑えるためか、押し殺した声で私をたしなめる。
「エルーシャ、いい加減にしろ。その男は犯罪者だ。憲兵に引き渡さなければならない」
「だめっ、そんなの絶対に駄目です!」
彼を守るように一層抱きしめる腕に力を入れてロイドを振り仰ぐと、明白に疑念を乗せた目とぶつかった。
「その男が彼の人だと思うからか。なぜ?」
「それは……」
「言えないか? そうだろうな」
私が言い淀むと、ロイドは予想していたと片眉を上げて不快感を示す。でも、私からすればどうしてロイドはわからないのだと問いたい。こんなにも幼い頃の面影が残っているのに。
ロイドが腹立たしげにくしゃりと髪をかき上げた。騎士が主に進言する。
「このままでは周囲の注意を引いてしまいます。宮殿へ連れていきますか?」
「いや……この辺りで個室を探せ。主人の口が固くて声が漏れない場所だ」
「いきなりで無茶をおっしゃいますね……」
呆れながらも騎士が手で何かを合図する。すぐに音もなく町人姿の男が2人現れた。
「近くである程度高級な宿を探せ」
「はっ」
男たちはまた元のように姿を消す。私は間抜けにも口をぽかんと開けて彼らを見送ったが、ここに至ってようやく気づいた。ロイドを守っていたのは一人ではなかったのである。つかず離れず、私や周囲の人間に気づかれないように住民に偽装している者たちがいた。もしかしたら他にもいるのかもしれない。考えてみれば当たり前のこと。いくら変装しているからといって王太子殿下の護衛が一人だけのはずはない。
だから無理にロイドを逃がそうとしなかったし、私を助けようとして軽率に動かなかったのだ。私は居た堪れなくなった。一人で焦ってなんて滑稽なのかしら。エミリオも計画の実行が土台無理な話だったと思い知ったようで悄然としていた。
ロイドは騎士と何事かを打ち合わせている。彼らに迷惑をかけることになって申し訳なく思うが、私は何と言われようと腕の中の存在を離したくなかった。この機会を逃してしまったら再び会える保証はない。
でもきっとロイドに本当に危険なことはないから大丈夫、エミリオは今も変わらず優しい人だから。さっきだって咄嗟に刃を首から離してくれたもの。
少しして護衛の一人が戻ってきた。騎士に耳打ちし、頷き合う。騎士が後ろ手でエミリオを拘束したまま立ち上がらせる。私も慌てて立ち上がろうとするが、ロイドに手を引かれてその腕の中に囲われてしまった。
「ロイド様!」
「心配するな、ここまできたら何も聞かずに憲兵に突き出すつもりはない」
私はエミリオのほうへ手を伸ばしかけたが、その言葉に大人しく腕を下ろした。
護衛の案内に従って路地を抜ける。ざわめきの中心は次第に遠くなり、閑静な高級住宅街と雑多な繁華街とのちょうど狭間に位置する宿に辿り着いた。
「料金は支払ってあります。このまま部屋へ」
先導する護衛は受付には寄らず階段を上り、3階の一番奥にある扉を開ける。ベッド2台と机と椅子がある簡素だが清潔な部屋だった。燭台には火が灯され、室内は仄明るい橙色の光に包まれている。
片方の寝台に促されて腰かけると、ロイドが私の首もとを覗き込み、その美しい瞳を翳らせた。すっかり忘れていたが、そういえば少し切れてしまったのだったか。
傷に触れないようにロイドがそっと首筋に手を伸ばす。
「血を流させてしまったな、すまない」
「いいえ、こんなものかすり傷です。ほら、彼がナイフを引いてくれたから」
私はここぞとばかりにエミリオを持ち上げようとしたが、むしろ怒りを誘ってしまったようだ。ロイドは目を吊り上げた。
「引かれなかったらどうするつもりだったんだ! もっと自分の身を大事にしろ!」
「……ごめんなさい」
正面から怒られ、しゅんと項垂れて私は謝った。
「……怪我が大きくなくて本当によかった。手当ての道具を借りてきてくれ」
ロイドが護衛に頼むと、護衛は心得たと恭しく会釈して部屋を出て行く。
ロイドに怪我の具合を診られている間、騎士はエミリオの腕を椅子の背もたれに縛りつけ始めていた。あまりきつくしないでくれるといいのだけど、さすがに口を挟める領域ではない。エミリオは時折顔をしかめながらもされるがまま縛られている。
私がそわそわと様子を窺っていると騎士が振り返った。心配そうな私に気づき、にこりと笑う。
「お待たせいたしました。どうぞご随意に」
私に言っているのだろうか? 戸惑うが、騎士はそのまま扉付近に控えてしまった。ちらと見たロイドも無言のままなので、躊躇いながらも口を開く。
「ちゃんと食べられているの?」
