5枚目
いつもより入念に体を洗うと、私はクロワッサンを咥えてカバンを持った。寝坊である。授業開始20分前に起床、JKにとっては死刑宣告に等しかった。朝風呂と包帯を準備し終わり、家を出たのは開始10分前。私はか弱い体力を振り絞って学校に向かった。
その日はとても運が良く、途中にあった信号を全て青信号で通過した。おかげさまで漕ぎ始めてから漕ぎ終わるまでノンストップで学校に到着した。自転車を駐輪場に停めて、授業開始まであと2分。
「おい家田。ちょっとまて」
誰だ、私を止める者は。私は眼光をぐっと鋭くして声のした方向を睨んだ。その先にいたのは安藤先生だった。私に何の用なのだ。
安藤はやたら焦った様子で尋ねてきた。
「今日野球部の朝練に結城が来なかったらしいが、何か知らないか?」
あまりにも意外すぎるこの展開に、私も呆然としてしまった。
「つまり、昨日の夜練から結城の姿が見当たらないと」
お昼休み、私は普段なら売店のパンを買っている時間に、生徒指導室でおっさん2人の話し合いに参加させられていた。
「そうなんですよ。これまでずっと20分前に集合して自主練をしていた彼が、今日連絡もなく朝練に参加してなくて…授業にも参加していないみたいで…」
「親御さんには連絡したんですか?」
「しましたよ。いつも通り朝練に行くと言って、いつも通りの時間に出発したらしいです」
それを聞いて安藤は腕を組んで椅子にもたれかかった。どっしり構えているようにも見えた。一方で野球部顧問の牛尾は、想定外の事態におどおどしているように見えた。
「で、安藤先生はなんでこの子を連れてきたんですか?」
牛尾が矛先をこちらに向けた。
「や、昨日気になることを言っていたのだ。明日もしも自分が死んだら失踪したら、家田を宇宙人と認めろと」
安藤の話を聞いて、牛尾は一瞬頭にクエッションマークを浮かべたが、私の方を見て少し納得した顔になった。その真意は、私が宇宙人であることについて疑義を入れることは無駄だと察したことだろう。顔がそう宣っていた。
「それを言い出したのはこいつですか?」
こいつとはなんだこいつとは。一応生徒だぞ。生徒にかける言葉ではないだろう。私はそう憤慨しつつ、自己主張を放棄してじっと椅子に座って居た。
「いや、結城の方だ。家田はほとんど話してなかった。結城が全部条件を出して、一方的に帰っていった」
安藤は少し長く息を吸い込んだ。
「俺が思うに、2人はグルになっているんじゃないか?つまり、結城が居なくなることによって、家田の虚言である宇宙人というのを無理やり認めさせようとしているのではないか?」
「彼がそんなことする気はしませんが」
彼の裏の顔を知る私としては、むしろそんなことしない方が不自然なのだが…ともかく、厄介なことになった。一体彼は、どこに消えてしまったんだ?
「とにかくだ!」
安藤は私の方を向いた。
「家田、事情を話してほしい。あいつがどこにいったのか」
知らねえよ、むしろこっちが聞きたいくらいだ。いいから昼飯のパンを食わせろ!
