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63.5枚目

 泣きながら去っていく彼女のことを、追いかけることすらできなかった。最低だ。本当に、最低だ。よりにもよって、一番心配してくれる人をあんな悲しい目に遭わせるなんて、僕に生きている価値などない。これが飛躍に思えないほど、僕の心はむしばまれていた。つらく、悲しく、絶望的な現実に、僕の虚構は崩れ去ろうとしていたのだ。それを現実と向き合うことと同義だというのなら、もうそんな現実はき捨ててしまいたいほど恨めしかった。

「仁ちゃん!仁ちゃん!」

 後ろから沢木が声をかけてきた。へたり込んでいた俺はその声を聴いてすっと立ち上がった。

「何してたんすか?仁ちゃん」

「別に何も」

 こんな時にさらっと嘘をつけるようになったのは、成長なのだろうか。退化なのだろうか。答えのない問いだ。無駄でしかない。

「それより…どうしたんすか」

 なにがだ?という顔で、僕は沢木を見た。

「なんで…野球部辞めるって言いだしたんすか?」

 僕は驚いて、あまりに驚いて、しばらく硬直してしまった。

「さっき牛尾から聞いたっすよ。というか向こうから話しかけてきたっすよ。いきなり仁ちゃんが辞めるって言いだしたから、何か事情を知らないか?って」

 あのクソ教師…僕は心の中で野球部顧問をなじった。誰にも話さないでくださいねって言っていたくせに数分で情報漏洩とか、教師失格じゃねえか。心の中でクソでかいため息をつきつつ、剃った頭をポリポリと掻いた。確かに牛尾が自分に特別目にかけてくれていたことは知っていたが、だからと言って自分に迷惑となるような言動は控えていただきたい。

「どうしたんすか?なにがあったんすか?」

「あれだよ。怪我がひどいからだよ」

「怪我なんて、いくらでもやったって戻ってこれるっすよ」

 それはお前だけだろう。大事な試合の前になるたんびに怪我をしては離脱するお前だから言えることなんだよ。

「もう、いいんだよ。やる気のないやつが練習してたって、ムードが下がるだけだろ?」

 怪我なんて、本来そんな簡単に戻ってこられるものではないのだ。

「いいから、帰れよ…」

「帰るわけないじゃないっすか!!!仁ちゃんと何年一緒にバッテリー組んできたと思ってるんすか!!!」

 そう言った沢木は、こっちに近づいてきて胸を一つ小突いた。

「相談してほしいっすよ。頼ってほしいっすよ。怪我がひどいならリハビリも手伝うし、他に理由があるなら話聞くっすよ。だから…だから…」

 そして小突いた左手を開いて僕の服の裾を掴んだ。胸ぐらをつかんで持ち上げるような身長差はなかったが、それでも握られた拳は固かった。

「勝手にいなくならないでほしいっすよ…」

 もしかしたら、自分は幸せ者なのかもしれない。こんな風に、色んな人に呼び止められて、心配されて、色々言われて…嬉しいな。幸せだな。生きててよかったな。

 そんな資格、自分にはないというのに。

 そんな幸せ、自分からかなぐり捨ててしまおうと思っているのに。

「まだ、右手が伸ばせないんじゃないか」

 僕はなるべく冷たく沢木に問いかけた。

「そんな人間が、怪我がどうこうとかいうなよ。まず自分の怪我治してから出直してこい」

 そう言って握りこぶしをほどかせた。絶望的な沢木の顔は、むしろ帰る場所をなくしたようで、居心地の悪さと懐かしさすら覚えた。

「それじゃあな」

 そしてカバンをもって帰宅しようとした。後ろから叫ぶような声が聞こえてきた。

「待ってるっすから!!!待ってるっすからね!!!!!!」

 それを看過して、僕は歩き続けた。


 家に着いた瞬間、懐かしい人から久しぶりの電話が届いた。よりによってこのタイミングかよと思ったが、無視するのも何かかと思って出ることにした。

「もしもし」

「ああもしもし、仁智、元気していたか」

 聞き慣れた声を聴いて、感情が呼び起こされて冷たくなっていくのを感じた。

「何の用?」

「用がないのにかけてはだめなのか?」

「普通はそうだろうね」

「息子にもか?」

「端的に言ってよ。親父、何の用?」

 電話越しでため息が漏れた。

「まったくお前は…」

「次説教言ったら切るからな」

 あまりにも冷たい仕打ちは、当然の措置というやつだ。

「そういや親父、野球辞めることにしたから」

「そうか…いいんじゃないか?」

 思っていたよりも無関心だった。まあこの男に配慮の二文字はないから、妥当と言えば妥当である。

「軽い提案だな。野球しにアメリカ行っておふくろ泣かしている男のセリフとは思えないな」

「おう、手厳しい」

 はははという笑いが、徐々にアメリカかぶれている気がして癪に障った。

「そっちの用事は?」

「いや、大したことないさ。ただ…杏里は、元気にしているか?」

 杏里と聞いて、一瞬どっちの方か真剣にわからなくなった。それを悟られないように、僕は気持ち早口で答えた。

「元気だよ」

「そうか」

「それだけのために電話してきたんだ。暇なんだね」

「暇なわけないだろ!毎日が真剣勝負だよ」

 そう高らかに笑う親父が、本当に憎かった。

「…今年の盆は、帰って来いよ」

 僕はそう言って電話を切った。そして家の中に入った。今日も相変らず、ひとりぼっちだった。

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