九話 18歳 4
翌日ロイドに宛てがわれている客室を訪れたとき、彼は補佐官たちに囲まれていた。私たちが来たのは世間一般的な始業時間だったが、既に場が温まっているのでかなり早くから仕事をしていたのだろう。
私とグラントは、出入り口に立つ護衛騎士の隣でロイドの手が空くのを待った。ひっきりなしに持ち込まれる書類は筆頭補佐官経由で優先度の高い順に渡され、その度にロイドの目が素早く紙面を滑る。サインをして補佐官に返したり、短い指示を添えたりと忙しない。私はその姿を惚れ惚れしながら見ていた。
補佐官の列がようやく途切れ、ロイドが椅子の背もたれにもたれ掛かり目頭を揉んだ。スマートに書類を捌いていく様子をいつまでも眺めていたかったが、そういうわけにもいかない。私は一段落したばかりのロイドに声をかけた。
「王太子殿下、ご命令通りこちらにお伺いいたしましたが、私はこれからいかがすればよろしいでしょうか?」
ロイドは自分の護衛騎士に手を振って外へ出るよう促した。グラントは私がルクサンディに来ることになった経緯を概ね把握しているようだが、他の知らない者には聞かれたくないのだろう。
部屋に私とグラントとロイドの筆頭補佐官だけが残ると、ロイドが口を開いた。
「エミリオ王子について随分嗅ぎ回っているようだが、有用な情報は得られたか?」
私は思わず隣のグラントを見た。グラントは片眉を上げて、悪びれる様子はない。彼は自分の職務を全うしただけだから当たり前なのだが、何だか釈然としない気分だ。
気を取り直して私はロイドに言う。
「いいえ、城下では全く話題に上っていませんでした。メイザン国であれほど噂になったことを考えると異常なほどです。恐らくメイザンでは誰かが意図的に情報を拡散したのでしょう」
「それであなたは、誰の、どの勢力の仕業だと予想した?」
「そこまでは何とも……エミリオ王子を利用したい人間にも、逆に排除したい人間にも利はあるでしょう。殿下の持つ情報を教えてくだされば、もう少し有益な予想が立てられると思うのですが」
私が暗に「寄越せ」と訴えると、ロイドは薄ら笑いを返してくださった。その目は「話すと思うか?」と如実に語っている。
「リンス嬢の持つ不可思議な知識の中に、クレメンティ卿のことは含まれていなかったか?」
「彼の……? 記憶には……いいえ、聞いたことはございませんが」
「彼は国王一家がまだご存命だったとき、王と密約を交わした形跡がある」
「陛下と、一体どのような……」
「そこまではわかっていない。なかなか尾を出さない男だ。そうでなければ今も議員ではいられまいが」
「だから殿下は彼に近づくなとおっしゃったのですね」
「それもあるが……いや、まあいい」
ロイドは言葉を濁した。
「あなたは面倒事を呼び寄せそうだから私の元に置くことにした。これまで通りグラントが側につくので街に下りるのを止めはしないが、不用意に怪しい人物と接触しないでほしい。あなたを疑わなくてはならなくなる」
「……まるで、私を信じたいと思っていらっしゃるようなお言葉ですね」
私が指摘すると、ロイドが予想外のことを言われたというように目を丸くした。自分ではそう思っていなかったらしい。
「宰相に毒されたか……いや、そんなことはどうでもいい。リンス嬢も自分の行動が制限されるのは嫌だろう。注意してくれ」
「わかりました」
「それと、あなたの言っていた箱だが、探したところそれらしきものは見つからなかった」
「そんな、庭師が掘り返すような場所でもないのに……誰が持っていったのかしら」
今度は私が目を丸くする番だった。私は独りごちて自問した。
私とエミリオは2人で埋めるものを決め、2人で埋めた。でも、護衛や侍女たちは遠巻きにしていただけで、全くひと気がなかったわけではない。
王族の持ち物は高価なものに違いないと誰かが持ち去ったのだろうか。そのときにいたのは皆長年王家に仕えてくれていた者である。私を害した侍女はまだいない。
彼らの誰かに犯人がいるとは思いたくないが、私の見る目のなさは前世で証明されてしまっているから、どうしても信用しきれない。
ロイドはゆったりと頬づえをついて、考え込む私に切り込んだ。
