48枚目
「杏里ちゃん」
「なんだ沢木?」
「杏里ちゃん…流石に泳ぐの下手すぎないっすか?」
ド直球もド直球な感想を沢木は提示してきた。多分私が3度目の挑戦を7メートルと少し行ったところでギブアップしたからだろう。私からしたら小さな成長をしていたのだが、周りからしたらなんだこいつとみられてもおかしくはないだろう。
「今日初めて泳ぐんだから、仕方ないでしょ?」
「え?杏里ちゃん泳いだことないんすか?」
9レーンに逃げ帰ってきた私の隣を歩きながら、沢木はいつも通りの大声を出しつつ斜め後ろにつけてきていた。私は反対方向のレーンを見た。牛尾がこっちを見ていた。注意したいが、遠いし一応公共の場所だし療養中だしで中々その機会を掴めない、そんな顔をしているように思った。
「杏里ちゃん、ボーリングもしたことないんすよね?それで泳いだこともないって…杏里ちゃん、どうやって暮らしてきてたんすか?」
そんな私の現状把握などつゆ知らず、沢木はバンバン声をかけてきていた。全く地球の男は空気の読めないやつばっかだなと、会ってもないのに有田を非難した。
「どうやってって…アルフェラッツ星にはそんな娯楽ないわよ」
「まじすか!ないんすか!なら俺絶対行きたくないっすわ!!!」
沢木はノリがいいのか、こういう話も宇宙人設定を否定しなかった。でもこれは、結城のそれとは確実に違っていた。結城はあたかも本当に宇宙人であると思い接してくれているが、沢木はどちらかというと宇宙人という設定に乗っかって話してくれているかのような気がした。上手く言えていないかもしれないが、しかし両者には決定的な違いがあった。
一瞬話題が途切れたのを狙って、私は沢木に質問した。
「ここじゃなくて、予約とかして貸切で泳ぐ手はなかったの?」
沢木は少しだけ間をおいて答えた。
「やー本当に水泳でトレーニングするときはそうするんすけどね」
「今日はイレギュラーだったの?」
「そうなんすよ。実は練習試合のあともうひと練習するつもりが雨になって、たまたま近くまで来ていたから水泳に切り替えることにしたんすよ」
なるほどなるほど…ん?つまり今は…
「もしかして今、雨降ってる?」
「そっすよー結構やばいっす!」
私は頭を抱えたくなった。なんでこんな日に限って自転車に乗ってきたのだ。確かに今日は天気予報を見ずに出かけたけど、そんな日に限って…
「なんか、通り雨って感じだったっすよ!いやあ夏っすね」
沢木はどこまでものんきだった。まあ私は優しい宇宙人だから、そんなことで神経を逆撫でたりはしない。
「そっかありがとう」
どうしよう。帰った方がいいかなあ。というか洗濯物!取り込まないといけないし…ご飯だって考えなきゃ…いやそれよりも!どうやって帰るかだ。どうやって帰ろうかなあ。
なかなかうまいこと泳げないし、雨は降るし、家事も無駄になったし、しばらく会わないでおこうと思っていたちょっと気まずいやつにもあったし…今日はあんまり良い日じゃなかったな。
うーむ、どうしても私にはポジティブシンキングというものが苦手なようだ。やはり自分らしくないことはするものではないのかもしれないな。そんないつも通りのネガティヴシンキングをしつつ、私は肩を落としていた。
「そういや杏里ちゃん」
もうそろそろ杏里ちゃん呼びに慣れてきた。
「何?沢木」
「杏里ちゃんは何で今日ここにきたんすか?」
…ん?
「言ってなかった?泳ぎの練習したくて…」
「いや、そうじゃなくて、誰のためにそんなことしようと思ったんすか?」
そんな鋭い指摘をしたついでに
「そりゃ泳ぎの練習したいことくらい、いくら俺が馬鹿でもわかるっすよ!」
と沢木は付け足した。
「友達がね、遊びに行こうって。プールとか」
私は隠さず答えた。隠すようなことでもない。
「いいっすね!」
沢木は親指を突き立てて私に向けてきた。
「結城とっすか?」
「違う」
私はムッとして睨んだ。
「あれ?違うんすかー」
「いい加減にしないと怒るよ」
「お似合いだと思うんすけどねえ」
私は睨み続けた。
「怖いっす杏里ちゃん」
「あんたが変なこと言うからでしょ」
「そんなことないっすよー」
「あんた、いい加減に…」
「昔から、仁ちゃんって何考えてるかわからないんすよね」
突然だった。私と同じことを考えていたのかと思い、睨んだ目はまん丸の驚きの目に変わった。もう中年組が居なくなった9レーンで、私達2人は体も向かいあって話し始めていた。
「仁ちゃんと俺はリトルリーグからバッテリー組んでるんすけど、昔からそうなんすよね。ピッチャーをしっかりリードしてくれるし、最高のキャッチャーだと思うんすけど…何考えてるのか本当にわからないんすよね。黙ったままで何考えてるのかわからない人はまだ、話してくれたら理解できるかもって思えるんすよ。杏里ちゃんみたいに?」
「…私のこと理解できるの?」
「とりあえず宇宙人ってことがわかったのでそれでいいっす」
いいのか…それくらいなら関わらなくてもわかるだろと思ってしまう。
「でも、わからないんすよね。仁ちゃんは…色んなこと話してくれるのに、どんな人間なのか全然わからないんすよね。それがちょっと不満なんすよ。まるで、自分というものを偽って、誰かとか何かのためにしか生きていないような…そんな気がするんすよ」
沢木は少し物寂しい顔をしながら、少しはにかんだ。
「でもなんか、杏里ちゃんならいけると思うんすよね」
「私?」
「そうっすよ、杏里ちゃんなら素の仁ちゃんを引き出してくれると思うんすよ」
私…そんな能力はないんだけどな。真っ芯でまっすぐな沢木の言葉を、私は茶化しながらしか受け止められなかった。
「ちょっと…できればお願いしたいっすね」
「沢木はやらないの?」
「もう5、6年の付き合いがあって無理だったんすよ。諦めたっす!」
えらくはっきりいうなあ。そんな茶化しも、彼の眼の前では決して言えなかった。
「言っとくけど、あまり期待はしないでね」
「そうっすか?」
「そうっすかって何よ」
「自信あるっすよ」
…あんたに自信持たれてもなあ
「考えとくわ」
「よろしくっす!」
思っていたより、沢木という男は奥が深いのかもしれない。私はふと、そんなことを思った。
「んじゃ、泳ぎ方でも教えるっすかね」
そして沢木がいきなりそんなことを言い出したため、私のプール滞在は長引くことになったのだった。