46枚目
○○、大地に立つ!これは誰がどんな風に使ったフレーズなのか思い出せなかったが、突然私の脳裏に姿を出してきた。しかしながら私の現状を一番表してくれる定型句だなと思い、あえて使うことにした。『家田杏里、大地に立つ!』
…大地というかむしろ真逆な水の地平だけど、そんな些細なことを突っ込まないで私は階段を下りて行った。端的に言うとテンションが上がっていたのだ。どうにも私には思い込みの強い性質があり、今日はポジティブだと思い込んでしまえば自然と足は前へ歩いていくし、顔も上向いていった。いつにない積極性だった。これをもっとクラスとかで見せていたら、もうちょっと…いやこの話は止めよう。実現可能性の低いもしも話ほど、人の時間を浪費させるものはないからな。そんな愚かな行為、宇宙人である私がするのはナンセンスだ。
プールの水というのは普通の水と違って塩素が入っているらしい。だから目には危険かもしれないからと、多くのプールには目を洗う専用の蛇口が設置されていた。無論ここにもあったのだが、私は諸事情合ってゴーグルをとれない。よってその手順をあきらめ、全身に簡易シャワーを浴びるにとどまった。まあ↑?別にゴーグルをと↓らなければ↑、目に有害なことなんてな↓いのだから↑、私には必要ないのだ。私は心の中で棒読みを発揮しつつ、ゴーグルをつけたままプールサイドに足を踏み入れた。
プールサイドは、やはりというべきか塩素のにおいが鼻を劈いて仕方なかった。私ら見えないけれどもいるんですよと匂いで訴えかけているように思えた。この独特なにおいに若干ひるみつつ、私は真っすぐ初心者遊泳用のコースへと歩いて行った。
温水プールは縦が25メートルで9レーンあった。1レーンと2レーンは予約制で、運動部とかが使うレーンらしい。もしも予約がない場合には自由に泳ぐことができるが、それでも長い間泳げてなおかつスピードも出るという、平たく言うと上級者向けのコースだった。今日はまだ予約が入っていないみたいで、数人の屈強そうな男たちがのびのびと泳いでいた。
本来の上級者向けコースは3、4レーンになる。今日は他のレーンが開いているからか少なめだった。そしてスピードを出したいが短い距離で十分な人が5レーン、長い距離をゆっくりと泳ぎたい人は6レーン、初心者遊泳コースは7レーンと8レーンで、9レーンは遊歩用のコースだった。水の中を歩くというのは、健康を考えるととても有益なことらしい。昨日ネットで調べて知ったことだ。だからか、私の後に更衣室に来た中年女性4人組は、ぞろぞろと遊歩コースに行っていた。
とりあえず私は初心者コースに行こう。初心者コースのいいところは、途中で立っても怒られない点だ。他のレーンだと25メートル泳ぎ切れない人間はその場でお断りなのだが、このレーンだけはそれが許された。25メートルどころか5メートルも泳いだことのない私にとって、初心者コースはもはやユートピアだった。
私は恐る恐る近づいて、プールの水にちょこんと足の指先をつけこんだ。プールの水といえば冷たい印象だったが、そこは温水プール!さすがの温さだった。なるほどこれは泳ぎやすそうだ。私は三回くらい周りをきょろきょろしたのち、ゆったりと水の中に入った。家田杏里史上初めての着水である。こんなことを歴史的偉業のように表現しているのは、恐らく全宇宙で私くらいだろう。
水の中における泳ぎ方とは大きく分けると4つに分けられる。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの4つだ。これも昨日調べた。その中で一番ポピュラーで泳ぎやすい泳法はクロールらしい。手をかくことによって進んでいくらしいが、まずはそれを泳いでみよう。なあに、今日はポジティブなのだ。不安などない。そもそも25メートルなんて、走れば5秒くらいじゃいか。それくらいの距離は今日中に泳げるようになりたいな。
私はばしゃあと水の中に顔を入れて、思いっきり壁を蹴った。ネットの写真と動画を見よう見まねで泳いでみようとしたのだった。
1分後、私は9レーンに居た。自分でもびっくりした。まさか自分の限界はたかが7メートルだったなんて…一生懸命泳いで、ゴールかと思って立ってみたら一番手前のラインにすら到達できていなかったときは、思わず時が止まったのかと疑った。そして思った。とりあえずおとなしく歩こうって。
そう言えばネットに書いてあった気がする。準備運動をしっかりしてから泳ぐようにと。そうだこれは準備運動なのだ。間違っても自分の能力の低さに絶望して遊歩コースに逃げているのではない。私はそんな言い訳をしつつ、つじつま合わせに腕のストレッチをし始めたり、中年女性陣を見まねて大股で歩いてみたりした。
確かに水の中を歩くというのは、とても抵抗がかかった。最大の深さが大体130㎝であったため、場所によっては上半身まで完璧に水の中に浸かる場面が多々あった。その中でぐいぐいと進んでいくのは体力を使うことだった。これは健康に良いと言われてもおかしくないな。私はしっかりと納得した。
このまま、こうして水になれるのもいいかもしれないな。そんな現状維持を望む声を、今日の人格が封殺した。それはポジティブではないだろう、と。今日のテーマはポジティブ。そうポジティブだ。ポジティブに物事をとらえよう。そしてもう一回挑戦するのだ。少しずつ人が増え始めるプールレーンの隅っこで、私はそう決意した。
しかし闇雲に挑戦するのでは前回の二の舞だ。私は前回の失敗を顧みた。やはり一番の失敗は、呼吸のタイミングがつかめなかったことだ。呼吸をしようと顔を上げると勢いが減り、ただでさえ進まなかった私の泳ぎはより覚束なくなっていた。もしかしたら、私には呼吸方法を考えなければならない泳ぎは不可能なのかもしれない。ならば…
私は思いついた。4大泳法の一角、背泳ぎ。これは水の中に潜らずに、初めから仰向けにした状態で泳ぐのだ。こっちの方がむしろあっているのではないか。息ができて、手足を動かせ続けられるのなら、いつかゴールにたどり着くだろう。そうに違いない。若い声が散見されるようになったことも気にせず、私は隣のレーンに移った。そしてネットで見た泳ぎ方を見よう見まねで、背泳ぎをし始めたのだった。
1分後、またしても私は第9レーンに居た。今回の記録は推定5メートル。+鼻に水が入るアクシデント付き。私はさすがに落ち込んでいた。私の背泳ぎは、全く浮上しないまま一直線にプールの底へと落ちていった。まさかこんなに水泳が難しいとは…私はある種の絶望感を抱いていた。本当にこんな状態で、海など行けるのだろうか。今のままでは、浮き輪があっても沈んでしまいそうだった。
私は人間の高度な身体能力について驚嘆の思いだった。彼らはこんなにも難しいことを、いともたやすく行っているのだ。5レーンで泳ぐ中学生くらいの男子や、先ほどから1、2レーンを占拠し始めた屈強な運動部員たちを見ていると、なんて猛々しいのだと感嘆するばかりだ。肉弾戦では、我々に勝ち目があるはずがない。私はそう思った。
次はどうしようかな。もう挑戦する気持ちも折れかけているしな…そう思っていた時に、背後から陽気な声が聞こえてきた。
「あれ?杏里ちゃんじゃないっすかー」
遊歩コースのすれ違いざまに声をかけられた。振りかえるとそこには、水着に着替えた沢木の姿があった。




