49枚目
一時間後、プールの待合室で横になっている無残な私の姿があった。
「家田何してんの?タコの真似?」
「そうよー私は今、大海原を泳ぐタコにでもなった気分よ…」
結城のこの問いかけにも、最早まともに答える気にならなかった。なんで彼がここにいるのかも、もうどうでもよくなってしまった。
「そういやタコって、昔は宇宙から来た生き物だって言われてたらしいぞ。おもにヨーロッパとかで」
「そかーんじゃ私はタコよ」
「アルフェラッツ星人だろ。ほら、皆が使う椅子に寝転がるな。せめて普通に…」
そう言って結城が私の腕を持つと、ひぎぃという声が響いた。声の主は間違いなく私だった。
「あ…ごめんそんなに気にするなん…」
「や、違う違う。別に触られたのが嫌なわけじゃなくて…」
まあ嫌だが…
「腕が…というか体全体が筋肉痛なの」
息をするだけで筋肉が悲鳴を上げていた。腕も足もお腹も背中も、身体のありとあらゆる筋肉が限界だと大合唱をしていた。
「あー沢木に鍛えられてたもんな」
結城もその点には同情していた。1つだけ忠告しておくが、別に沢木に暴言や暴力を喰らいつつ、スポ根漫画のように練習したわけではない。ただ、沢木はある魔法の言葉を使っていただけだ。それは、『とりあえずやってみるっすよ』だ。お蔭さまでずっとずっと泳がされ続けた。途中で止まったら鼓舞して、スタート地点まで優しく案内して、また泳がせる。終わりのないその輪廻に囚われ、私の筋肉は摩耗していったのだ。
「あいつはスパルタだからなあ。優しい言葉をかけるスパルタ」
「それ一番厄介なんだけど…つうかあっち行かなくていいの?」
遠くでは野球部数人が固まっていた。
「いいよもう解散したし、後は集まってご飯行く話してるだけだよ。沢木は予定あるからってさっさと帰ったし」
そうぽろっといったのを思い出して、私は沢木との会話を思い出した。沢木は言っていた。彼のことがわからないって。多分結城は沢木の前で死にたいだのなんだの言ってないだろう。いくら沢木が能天気でも普通の人はそう言われたらどんびいて関わらないようにする。そうに違いない。つまり沢木は、そうした彼の暗黒面を知らずとも、彼の異常性を察知していたのだ。これはすごいことだと思う。よくわからないが、これがバッテリーというやつなのだろうか。
「ねえねえ結城、バッテリーって何?」
私はうつぶせの体を少しだけ起こして、対面に立っている結城に訊いた。
「ん?なんでそんなこと訊くんだ?」
「沢木が言ってた。仁ちゃんと昔からバッテリー組んでるんすよって」
私はできるだけ沢木の声真似をして言ったのだが、結城からは無反応だった。
「ピッチャーとキャッチャーのことだよ。小学生の頃から沢木がピッチャーで、俺がキャッチャー。ピッチャーとキャッチャーは解るよな?」
「流石にわかるわよ。ピッチャーが投げる人で、キャッチャーが受ける人でしょ?」
私は憤慨しつつ答えたが、よくよく思うととても馬鹿っぽい返事だった。
「それがどうした?」
「いや…やっぱり特別なの?ピッチャーとキャッチャーの関係って」
結城は少し怪訝な顔をしつつ答えた。
「まあな。一番関わるし、どんな球投げるかとかも相談するしな」
「相談?あんな離れてるのに?」
「サインってのがあってな。こうやって指を動かすことでどんな球投げろって指示するんだよ。それにピッチャーは首を縦横に振って答える。そうやって投球してんだよ」
そう言いつつ結城は指をかくかく動かしていた。
「なるほどーんじゃ、結城が投げる球決めてるんだ。すごいね!」
私は感心した。そして結城を見習って毒を吐いた。
「頭悪いのに」
「それは違うよ。俺はただ勉強する努力を怠ってるだけだ」
お前最初の頃まじめに授業受けてるとか言ってたくせに…じとっとした視線を向けて抗議したが、華麗にスルーされた。
「聞きたいことはそんだけ?」
「あ…あのさ」
まだ聞きたいことがあった。
「よくあんた、誰かのために死にたいって言ってるじゃん。これって、他の人に言ったことあるの?」
結城は少しだけ間をあけて答えた。
「ない…よ」
「そっか」
「…あれからどうだ?学校は?」
まるでお父さんのような言葉を、結城はかけてきた。
「別に可もなく不可もなくよ。いじめもなくなったし元通りよ」
「そうか…良かった」
言葉に詰まった。お互いだった。よっこらせと座ってきた結城も、言葉を発さなくなった。こうした沈黙を耐えられないと感じるようになってしまったのはいつからだろうか。何を話そう。何を訊こう。話したいことはいっぱいあるのに、中々それが纏まらなくてつらかった。
「ねえ、結城」
話すことも決まってないのに話し掛けた。
「何?家田」
それに結城も呼応した。
「何か私にしてほしいこと、無い?」
一瞬間が開いた。
「してほしいこと?なんで…」
「や、前助けられちゃったからさ。恩返しがしたいんだ」
「そんな…気にしなくていいよ。俺なんかよりも、姫路とかの方が頑張ってたじゃん」
「いや、結城のお蔭だよ。あそこで励ましてくれなかったら、私が私じゃなくなっちゃうところだった」
今でも思い出してしまう。泣きじゃくる私と、優しく励ます結城の姿が。嬉しかった。頼もしかった。本当に感謝してる。
「何かお礼をしなきゃと思ってさ」
私は自己完結した。そうだ。最近結城と話すのをためらっていたのは後ろめたい気持ちがあったからだ。それは何故かというと、先週の大きすぎる借りのせいだ。あんな、私を救ってくれるような言葉をかけたのに、私が結城に対して何もできていない。その状況に嫌気を指していたのだ。違うことは解ってた。でも正解がわからなかった。それでも、あの時助けてもらったのは事実で、恩返しをしたいのも自明なことだ。だったらいいじゃないか。自分の気持ちなんて、正解の分からないことなんて、いくらでも嘘がつけるのだから。
「んじゃ、俺をころ…」
「それはなし!」
私がびしって言うと、結城はしょぼんと肩を落とした。
「それ以外にはないの?」
「ない…かな」
「それじゃ、私の借りが返せないじゃない!!」
「いいよ返さなくて。俺にそんなものいらない…」
「なにいってるの!アルフェラッツ星人はそういうの許さないんだから」
私はじっと結城を見ていった。隣に座る結城との距離は大体30㎝。それでもまるで遠くの方を見るような顔をしながら言った。
「前は私が助けられた。だから今度は私が結城を助けるの!つらいこととかあったら言ってよね」
「え…それは…」
「いいから!頼んだわよ」
私はじっと結城を見た。決して視線を外さなかった。一度思い込んでしまえば、嘘は本当になりあがる。そうだ。次は私が結城を助けるんだ。そうしたらわかるかもしれない。結城仁智という男がどんな人間かわかるかもしれない。
雨脚はやみつつあったが、私は椅子に座ったままだった。少しでも動いたら抵抗する筋肉が、私はここに留まらせていた。これからの私の目標が定まった瞬間だった。
「次は私が、あんたを救ってあげる」
まるで自分に言うかのように、私は言った。