「随分とこの王宮に詳しそうだな。来たことでもあるのか?」
ロイドの口調は冗談でも言っているようだったが、その瞳は全ての嘘を見透かしそうな峻厳さを湛えていた。
「そういえば、リンスはまるで初めからここを知っているように王宮内を歩いていましたね」
最後まで黙っていてくれればいいものを、グラントが余計な口を挟む。
私は努めて平静を装い否定した。
「それがありえないことは、殿下もご存じでしょう」
「しかしそうでもなければ説明がつかない。あなたはなぜラヴィニア王女とエミリオ王子のことに詳しい?」
このタイミングで聞かれるのか。今まで全く聞かれなかったのがおかしいのだけど。
ロイドとグラントの鋭い視線を受け、私はずっと考えていた設定を話し始めた。
「……私が幼い頃、家の近くに40前後の女性が住んでいました。私は彼女によく懐き、彼女も私を可愛がり色々な物語を教えてくれました。その中に王女と王子の話があったのです。当時の私は実在する人の話とは思っていませんでしたが、歴史を学ぶにつれ、あれはラヴィニア王女とエミリオ王子のことではないかと思い始めるようになりました。これが私がお二人について詳しい理由です」
「その女の名は?」
「本名かはわかりませんが、フィオナと呼んでいました」
「フィオナ……ラヴィニア王女の侍女だった女か……?」
ロイドが記憶を探るように目を細めた。セラフィーナはラヴィニアの幼少期から私が殺される約一年前まで仕えてくれた侍女である。ロイドも何度か会ったことがあるはずだ。
嘘に少しだけ真実を混ぜながら、私は話す。
「フィオナが王女と王子を深く愛していたのが話し方から伝わりました。物語を聞くにつれ、恐れ多くもいつしかお二人を友人のように思っていた私は、エミリオ王子が生きていらっしゃると聞き居ても立っても居られず、こうして図々しくも使節団に加えていただき参ったのです」
「なるほど、整合性はとれている。しかし全てを信じられるわけではない。あなたがメイザンを裏切るような行為をすれば、すぐに己と家族に跳ね返ることを忘れるな」
ロイドは私を直接的に脅したが、私は微塵も怯まなかった。
「私がメイザンを、殿下を裏切るなど、あるはずがありません。私は殿下の幸福を何よりも願っているのですから」
声は確かな強さを持って部屋に響いた。
「私の生涯は殿下のために。殿下の御治世を支えるために」
私は片膝をついて頭を下げ、忠誠を示す。ロイドもグラントも口を開かず、場が沈黙に包まれた。
それから私はさっさと立ち上がると、唖然としたままのロイドの前にずんと歩み寄る。
「殿下、私は城下街でエミリオ王子についての情報を得られませんでしたが、実は別の話で持ち切りだったのです」
ロイドは私の先程との落差についていけないようで、若干身を引いた。
「何についてだ?」
「それはですね……殿下のご結婚についてです」
「は?」
ロイドの顔がいよいよ混乱に侵されてきている。
「メイザンの王太子殿下はあれほど眉目秀麗なのに伴侶がいないのはどうしてか、あの美しさで恋人の一人もいないなんてことはありえまい、もしかしたら恋人はいるが結婚できない相手なのかもしれない、まさか同性だったりするのか? 等々、平民の間ではあることないこと侃々諤々議論されておりました」
「……ないことしかないじゃないか」
ロイドが本当か? とグラントに目線を送ると、グラントは重々しく頷いた。
愕然とした様子のロイドに、私はさらに畳みかける。
「このような噂がまことしやかに囁かれている現状を、お許しになってもよろしいのですか? いえ、殿下が殿方と良いご関係なのであれば私は応援しますけれど」
「断じてそのような事実はない」
ロイドは真顔で食い気味に否定した。
「それでしたら、なぜご結婚されないのですか? ……まだ、亡くなられた妃殿下を愛していらっしゃるのですか?」
「あなたには関係のないことだろう」
「関係はあります!」
「どうしてだ」
「……あるったらあるのです」
いきなり語彙力が消失した私をロイドが胡散臭そうに一瞥し、露骨に煩わしげなため息をついた。
「跡継ぎはヴィクターがいる。必要ないからいないだけだ」
