遠い部屋、遠い世界⑴
「どんなビールが美味いビールかわかるか?」とニシは言った。
熱帯夜が何日も続いた日の夜だった。昼間は痛くなるほどのキツい日光が肌に刺さり、夕方は山の方から入道雲が現れて、局所的に大雨を降らせた。
ワイドショーやニュースを観れば氾濫した川や土砂崩れした何処かの山の映像と共に、「異常気象」だの「温暖化の影響か」など騒いで、ほとんどの視聴者が名前を覚えないであろう専門家に意見を聞いていた。
そんな在り来たりな話題より、確かに「美味いビールとは何か?」を考える方が気分も良いし哲学的な気もした。
「ランニングをして、喉がカラカラになる。そのまま風呂に入る。ランニングをしたという充実感に浸りながら浴びるシャワーは最高やな、熱めのシャワー浴びて、風呂を出たら、冷やしたグラスに冷やしたビールを注いで飲む、これかな」
と僕は答えた。
多分ニシからすれば、それはとても俗っぽく、つまらない答えだろうなと思った。でもそれで良い。僕にとっての美味いビールはそのビールで、そのために辛いランニングや、喉を渇きを我慢する価値もあるのだ。
案の定、ニシは「駄目だ駄目だ駄目だ」と大袈裟に手を振りながら言った。酔いすぎているのは明らかだった。このバルに入って4時間以上経っていた。何時間か前に注文した海老のアヒージョは油を吸いすぎて、全く食指をそそられなかった。僕はアヒージョがあまり好きではない。注文したのはニシだった。
「1人で、部屋から窓を開けて、外を見るんだ」とニシは言った。彼の家は大きな国道に面している。僕はその国道を頭に思い浮かべた。
「暴走族、追いかけるポリ、奇声をあげてどっかに行くヤツ、はしゃいでるリーマンやら学生、そんなんを見ながら、自分の好きな銘柄のビールをゆっくり飲むんだ、これだよ」
ニシはジェスチャーを挟みながら言った。彼は今、自分の部屋にいて、好きな銘柄のビールを飲みながら、暴走族、ポリ、奇声をあげる人間、リーマン、学生を見ている時のように、恍惚とした表情を浮かべていた。
「寂しくないんか、それ」と僕は小馬鹿にしたように笑った。ニシがそういった悲哀さが好きなのは重々承知していた。それが行き過ぎていることも。
「どうせさ」ニシは急に真面目な顔になった。
「社会に出て、働いたら、くだらない、くたびれた毎日送るしかないんだから、今の内に色んな事を感じておかないと、ますますなんの価値もない人生になっちゃうぜ」
しばらくすると店員が来て、ラストオーダーの時間が来た事を伝えた。僕もニシもビールを頼んだ。ニシはアヒージョを無理やり胃に押し込んだ。そしてビールを飲み終わると、僕たちは店を出た。会計はニシが少しだけ多めに払った。
「また行こうぜ」とニシは言った。足取りはかなりフラついていた。
「ちゃんと帰れよ、またな」と僕は言った。ニシはJRを、僕は阪急を使った。六甲駅に着くと、12時半を過ぎていた。僕は三宮よりは涼しい山道から、海側の街を眺めた。この下には、暴走族や、それを追いかける警察が今いるんだろうか?
家に着くと、親は寝ていた。音を立てないように歩きながら、風呂に入り、冷蔵庫からビールを取り出し、自室に戻り、窓を開けた。遠くの方でイノシシの鳴き声が聞こえた。でも、人は誰もいなかった。