93枚目
高校野球というものは、この国の娯楽の中でもひときわ存在感を発揮している。言ってしまえばそれはたかがいち高校生の部活動であり、例えばプロの野球選手と比べてしまうならば劣る点だらけだ。それは特にスポーツに興味のない私にもすんなりと理解できるし、それを高校生たちは恥じる必要もなければ恥じるものもいないだろう。しかしながらそれを人気というファクターで測ってみると、プロ野球と互角、嫌時にはそれ以上とまで評されることになるのだ。一介の部活動が、である。
みんなが外に出たがらない暑い夏に、負けたら終わりの一発勝負を挑み、ただ頂点を目指していく。こんな姿の悲壮感や悲劇性に、この星の、この国の人間は惹かれているのかも知れない。それにプラスして、これからプロ野球、メジャーリーグで活躍していくであろう期待の若手選手を見る層や、公立校や地元の高校、更には何かしらのハンディキャップを持った高校を応援する層、綺麗な汗を流す高校球児の顔をみたい層から、時に見せる一発勝負ならではの非情な結末に打ちひしがれたい層まで、様々な思惑の人達が交差してこのコンテンツは発展してきたのだろうなあと、メイド喫茶の帰り道スマホをいじりながら私は思っていた。
しかしながらそれは弊害というものもたくさん出てきている。厳しい練習とストイックな姿勢を貫きすぎたが故に起こる体罰、炎天下で脱水症状や熱中症にかかるもの、勝ちたいがあまり無理をして投げすぎて肩を壊す将来有望な投手………上げ始めたらきりがない。他にも、学校を上げて応援しようと言って野球部の応援を授業として設けて欠席したら単位を落とす、野球部専用の食堂やグラウンドを設置した影響で普通の学生の使うそういったもののクオリティが下がってしまう、多少横暴な態度をとっても野球部だからといって大目に見られ、稀にはほかの生徒がぬれぎぬを着せられたりする、そんなことまでネットには書かれていた。これ、どこまでが本当なのだろうか。フェイクニュースが流れるなどとマスコミがのたまうネットの海だが、あまりにも刻銘に書き連ねているそうした書き込みを見て、どうにも嘘だと断定することが全くできなかった。
少なくともうちの高校に関しては、上記のような弊害はあまり見当たらない。応援に行かなくても単位はあるし、食堂や購買でも野球部が特別扱いなんてされてはいない。強いて言うならば顧問の牛尾が横暴なくらいか。しかしそれ以外の野球部員に関しては、少なくとも前のプールで会った限りでは傲慢な態度をとったりする雰囲気はなかった。どちらかというと品行方正なお調子者といった集団で、ちょっと私のこといじったりしていたが引くところはすっと引いていた気がする。沢木にしてもガンガンマシンガントークをするけれども失礼をしたと思ったら謝るし、礼儀は最低限わきまえている印象だった。うん?結城?いやあいつはもう野球部員じゃないらしいし。
家に着いたら母が出迎えていた。珍しい。
「杏里ーお腹すいた」
無論ここで飯を作ってくれているような気の利く親ではない。そんな期待を持ってはだめだ。都合3年に差し掛かろうとしているこの下宿生活。私にもそろそろ諦念という境地が芽生えつつあった。
「私ももうめんどくさいから今日はお惣菜たちでいい?」
「何買ってきたの?」
「焼き鳥、コロッケ、ケンタのチキン、後唐揚げ」
「ご飯は?」
「昨日の余りのご飯冷凍しておいたからそれ暖めてよ。サラダは私がするから」
そう言いながら私は手を洗って台所へ向かった。エプロンを着ようとすると昼間の遠垣の格好を思い出した。思っていたよりもかわいくびしっと決まっていて、周りの店員さんも、ゲストに来ていた声優さんもオーラがあって……うん、私にあのオーラは出せないな。これも諦念。やっぱり諦念。いい加減にしないと夏目漱石に怒られそうなほど乱発する諦念に諦念していた。いやだから怒られるか。
