十話 18歳 5
しばらく経ってようやく涙が止まると、私はすんと鼻を鳴らしてグラントの服から手を離した。泣きすぎて頭が痛い。そして瞼が重い。グラントはずっと両腕を中途半端に上げたまま無我の境地で突っ立っていたが、私が顔を離すと安堵の息を漏らした後、己の服を見下ろして項垂れた。
グラントの服をしわしわのよれよれにしてしまったことを謝る気力もなく、私はとぼとぼと力のない足取りで歩き始める。自室へ戻る途中で小走り気味に歩くメイザンの官僚と出くわした。私の様子は忙しそうな彼の足をも止めるものだったようで、ぎょっとした顔で見られる。
「リンス、死にそうな顔をしているけど何があったんだ?」
聞かれた私が無気力に首を振るしかしないので、今度は隣のグラントに問いかける視線を送るのだが、グラントも聞かないでやってくれと同じように首を振った。言葉にして追い打ちをかけたら私が地底まで沈んでしまうと思っているのかもしれない。間違ってはいない。
事情がわからないなりに「まあ元気出せよ」と励ましてくれた官僚と別れ、死者の行進のように鈍足の歩みを再開する。いくらかも経たないうちにグラントが後ろから近づく人に気づいた。
「おい、ユンネル殿が追いかけて来てるぞ」
さっきの今で筆頭補佐官がどうして? 説教をされるぐらいしか理由が思い浮かばず逃げ出したくなったが、そういうわけにもいかない。気持ちを奮い立たせるために一度大きく深呼吸をして、背筋を伸ばして振り返る。
ふくふくと丸い体を揺らしながら私たちに追いついたユンネルは、額に滲んだ汗を拭きながら一息ついた。
「ふう、よくやく追いついた。ロイド様のお説教に時間がかかってしまってね。エルーシャさん、落ち込んでいるようだが、先程のロイド様のお言葉はあまり気にしないようになさい」
「そんなわけには……私が身の程をわきまえず無礼なことを申し上げてしまって、殿下がお怒りになるのも無理はありません」
「その辺りは明日ロイド様に直接弁解していただくとしよう。ともかくそのような心配は不要だよ。しばらく働きづめだっただろう、今日はゆっくり休んで、明日以降はまたよろしく頼むよ」
「明日からも殿下のお部屋へ伺ってもよろしいのですか?」
「もちろん。私は、エルーシャさんにはぜひロイド様の側にいてもらいたいと思っているんだ。面白いものが見られそうだからね」
ユンネルは謎の言葉と含み笑いを残して、また慌ただしく戻っていった。
私は毒気を抜かれてグラントと顔を見合わせる。
「……何だったんでしょうか?」
「殿下が怒ってないってことを伝えに来たんじゃないか? 良かったじゃないか」
グラントは私の頭をぐしゃりとかき混ぜた。遠慮のない扱いだが、グラントが私を元気づけようとしていることは伝わってくる。不器用な優しさに触れて、私は胸が熱くなった。
「すみません、服、ぐしゃぐしゃにしちゃって」
「ああ、別にいいさ。洗えば済む」
私がようやく謝ると、グラントは気にするなと厳めしい顔に不慣れそうな笑みを浮かべた。
ロイドの客室の前に着くと、心得ているとばかりに護衛騎士がすぐに中に声をかける。
「エルーシャ・リンス嬢です」
「……どうぞ」
一拍間を置いてから入室を促す声が聞こえる。もう少し心の準備をする時間が欲しかったが、騎士に恭しく扉を開けられては入るしかない。
緊張に身を固くしてロイドと対峙すると、ロイドが私の顔を見て眉を寄せた。昨日散々泣いたせいで瞼が腫れぼったくなっているのだ。
こんな泣いた跡が一目瞭然の情けない顔をロイドに晒したくはなかったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。拳を握り、意を決して口を開こうとしたとき、ロイドが私より先に頭を下げた。
「あなたに酷いことを言って、申し訳なかった」
「え……」
「あのようなことは言われ慣れているはずなのに、なぜか頭に血が上ってしまった。結果としてあなたを傷つけるようなことを言ってしまった。すまない」
「そんな、私が勝手に殿下の気持ちを憶測して失礼なことを申し上げただけです! 殿下が謝る必要なんてありません。申し訳ありませんでした」
私も慌てて頭を下げる。お互いに自分が悪いと引こうとしない私たちに、筆頭補佐官が言った。
「まあまあ、ここは両成敗ということにしておきましょう。失敗をしない人間などいません。失敗したら誠意を込めて謝り、同じ過ちを繰り返さないようにする。人にできることはそれだけです」
「はい、ユンネル様」
「しかしながら、私としてはエルーシャさんにはぜひ、引き続きロイド様に結婚を勧めていただきたいところですね」
「……は?」
思いもよらない言葉に、私とロイドの声が揃った。
ユンネルが私に尋ねる。
「エルーシャさんはどうしてロイド様にそこまで再婚を勧めるのかな?」
「それは、支え合える人がいたほうが、きっと殿下のためになると思ったからです。一人でも十分に力を発揮できる人はもちろんいるでしょう。でも、殿下は一人より二人のほうがきっと力を出せる人だと思うから」
ロイドが渋面で口を開こうとしたので慌てて私は付け加えた。