「いや…べつに…」
そんなことが言えたら私は宇宙人ではなくただの地球人である。言葉を濁して少しの間黙った。二人は私が話し出すのを待っている様子だった。
こんな時、どっちの方向に話を持っていけばいいのだろう。結城が失踪したことをいいことに、あたかも私が邪眼の力を使って彼を消したことにするか、正直に何も知りませんでしたと言うのか、どっちが私の進むべき道なのだろう。私はずっとそれを迷っていた。
もしも私が、何も背負っていない普通の人間ならば、虚偽の申告など以ての外で、正直に話すことが何よりも重要だろう。しかし、私には背負っている任務がある。抱えている力がある。私の調査活動を邪魔させないようにするには、ここでの嘘も正義になるのではないか?ほら、嘘も方便、というやつだ。
ー大丈夫、君ならいけるー
マリアの声がどこからか聞こえた気がした。気のせいだとはわかっていたが謎の勇気がわいた。そしてそれに反応するかのように、私は話し始めた。
「そうですよ、私がやったんですよ。安藤先生が私が宇宙人であることを認めてくれなかったので、つい脅しをかけてしまったんですよ」
暫し流れた静寂は、恐怖か呆然かどちらだろう。測りきれないまま、私は更に言葉を紡ぐ。
「結城君を返してほしいかい?ならばまず謝罪していただきたい。私を宇宙人ではないと言ったことも、私の包帯を強引に取ろうとしたこともだ。そうでないと、彼を返すわけには…えっ⁉︎ちょっと!」
安藤はいきなり私の腕を掴んで、強引に起立させた。そしてそのまま教室のドアの方へ持って行こうとした。
「な、なにをする!離せ!私をどこに連れていく気だ」
「警察だ!」
安藤はこれまで見たことのない顔ですごんでいた。後ろで牛尾が呆然としているのが見えた。
「誘拐事件となれば、警察だって黙ってないだろう。お前のその宇宙人設定とやらは信用されなくて、残るのはお前が結城を行方不明に追い込んだという衝撃的な事実だけだ。ほら、一緒に行くぞ。一緒に自首して、牢獄で反省するんだな」
「や、やめてください!すみませんでした。調子に乗りました。や、もう反省するので警察だけは、警察だけはやめてください」
「刑務所で反省して来い!」
「いやーーー本当の、本当のことを話すので許してください!お願いします。お願い…」
「で、結城のことは何も知らないんだな」
私は首を一回こくんと縦に振った。さっき大声を出したせいか、息がぜーぜーと音を立てていた。
「まったく、なんでそんな嘘をついたんだ」
牛尾がこう言うと、私の腹の音がぐーとなった。昼飯の時間は半分が過ぎていた。私は気恥ずかしくなり顔を下に向け続けた。
「腹減ってたのか?」
安藤の言葉に、私は縮こまって首を縦に降ろした。
「ならそういえばいいのに。全く人騒がせな奴め」
牛尾は呆れた声を出した。私はさらに小さくなった。顔を上げるのが怖くて怖くて仕方なかった。
「まあまあ、無理言ってこんなところに連れてきてしまった私にも責任がある。何も知らないんだったら、余計にムカついてしまう気持ちもわからなくもない」
「時間無駄にした」
安藤が必死に私側に立つ一方で、牛尾は機嫌を損ねたままだった。こいつ、意外とねちっこいやつだな。
「という訳で、帰っていいぞ!貴重な昼休みに時間使わしてもらって悪かったな」
そう言うと、安藤は徐にポケットから小銭を取り出した。100円玉1枚を私の方に差し出した。
「売店ではもう何も買えないかもしれんから、せめてもの詫びだ。全然額は足りんだろうがな。お前さんも、家のこととか大変だろうが、もうトラブルは起こさんで、素直に心を開いて生きるんだぞ。わかったな」
安藤はまるで諭すかのようなことを私に言った。何の話だと疑問に思うかもしれないが、彼の脳内では私は様々なトラブルのせいで人格形成を間違え、自分を宇宙人だと思い込ませることでその現実から逃げ自我を保っていると決めつけている節がある。全く、妄想はなはだしい。私は宇宙人だ。私は毎日素直にそう言い続けているだろう。いい加減認めてほしいものだ。私がそんな、そんなことのために、宇宙人を成りすましているわけがないだろう。私は宇宙人だ。舐めてもらっては困る。
それでも、安藤がくれた100円玉は、少しだけ温かみを帯びていた。それは錯覚ではなかった。幻とは思いたくなかった。それをぎゅっと固く握りしめたまま、私は一瞥をして生徒指導室を出たのであった。