76枚目
リーディングの授業開始は、しょっぱなから意外な展開を見せつけてきた。チャイムが鳴ると同時にドアを開け、ガラガラと音を立てて入ってきたのは、つい2時間前に見た顔だった。教室には動揺が走った。そりゃそうだ。リーディングの若くてきれいな新米の葛谷先生ではなく、くたびれたおっさんが入ってきたからである。私含めて、皆が??とはてなマークを2つ並べていた。
「はーいお前ら静かにしろぉ」
そう言いつつ安藤先生は席に着いた。
「おい日直、号令は?」
「いや、無理ですよ先生。なんで安藤先生がこの授業に来てるんすか?」
そう言いつつ本日の日直である戸村は間抜けた声できりーつと号令をかけた。それにつられたみんな席を立つ、そして誰もが納得いかないまま先生に礼をした。
「今日は葛谷先生はお休みだ。だからテスト返却は俺が行う」
全員が席に着いたのを見計らったように、安藤先生はそう理由を後付けした。
「何で休みなんですかー?」
無論そういわれてしまっては、この疑問が出てくるのが必至である。そんなクラスの心の代弁を、有田がしてくれていた。
「いや…ちょとな。一身上の都合というやつらしい」
そう安藤先生は答えに窮している様子であった。無論こうもぼんやりと理由を言われてしまっては追及の手は止まらない。
「風邪っすか?」
「風邪ではない。というか病気ではない」
「じゃあ怪我?」
「怪我でもない。ピンピンしている」
「ぎっくり腰ですか?」
「……おい今言ったやつ誰だぁ?」
「有田です!」
「いや今ちゃんお前だろぉ??」
「お前ら馬鹿にしてるかもしれんがぎっくり腰って超痛いんだぞ!!この世の終わりなくらい痛くなって全く動けなくなるんだぞ!!もうこのまま死ぬんじゃないかってくらいの気持ちになるんだぞ!!!」
安藤先生の熱弁も、みんなまともに取り合っていなかった。過去に安藤先生は生徒の前でぎっくり腰になったことがある。あれは確か…授業後にハードルの片付けを先生自ら手伝った時だったと思う。無論私は足が短い宇宙人だからハードルなんてまじめにやってなかったし、当時はまだ高校1年生だったから誰とも話さず暮らしていた。しかしながら、生徒達の山に交じって一緒にハードルを持ってきて片付ける安藤先生の姿を見て、自分よりクラスに溶け込めてるんじゃないかと思ったのはよく覚えている。そしてハードルを3つ一気に持っていこうとして、私の隣で固まって動かなくなったこともよく覚えている。あれから安藤先生は、生徒の間ではいじられ、先生の間では少しの重たい荷物も持っていくことをはばかられ、奥さんには医療費がかさむと文句を言われたらしい。
「お前ら、これ以上詮索するようならこの授業自習じゃなくて授業にしてもいいんだ……」
この言葉を聞いた瞬間に、クラス中のみんなが掌を返し始めた。
「みんな静かに静かに!!」
「おい誰だよぎっくり腰とか言った有田は」
「嫌だからこんちゃんお前だろって」
「先生、早くテスト返してくださいよ、早く!!」
「お前ら、本当自習になるとテンションが違うな」
そう呆れつつ、安藤先生はまた薄い頭を搔いた。
「今日は夏休みの宿題ももらっているから、それも配る。後、ついでにHRもやってしまうと思うから、自習の時間は減るだろうな」
そう言った安藤先生に、一気にブーイングが降り注いだ。
「その代わり4限終わったら早く帰れるんだからいいだろう?」
そう言うとブーイングは一気に収まった。
「お前ら、本当に変な所での団結力があるな」
私も安藤先生と同感だった。ちなみに私はというと、先ほど配られた数学の夏休みの宿題に取り組んでいた。これが地球人であれば、同調圧力たら空気読めたら訳の分からない御託を並べられて、挙句には行動が制限されてしまう可哀そうな目に遭うかもしれない。しかし私は宇宙人である。誇り高きアルフェラッツ星人である。そんなこの星のルールなど、いちいち聞く必要もない。
「んじゃあテスト返却するぞ」
そう言った安藤は持っていた封筒をがんと教卓に置いた。
「俺は英語の教師じゃねえから、答えの正解間違いに関して解説とかはできない。だから一緒に応えの書いてあるプリントを配る。これは葛谷先生直々に作ったものだ。これをちゃんと読んで、これからの勉学に努めるように」
そして安藤先生は封筒を開けた。
「んじゃあ呼ばれたものから前に来い。阿部!」
では、ここでクイズを出そう。私の点数は、何点であっただろうか。制限時間は次の行までだ。さあ、想像できたであろうか。
答えは、76点だ。これについて読者の方々はどう思うだろうか。欠点じゃないからいいじゃんとか、高校のテストなんてそんなもんだろといわれるかもしれない。しかし私は肩を落としていた。これは、思っていたよりも点数が低かったというのも、もちろんある。しかしそれ以上に、私は落胆する理由を知っていたのである。
「おい、どうした?家田」
相変わらず返却されるが遅い結城が、解答用紙を見るが否や蹲ってしまった私に声をかけてきた。私は点数を隠し、落胆理由だけを提示した。そこには赤ペンで、こう書かれていたのだ。
「解答欄間違い…?」
そう私は、解答欄を間違えて書いてしまっていたのだ。
より詳しく説明するならば、会話文問題で空欄補充をしていくというもので、解答欄を一つずらして書いてしまっていたのだ。しかもBの所にCの答えを書いていたので、そこから下は全部ずれてしまっていた。しかもそれなら最後の所で気づくはずなのに、Kに気づかず次の大問に行ったため、なにも違和感なく提出してしまったのだ。これによって96点が76点になってしまった。こんな私に対して、結城がかけた言葉は端的だった。
「…どじっ娘」
もう私は訂正する気力すら残っていなかった。いや、これは流石に擁護できない。擁護できないレベルのどじだ。周りの人達から信用を失いかねない失態だ。いくらなんでも解答欄間違いだけはしたことなかったのに…本当だぞ。本当にそれだけはしたことなかったのだぞ!!!!!私は心の中で声を大にしていった。
「次、結城仁智!!」
結城が呼ばれたのを見計らったかのように、亀成が近づいてきた。
「やあやあ家田さん。どうしたんだいそんなに落ち込んだ顔をして。因みに僕の点数は75点だったよ。どうだい?あの男には到底取れない点数だろう?むろんそうだ。だって僕だからね」
あっぶねぇえぇぇぇぇぇっぇぇぇ!!!!超あぶねぇ!!!!!!!!!1点差かよ。もうちょっとでこいつより下になるところだったのかよ。私は変な緊迫感を覚えた。この胸のどきどきは、100%恋ではない。それだけは理解できた。
でも確かに、彼らからしたら76点なんて悪い点数ではない。少なくとも結城に勝つにはこの点数で十分だ。なんせ結城は日本で生きていくから英語なんていらないと豪語するほどの英語嫌いだ。そんな人間が、75%の正答率なぞ想像もできない。
点数を見た結城の表情が見えなかったから、彼がいい点数なのかよくわからなかった。
「やあやあ結城君、どうだったかねき…」
席に戻ってきた結城は、ダダがらみをしてきた亀成に点数を見せつけた。それなのに。どちらかというと私に見せつけているような錯覚に陥った。そこには赤ペンでこう書かれていた。80点、と。
「勝った、かな?」
この言葉が、亀成ではなく私に向けられているような気がしたのは、被害妄想で片付けられる事象ではないと確信していた。