「は?」
「え?」
私の第一声に、ロイドとエミリオが揃って「何を言ってるんだこいつ」という顔をした。だってずっと気になっていたのだ。しがみついたときに感じたのだが、全体的に身体が薄すぎると思う。比例してあまり筋力はなさそうだ。だから私でも拘束から逃れられたのだろうけど。
「あなた少し痩せすぎていると思うわ。どこに暮らしているの? 満足に食べられない状況なの? それなら私がなんとかできればいいのだけど。好き嫌いしてるわけじゃないわよね?」
「エルーシャ、一旦落ち着け」
ロイドの制止を受けて私は口をつぐんだ。止められなかったら延々と食住環境について質問し続けているところである。
エミリオは毒気を抜かれたように吐息を落とした。
「最初に聞くことがそれ? もっと他にあるでしょう、どうして自分を襲ったのかとか」
それももちろん聞きたいけれど、と私が言う前にノックの音が響く。護衛が治療道具を持って戻ってきた。ロイドが手ずから簡単に手当をしてくれ、それが終わると再びエミリオに向かい合う。
改めてまじまじとその顔を見つめ、感慨に目を細める。まろやかであった輪郭はすっかり青年らしく精悍になっている。屈託をまぶしたようなその顔は、幼少期にはついぞ見たことのない陰をたたえていた。一体どれほどの苦労をしてきたのだろうか。
――もう30を超えたのだものね。
蝋燭の火で紫の目がゆらめく。私がエミリオを見つめている間、エミリオも私を不思議そうに観察していた。
無言で視線を合わせながら心の中で彼のこれまでの人生に思いを馳せていたが、ロイドの声で現実に引き戻される。
「エルーシャ。どうしてあなたは彼をエミリオ王子だと思うんだ?」
そう、この問題に直面していたのだった。何と言い逃れしようかと悩むが、妙案は思い浮かばず正直に思うことを聞く。
「……ロイド様はお分かりになりませんか? エミリオ王子の面影を感じませんか?」
「髪や目の色が若干違うようにも感じるし、似ているというほどでもないと思うが」
「そうですか……」
髪色は確かに幼い頃より濃くなったと思うが、目の色は私の記憶からほとんど変わっていない。口や耳のかたちも、額のかたちも。
どうしてわからないのだろう? 私は困り果てて眉を下げた。
「あなたは彼にエミリオ王子の面影を見たのだな。そして彼を王子だと確信までしているように見える……おかしな話だ。彼の容貌は元侍女の言葉でしか知らないはずなのに」
その疑問に上手く答えるには真実の材料が足りない。私は俯いて追及から逃れようとするが、ロイドが容赦なく私の頤を掬い上げる。吸い込まれるような夜空の目に捉えられ、私はゴクリと唾を呑み込んだ。
「言い逃れは許さない。真実を話せ」
冷酷に命令する温度のない声。人を従わせることに慣れた口調は、何か魔力が働いているかのように抗う気力を失せさせる。
一言でも発すれば意思と裏腹にとめどなく言葉が溢れそうで、言い訳もできずにぎゅっと口を結ぶ。
「あのさ」
室内を包んだ重苦しい沈黙を、場違いに軽薄な口調が破った。ロイドが煩わしそうに金髪の青年に視線をやる。助かった……ロイドの意識が私から逸れたのを幸いに、強張っていた身体からそっと緊張を逃し、私もエミリオを見る。
「僕はそんなにエミリオ王子って人に似てるの?」
「え……?」
言葉の意味を咄嗟には理解できず、その顔を凝視した。エミリオは冗談を言っているようにも嘘をついているようにも見えない。まるで赤の他人のように王子のことを話す。
「僕は王子なんかじゃないけど、その子が泣いちゃうくらいには似てるのかな?」
「……さあ、私にはわからないが。彼女は君を王子本人だと思っているようだな」
「ふうん。彼女がどうしてエミリオ王子のことを知ってるんだ? 見たところ10代に見えるけど」
せっかくロイドの追及から免れたと思ったら、相手が変わっただけで聞かれることは同じだ。当然の疑問であるが。
何と言って矛先を逸らそうかと私が下手に話し出すより先に、エミリオの口調はだんだんと荒々しくなっていった。
「馬鹿馬鹿しい、今更王族とやらを担ぎ上げてどうしようっていうんだ。民衆はもう民主制に慣れ切っているのに。排斥されて終わりさ。そうだろう? 僕は勝手に神輿を担がれて矢面に立たされたり用済みになったら殺されるような人生は御免だ。それに、無用な争いを巻き起こして人が死ぬかもしれない原因になんてなりたくない」
その姿は長く抱えてきた鬱屈を誰かに聞いてほしがっているようにも見えた。




