65枚目
長い長い眠りだった。どれだけの人間が私に話しかけてきたかしれないが、それでも私は眠り続けていた。そっとしておいてほしかったのに、そっとしてくれないクラスメイトに呆れていた。いいじゃないか。私一人くらいいなくたって。昔に戻るんだ。誰一人として絡んでこなかったあの頃に。だってそうだろう?傷つける人がいないだけで、私は満たされるのだから。
そんな極論に走った私にとって、それはまるで悪夢のようだった。うずくまったまま進まなくなった私に差し出されたのは、遠い遠い、胸の奥にしまい込んでいた記憶だった。その、あまりにも似ている声は、私の心を劈いて、否が応にも起き上がらざるを得なくなってしまった。髪の毛を掴んでいたのは、その時の人間とは別人だ。それがわかってもほっとしなかったのは、その似ていた声が偶然ではなく必然であったこと、否故意であったことを理解したからだ。
「なーんてね」
そう言って濱野は私の髪の毛を放した。私は落下していく頭を首で支え切れず、おでこを机にぶつけてしまった。痛い。びっくりするほど痛い。
「…あんた、何してんの?」
濱野の呆れた声は、ひとかけらも心配の色に染まっていなかった。
「…いたい」
「でしょうね。何それ?どじっ娘アピール?あんたそんなに昔からどんくさかったっけ?」
私は頭蓋骨の激痛に耐えつつ、きっと濱野を睨んだ。
「久しぶりね。杏里。まともに話すのは小学校6年生の時以来だから、5年ぶりかしら」
濱野は少しひきつった笑いをしつつ私を見た。憐れんだ目をしていたように思えたのは気のせいだろうか。
「にしてもどうだった?私の演技。私、あの馬鹿達の言葉ほとんど聞いてなかったから、似てるかどうか心配だったのよねー!まあ、あんたの絶望していた顔を見て、まあ、及第点くらいはもらえたのかなって思ったけどね」
濱野は意地汚く笑った。こんな雑で攻撃的な濱野を、クラスの人が見たらどんな顔をするのだろうか。しかしながら、これが彼女の本性だ。彼女の心の中には、こんな攻撃的な一面が潜んでいるのだ。
「…何の用なの?」
「別に何も?強いていうなら同じ中学出身というだけであんたを励ます会に参加させられているのがむかつくから、文句を言いに来たくらいかな」
「そんな会、発足してたの?」
「有田と姫路と阿部と…あの1年生の子」
多分遠垣のことだ。
「それに同じ中学出身だからって私と今野まで参加させられたのよ。ったく冗談じゃないわよ。私からしたら迷惑でしょうがないわよ。そもそも人には誰ともかかわらないで生きていく自由だってあるのに、それを周りが自分の都合で止めにかかるなんて自由への冒涜よ。人権侵害よ。そんな隷属された自由を望む関係なんて、私の思想に合わないわね」
変わらないな、こいつは。流石小学校の頃からカントとかルソーを嗜んでいた奴だ。最近は空気を読んでか馬鹿っぽい発言しかしなくなったが、まだそんな思想は捨てきっていなかったのか。自由に執着し、権力と同調圧力を毛嫌いする子供っぽいアナキスト。その思想を忌憚なく聞いていた私にとって、彼女の一連の言動に驚きはなかった。
「で?その愚痴を言いに来たの?」
「そういうことね。多分姫路とかくっそしつこいから、あんたが復活するまで私に迷惑がかかるのよ。私の自由が侵害されてんのよ。さっさと立ち直れ」
それは参加を強制している奴に言ってくれませんかねえ。私はそう心の中で反論したが、そんなことできないのだろう。彼女は表向き気弱な女子高生なのだから。栗色のボブカットが特徴の一般人なのだから。これが月日の流れというやつか。嫌になるな。
「ねえ、濱野さん」
私は徐に尋ねた。
「自分の感情が、わかんなくなったことって…」
「私に相談するな」
それを濱野は遮った。低い低い声が響いた鼓膜は、脳へ絶望を伝えた。
「なんで私に相談しようとした?」
「へ?や、だってあんたは私のこと…」
「私とあんたは高校の時に初めて知った仲、そうだろう?」
え?え?この人は何を言っているんだろう。しかし彼女の表情は真剣そのものだった。
「そもそも私はさっきからのあんたの態度が気に入らねえんだよ。正しい反応はこうだろ?ワタシクハウチュウジンダ!って」
濱野は大層馬鹿っぽい声で、ステレオタイプな宇宙人を演じた。とても気に障ったが突っこまないようにしておこう。
「小学校の頃は、あんたは宇宙にいたんだろ?中学二年生の二学期にこっちに来たんだろ?だったら私とあんたは無関係の人間じゃねえか」
言われてみればそうだ。そんな矛盾なんてもう、私は気にしなくなってしまった。
「そんな私に相談するな。もっとあんたのこと、気にかけてくれている奴がいるだろ?」
「でも濱野が…一番本当の私を…」
「そんなの知らないわね。私が知っているのは高校二年生でおんなじクラスになった宇宙人を名乗る良くわからんあんただけよ」
「じゃあさ。じゃあさ。これだけ聞いていい?」
私は食い下がった。どうしても彼女に訊きたいことがあったのだ。
「自分に正直に生きるのって、どうしたらいいと思う?」
「無理よ」
即答だった。この気持ちいいほどの即答は、彼女らしかったが、それでも私は大きく戸惑ってしまった。
「あんた、もしかして自分以外の人間はみんな自分に正直に生きてるとか思っていない?」
そしてここからの濱野の言葉は、いつになっても耳に残っていたものだった。
「それは独りよがりってやつよ。人間ってのは他人に見せたくない自分の嫌な面を自覚してて、それを隠して生きてるのよ。本性を隠して、自分を偽って、それでもうまく現実と折り合いつけて生きてんのよ。自分だけが嘘とか現実に苦しんでいると思ったら大間違いなのよ。そんなもの、あんたが偶々自分の偽り方を宇宙人にしたから目立つだけよ」
言われてハッとなったのを今でも覚えている。
「みんな…?」
「そうよ。あんたも、あんたの周りも、もちろん私もね」
ふっと浮かんだのは結城、次は遠垣、最後は姫路だった。みんな、そうなのだろうか。耐え難い現実と虚構の自分を上手く折り合いつけて、毎日を過ごしているのだろうか。到底想像できなかった。少なくとも姫路は、全く想像できなかった。それでも、その考え自体が独りよがりなのだろう。
「質問は以上ね」
そう言って濱野は踵を返し、教室を出ようとした。
「どこ行くの?」
「どこ行くのって、球技大会よ。みんな行ってるんだから、あんたも来なさいよ。あんたが来ないと、バスケのリーダー不在じゃない」
そして彼女は振り返って、こう言った。
「ほ、ほら…行こ?みんな待ってるしね」
さっきまでの低い声と同一人物とは思えないほど高く媚びた声色だった。鼻の奥で籠ったようなその声に、乱暴なアナキストの一面は全く感じさせなかった。そこそこ背があるのに腰を折りたたみ上目遣いをしているのもあざといと思った。そうか、みんなこんな風に、現実と戦っているんだな。私は合点の行った顔で、席を立って教室を出た。