「でも、それでは……寂しいではありませんか……」
この先ずっと独りだなんて。ロイドは実は弱い一面を持つ人だ。喜びも悲しみも分かち合える人が側にいれば、きっとそのほうがずっと幸せなのに。
「フラン様はとても素敵な方でしたよね。殿下とお似合いに」
「あなたは」
ロイドが私の言葉を遮った。
「あなたは私が結婚したほうが幸せになれると信じているようだが、なぜあなたが私の価値観を決めつける?」
「……殿下、」
「よく知りもしない者に私のことをとやかく言われる筋合いはない。不愉快だ、出て行ってくれ」
ロイドが私を冷然と睥睨する。私は自分の過ちを悟った。
「差し出がましいことを申し上げ……申し訳ありませんでした」
書類に目を落としたロイドは、もはや私には関知せずと返事をしない。私は追い縋りそうになる気持ちを堪えて礼をし、グラントと退室した。
肩を落として悲壮感を漂わせている私に、グラントが慰めようと声をかけてくる。
「そんなに気にするなよ。ほら、殿下のご結婚は俺たち皆の悲願だろ? お前が代弁してくれたんだよな、うん。殿下だってご承知だよ」
「……」
「それにしても殿下も言われ慣れていらっしゃるだろうに、どうしてあそこまでお怒りだったんだろうな。あ、いや、そんな怒ってないって、多分! なんか虫の居所が悪かったんじゃねえか?」
「……」
「いつもみたいにしれっとしてろよ、そんな落ち込んでるのお前らしくないだろ? 宰相に啖呵を切るほど豪胆な女だろうが」
「……グラントさん」
「な、なんだ?」
「私は、自分が恥ずかしいんです……! ロ、殿下の幸福を自分の物差しで測って、それが当然のように押し付けようとして……私、殿下に嫌われた……う、うう……」
私はついにぼろぼろ泣き出すと、手近にあった布に自分の顔を押し付けた。
すなわち、グラントの服である。
「どうしよう、グラントさああん……」
「……勘弁してくれ」
グラントは天を仰いだ。
置物のように沈黙を保っていた筆頭補佐官が、やおら口を開いた。
「ロイド様」
「言うな」
ロイドが何を言われるかわかっていると手を振って、続きを静止しようとする。
しかし太りじしの中年の補佐官は容赦なくそれを無視した。
「うら若きお嬢さんに、心ないお言葉を申されましたね」
「……悪かったと思っている」
「私に言っても意味がありません」
ぴしゃりと跳ね除けられて、ロイドが押し黙る。
「ロイド様はあのような言葉は何千回と言われてきたでしょう。ええ、私もその十分の一ほどは言った記憶がありますがね。それに対して、ロイド様は一度として先程のような言い様をされたことはありません」
「そんなことは」
「いつだって我関せずと受け流しておいでで、私どもはだんだんと憎らしくなったほどです。まあ私は殿下と付き合いが長いですけれどね、殿下とさほど話したこともないような者たちが彼女と同じようなことを言ったときでも、殿下は怒りなど見せなかったでしょう」
「……」
「それがあのお嬢さんには、どうしてあのような上から叩きつけるような物言いをされたのです? たとえあなたの主張が正しいとしても、相手の全てを切り捨てるような態度では伝わるものも伝わりません」
「……あの目で見つめられると、だんだんと妙な気持ちになってきて……その目でそんなことを言うなと、無性に怒りが込み上げてきたのだ。それで、あのような言い方に」
「……ほう」
「断じて違うぞ!」
「私は何も言っておりませんが」
墓穴を掘ったロイドは再び沈黙した。
「何はともあれ、リンス嬢に謝らねばなりませんね」
「……謝るのか、私が」
「悪いことをしたときは謝らねばなりますまい。それとも、悪いことをしたと思っておられないのですか?」
「思っているが、こう、なんだ、謝ったところで言ってしまったことを取り消せるでもなし、許してくれないのではないかとな……」
「随分とみみっちいことですなあ」
「みみっちい……!?」
「そのようにうじうじと悩まれるロイド様を見たのは、いつぶりですかね。リンス嬢が関わることだからでしょうか?」
「ち、違う」
「本当に?」
「……わからないのだ。彼女のことも、私自身のことも」
ロイドは苦しげに表情を歪めた。




