36枚目
「おい!お前ら何してんだ!!」
安藤先生の怒鳴り声が響いた。ドスのきいた、それでも相手を威圧する声だった。しかしながら、女子達はそれを待ち構えたかのように整った行動を示した。
「出森さんが、いきなり家田さんにいちゃもんをつけ始めて…」
「パーンって叩いたんです。まるでシンデレラの叔母のように」
「ほんと、サイテー。大丈夫?家田さん」
そう言って叩いた張本人である高見は私の方に近づいてきてハンカチを取り出し口元をぬぐい始めた。
「余計なこと、口走んじゃねえぞ」
こんな脅しをかけながら、彼女は雑にハンカチを押し当てた。
「これは本当か?出森」
「いや…あ…あの…」
突き飛ばされた出森は、ひたすら頭にクエッションマークを浮かべていた。そりゃそうだ。さっきまで一緒に行動していた奴がいきなり裏切ったのだから、私だってあんな絶望的な顔をするだろう。何も反論できないまま、彼女は茫然としていた。
まったく、この世界の人達は狂っている。よくもわからない理由で誰かを責め立てて、それが露見すると誰かにその責任を押し付けるのだ。こうして、一番の悪は健在のまま世界が歪んでいくのだとしたら、なんて愚かで劣悪でどうしようもない人々の集まりなのだろう。しかし、舐めてもらったら困る。お前らがいるこの目の前にいるのは、まぎれもなくそう、公正かつ正義を振りかざす、お前らとは違う…
喉から出ようとした言葉を、トラウマが殺した。罵声、中傷、非難、暴虐、陵辱、リンチ、陰口、悪口、無視、軽視、黙殺。そんな心の底にとどめていた体験が、私を私でなくした。ぶり返してしまったのだ、何をどうしても止まらない蔑みと、誰一人として助けてくれなかった孤独感を。もうあれから3年になるのだろうか。まだ私には、それを乗り越えられないみたい…いや違うだろ。
私は宇宙人だ。アルフェラッツ星人だ。3年前はまだ、私はアルフェラッツ星で働いていただろう?そうだろう?そう決めたんだろう?ならば言えるはずだ。私は、この世界のルールで生きていないのだから。正されるべき人間を正す、それだけだ。正義は私にある。誰も私を責めない。なのに、それなのに、私の口は真一文字で全く動かなかった。
「ちょっと、こっちに来い出森!生徒指導室で話するぞ」
出森が連れていかれようとしていた。やばい、早く言わないと。言わない…と…
ー言えるわけないじゃん。私は普通の女の子なのにー
連れていかれる出森を見ながら、私はへたり込んでしまった。心が折れてしまった。もう耐えられなかった。宇宙人であることで、すべてのことを蓋になんてできなかった。だってそうだもん。私は地球人なんだ。こんな理不尽に立ち向かうこともしないで、のうのうと権力者にしっぽを振る愚かな地球人なんだ。嫌だ。嫌だ。認めたくない。私は宇宙人だ。宇宙人として生きていたいんだ。こんな星、征服して滅ぼしたいんだ。なのに、なんで、こんなにも私は弱いんだ。過去に囚われているんだ。自分を偽っているんだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!なんで私は、いつから私は、こんな風になってしまったんだ。
気づいたら走り出していた。気づいたら、涙が溢れていた。気づいたら、私は教室を飛び出していた。気づいたら…もう自分が何者か訳が分からなくなってしまった。
どこかの壁にもたれかかって泣きぐしゃっていた。もう私がどこにいるかさえ分からなかった。ただただ蹲って泣き続けていた。ずっと大切につけていたはずの包帯は、とっくに濡れてボロボロになっていた。
「その包帯、とったら世界が滅びるんじゃないの?」
声だけで、誰か判別できた。
「なんで…ここにいるの?」
「それはこっちのセリフだ。運動部のクラブハウスの壁で知り合いが泣いてたら、誰だって助けに来るだろ?」
汗のにおいが鼻についた。まさに部活中、といったところだった。
「…野球部、行ってきなよ」
私は顔を上げずにこういった。
「…わかった」
そう言ったくせに、汗のにおいはまだ鼻に残ったままだった。誰も一言も発しないまま、ただ鼻だけはその存在を強く警告していた。
「こういう時、君は何も話さないんだね」