バシャバシャとレタスを洗う隣で、電子レンジにご飯を一つだけ入れて温めようとする母。こんなことで怒ってはいけない。どうせなら2つ入れろやと言いたくなったがこんなところで喧嘩をしていては毎日喧嘩する羽目になってしまう。私は気づかぬふりをしてトマトのヘタをとっていた。
レタスキュウリトマトの最低限なサラダと、昨日テレビのバラエティで日本料理の職人が作っていたひじきの煮物に触発されて作ったひじきの余り物をよそった。
「私ひじき要らない」
そう母親が言っても構わずよそって彼女の前においた。どうせあんた野菜ほとんど食べられていないんだろう?食えや。そんな無言の圧力を加えつつ、さっと焼き鳥を温めていた。
「サラダも好きじゃない」
おいこらお前は好き嫌いを言う小学生か。私は有無を言わさず胡麻ドレッシングをかけて前においた。子供は胡麻ドレッシングが好きだというのは、間違いなく私の偏見である。その時、電子レンジがピーピーとなった。私は彼女の分のタッパーを取り出して、彼女の前においた。
「先食べててよ。私ご飯温めるから」
そう言った私を、彼女は不思議そうな顔をして見ていた。少し面長な顔、深い彫り、高い鼻、大人の色気を感じさせるナイスバディ、全てにおいて私と似ていなかった。そりゃそうだろう。彼女は地球人で、私はアルフェラッツ星人なのだから。宇宙人と地球人なんて種族が違うのに同じようなものになるわけがない。
「ご飯、これしかなかったわよ」
「え?」
その言葉は一番怖い。私は冷蔵庫を必死に弄り始めた。あれ?あれ?あれ?彼女の言う通りだった。ご飯はもう彼女ので最期だった。私はショックを隠し切れないまま食パンを焼き始めた。食パンは腐るほどあった。
「唐揚げに食パンとか、あんたも変な食べ方するのね」
いやご飯ねーからだよ仕方ねえだろ?買いに行くのはお金かかるし今から炊くのも時間かかる。これは苦渋の決断だった。
母親と対面に座った。サラダをもぐもぐと食べ始めた。我々二人に会話はない。お互いがお互いを、自らの理解から最も遠い存在であると認識しているからだ。軽く言ってしまうならば価値観が違うのだ。それでもそんな沈黙は、特にいやにも思えなかった。飯食べたら自室にこもるだけだ。明日も早いしな。
「ねえ、杏里」
いきなり口を開いた母親に、私はびくっと背中を震わせながらきっと視線を合わせた。
「今年、お父さん14日から16日までしかいないんだって」
ふーんそうか。私は特に動揺せずご飯を続けた。
「なんか、冷たくない?杏里?」
「別に?ほとんど家に帰ってこないから特に何も思わないし」
「あの人だって忙しいのよ」
そう母親は苦言を呈していた。まあ父は某大手商社の大物だから、そう言うのは仕方ないのかもしれない。私がこの下宿に入った時、もうすでに海外出張でしばらく返ってこないことが宣告されていた。それでもここ2年は一週間ほど滞在したのだが、3日とはえらく短いな。
「私は別に、どうでもいいけれど?」
そう言いながら食パンを頬張る。やはり微妙に違和感があった。
「後今年は、お父さんの実家に帰るから」
ぴた、唐揚げに伸ばそうとしていた箸が完全に止まってしまった。実家?父の実家?それは聞いていない。それは流石に聞いていないぞ。
「え?なんで?」
「なんでじゃなくて、もう3年も帰ってないでしょ?そろそろ私の実家だけじゃなくて向こうの実家にもいかなきゃと思ってね。だから15日と16日開けといてね」
おう更に予定が増えたなあと思いながら、私は少し憂鬱になっていた。い、嫌まだ先の話だろ大丈夫大丈夫と現実逃避をするのが精いっぱいだった。