「もちろん、私が勝手に思っていることですが」
「それがね、実は私も同じ意見なのだよ。だからしつこくロイド様に再婚を勧めてきたのだが。エルーシャさんはロイド様と話したことがほとんどないはずなのに、ロイド様のことをよくわかっているようだ」
臣下に毅然とした姿しか見せないロイドを、私のように評価する人は珍しいのかもしれない。自分の弱みを見せたくない人だから。
ユンネルがこれ見よがしに首を振る。
「しかしロイド様本人にそんな気持ちがこれっぽっちもなく、無関心に聞き流されるばかりで諦めていたのだ。それが、エルーシャさんが勧めると滅多に感情を見せないロイド様が怒ったではないか」
「それは私が失礼なことを言ったからで……」
「あのような言葉、失礼のうちに入らないよ。あれよりもよっぽど無礼なことを平気で口にする輩は掃いて捨てるほどいる。それなのにロイド様は聞き流すどころか出て行けなどとのたまう始末。ぜひこの調子でロイド様に揺さぶりをかけてほしいところだ」
「待て待て、当人の目の前で何を勝手なことを言っている」
「なに、ロイド様としては小言を言う相手が私から彼女に変わるだけのこと。それにエルーシャさんがロイド様のことを全く理解していないと言えなさそうなことは、殿下もわかっているでしょう。何の問題がありますか?」
ユンネルの威圧感ある笑みにロイドが口籠る。そんなのは御免だと反論すると思っていたので私は驚いた。私に都合が良すぎやしないだろうか。
私は恐る恐るロイドに尋ねる。
「本当に殿下は怒りませんか?」
「……怒りはしないと約束する」
「私が素敵だと思った女性をどんどんご紹介してもよろしいんですか?」
「待て。そうは言っていない」
「同僚に貴族の出で有能な先輩がいるんです。あっ、近所にも美人で気立てが良いと評判の女性がいますよ! お付き合いされている方はいないはずです。それとなく好みを聞き出しましょうか?」
「いきなり無節操すぎないか? というか私の好みは無視なのか?」
生き生きと怒涛の紹介を始めた私に、ロイドは苦虫を噛み殺したような顔をした。
ルクサンディでのロイドの毎日は、ひたすら人と会うことに占められている。
議員や地元有力者たちと面会の申し出があれば極力受けるようにしていたし、たまにはこちらから出向くこともあった。その合間に書類の決裁をしていたが、それでは間に合わないため早朝に片付けることになってしまっているのだろう。
機密事項は正式な補佐官ではない私には任せられないので、私の主な仕事は雑用である。あの人に返事の手紙を渡してほしいとか、この部署に書類を届けてほしいとか。迷わず指定された場所へ辿り着ける私は重宝されていた。結局この事実がロイドの中でどう判断されたのかはわからないままだけれど。
今日もそういった仕事を頼まれた私が廊下を歩いていると、同様に書類を抱えたギディを見かけた。私に気づいたギディが笑いかけてくる。
「こんにちは、リンスさん」
「ギディさん、交流会以来ですね。お元気そうで何よりです」
「いえいえ、リンスさんがいなくなって寂しい限りですよ。毎日リンスさんにお会いするのを楽しみにしていましたからね」
私が社交辞令を受け流して笑うと、ギディは心外そうに肩を竦めた。
「あ、その顔は冗談だと思っていますね? 本気なんだけどなあ……。そうだ、明日の夜食事でも一緒にいかがですか?」
「あまりにもお上手ですもの。ギディさんは誰にでもそういうことを言ってるんでしょう?」
「まさか、気に入った人しか誘いませんよ。どうでしょう、良いお店を知っているんですよ」
柔らかい笑みを浮かべているギディは優男然としていて、誘う台詞にも厭らしさは全く感じられない。それがかえって女性慣れしていることを窺わせるのだが。
私はまず無理だろうと思いながらもグラントに聞いてみる。
「グラントさん、いいですか?」
「俺に聞くな。許可されるかはわからないが、殿下に聞いてみればいい」
グラントが素っ気なく言った。私が大泣きした日から、グラントの私に対する当たりが心なしか優しくなった気がする。態度がぶっきらぼうなのは変わりないが、私の意思をできる限り尊重しようとしてくれているのは伝わる。
グラントは単純に酒を楽しんでいるようだが、グラントと2人で毎夜情報収集に繰り出すのも限界を感じていたところだ。ギディから何かとっかかりとなる話でも聞ければ有り難い。私はまた返事しますと言ってギディと別れた。
ロイドの部屋へ戻ったとき、タイミングよくロイドとユンネルしか室内に残っていなかった。報告を済ませると早速私はお伺いを立てる。
「殿下、ルクサンディの官僚に食事に誘われたのですけど、行ってもよろしいですか?」
書類を読んでいたロイドが顔を上げた。
「グラントと一緒ならいい」
「デートに男連れで行く女がどこにいるんですか」
「デートなのか?」
「誘い文句としてはデートで間違いなかったですね」
「……くれぐれも用心するように。絶対に相手の男の家には行くんじゃない。何かあったら大きい声で周りに助けを求めるんだ」
「ロイド様、父親じゃないんですから」
筆頭補佐官が呆れたように言った。