優しいねという言葉を呑み込んだ。彼の優しさは、私にとってむしろ害になっていた。
「何で泣いてるのかもわからないし…ね」
そう言いながら、彼は私の隣にもたれかかった。
「話さなくていいよ。何か、嫌なことがあったことくらい誰だってわかるし、同じクラスだったから最近クラスの雰囲気が悪かったことも知ってる」
そして彼は一呼吸開けて、
「何もできなくて、ごめんね」
と私に謝った。なんて言えばいいかわからなかった。お得意のありがとうも、ごめんも、もう口から出てこなかった。
「…地球人のこと、嫌いになったんだ」
代わりに私は、こんな話を始めた。
「誰かのことを攻撃ばっかするし、しかもそれをこそこそとして、バレたらそのいじめていた人の中のさらに一番格下の人をしっぽ切りする。周りの人たちは、それがいけないことだってわかっているくせに誰も庇ってくれない。最低最悪の人種だよ。一刻も早く滅ぼしたい」
泣いた後の声だから、もうガラガラで、到底人に聞かせられるようなものじゃなかった。
「そう思ったんだ」
そしてその最低な人種に、私だって含まれてしまうのだ。
「そう、思ったのか」
否定をしない所に優しさを感じた。
「それはね、人間の真理だよ。一番上に権力者がいて、次にその取り巻きがいて、関係ない一般市民がいて、最底辺に権力者が虐げる層の人々がいる。権力者とその取り巻きがどれだけ非人道的で悪魔的所業をしたからと言って、市民は助けない。助けたら、その時点で自分が虐げられてしまうからだ。でも稀に、そんな状態はおかしいという人が出てきたりする。その時は取り巻きを処罰して、元凶である権力者はのうのうと生きたまま。それはこの世界で何度も何度も起きた事象だ。今更変わることのない人類永遠のルールだよ」
彼は諭すように言った。
「そう、だよね」
私もそれに同調した。
「でも、君にはそれを変えられると思うんだ」
そう言った時に、彼は少しだけ私との間合いを詰めた。そして私の頭に手を置くと、こう言った。
「だって君は、宇宙人だからさ」
私はその言葉で、更に膝を抱えた。一番聞きたくない言葉だった。それを察したのか、彼は間をおかなかった。
「そりゃ、このルールは強大で、絶対普遍の真理で、もしかしたら君もそのルールに雁字搦めにされてしまうかもしれない。それでも、大丈夫だよ。君は、誰よりも気高く誇らしい宇宙人なんだから。いつか、そのルールを変えられる。権力者が威張る世界を変えられる」
抱えた膝が、歩き出したいと言い始めた。
「この世界を征服できる」
涙も枯れて、暑い日差しの中蒸気へと消えていった。
「そう、僕は思うんだ」
頭を上げるよう、首が訴え始めた。
「そしてその世界征服が、僕が犠牲の上成り立つんだったらもう申し分ないね」
私はそうして、徐に顔を上げた。久しぶりに世界を両眼で見ると、とても曲がって滑稽に見えたのは、私が泣いて泣いて泣きまくって視界が歪んだからだろう。そして彼の顔を見ようとした時、いきなり右目の視界が白い某に閉ざされた。
「えっちょっと!何?」
「何?じゃなくて、世界が滅ぶんでしょ!」
そう言いながら彼は何か白くて柔らかいものを私の目に押し当て、それを吸着させ始めた。テープを一本一本丁寧に止めていく。縦の方を気持ち長くガーゼで覆ったのは、恐らく三年前の古傷を見つけたからだろう。
「ほら、これでOKでしょ?沢木に教えてもらった。あいつすぐ怪我するからこう言うのめっちゃ詳しいんだ」
そして彼は立ち上がった。
「ほら、行ってきなよ。これで少しは気が晴れた…かな?」
少しなんてもんじゃなかった。言葉じゃ力不足なほど元気づけられた。でも、それをどう表現すればいいかわからなくて、結局お得意のあの言葉を言って踵を返した。
「ありがとう、結城」
踵を返した私に、彼は何の声もかけなかった。そのまま練習に戻ったのだろう。私は振り向かなかった。じっと前だけ見据えて歩いていた。
学生にとって、学校とは世界と同義である。学生はその世界のルールに行動を規定されてしまっている。そんなことはもう、疑いようのない事実で、誰しもを責められない事象だ。ならば、宇宙人たる私がやるべきことは何だ?そう、簡単な話だ。
-この世界を、征服しに行こうー