31枚目
その日の夜、私は寝る直前何をしていたのか覚えていなかった。少なくとも布団に入った記憶はなかった。
そして次の日の朝である。私は固い固い骨のようなものを枕にして寝ていた。ぐるんと寝返りを打とうとしたら、筋肉のような壁にぶつかった。そこで私は目を覚ました。信じられないだろう。私が枕にしていたのは、結城の脚だったのだ。それは膝枕、と言うよりは太腿枕になっていて、結城の右太腿の側面に頭を置いて寝ていたのだ。おかげさまで首が痛かったが、そんなこと気にするよりも先に私は飛び上がった。一体どんなことがあったらこんな体勢で寝ることになるのか…
私は結城の寝方を見た。もしも彼と私の身長差がそんなになかったら、彼も私の脚に頭を置いていただろうが、そんなことは全くなく普通にソファに横たわって寝ていた。この状況証拠的に、寝ている結城の太腿に私が頭を置いたようにしか見えなかった。なんだそれ。クッソ恥ずかしいぞ。私は赤面して、その場から後ずさり始めた。
時計は午前6時を指していた。何時に寝たか覚えていないから、睡眠時間が十分かどうか判断できなかった。とにかくもう日も登っていたし、親に連絡を入れようかなあと思ったが、よくよく考えると男の誰かとホテルに行っているならまだかけてこられたら迷惑なのではないだろうか。そもそも激しい夜を過ごして寝たままなのではないだろうか。そんなことを思いながら、とりあえずと朝食を作りに台所へ向かったその時だった。
まず鳴ったのは結城の携帯だった。私はそれを無視した。さすがに他人の電話を取るわけにはいかない。しかも結城の携帯はリビングの机の上にあったから、結城も起きて電話を取るだろう。そう思っていた。しかし彼は起きなかった。私は簡単に用意したサラダをテーブルに置くと、彼の様子を見に行った。
すやすやとした、穏やかな寝顔だった。快眠というやつだろう。そりゃ、昨日3つ試験を受けて、慣れない勉強を数時間して、自分の滅多に話さないであろう過去を話して、そんだけしたら疲れるのもわけない。私はしばらく寝かせておこうと思った。その矢先だった。私の電話が鳴り響いたのだ。
「はいもしも…」
「あー杏里ちゃんっすねー!俺は沢木っす!近くに仁ちゃんいないっすかー?」
沢木?何の用だろう…
「居るけど、なに?」
「やっぱりっすかー今日野球部試合あるから、親居ないしモーニングコールよろしくって言ったくせに出やがらないんすよ。なんでもしかしたら家田さんが側にいるかなあと…ってか、本当に泊まったんすね?」
沢木は少しテンション高めに尋ねてきた。いや、彼はいつだってテンション高いが。
「そう…だけど」
「へええーそれはそれは熱い夜を…」
「結城起こせばいいんだね。要件それだけなら切るよ」
「あ、ちょ…わかりましたっす…お願いするっす」
沢木はたいそう不満なまま電話を切った。私はそれを聞いて再び結城の元へ近づいた。安らかな寝顔。こんな顔を崩すなんて、そんな鬼畜なことしたら自分の良心が痛んでしまう。それほどに穏やかな顔をしていた。それでも、私は起こさなければならない。
私は彼の肩を持ってゆっさゆさと揺らし始めた。彼はまるで丸太のような腕をしていた。写真見せられて「これは太腿です」と言われたら信じてしまうほどの身体だった。少しキュッとなった私は、それを誤魔化すために声を出した。
「結城!結城!」
私がそう言うと、まるでそれを言われるまで待とうとしていたかのように彼は飛び起きた。私は驚いて仰け反りながらも起こした経緯を説明した。
「試合、なんだよね?沢木くんから電話来て、起こして欲しいって」
結城は少し不機嫌そうな顔で携帯を見た。そして愕然としていた。
「後10分で家を出ないと…」
「へ?」
まだ時刻は6時20分だった。
「マジでそんな早いの?試合。ごめんね昨日夜中まで話し込んじゃって」
「いいよ家田。それより着替えて、おんなじ時間で出ようぜ」
「も、もちろん!もう朝になったし、親帰ってくるまでのんびり時間潰すよ。ありがとう」
「お、おうありがとう」
「お詫びにサラダ用意しといた!」
私はそう言ってテーブルを指し示したが、結城は反応しなかった。
「ごめん食べる時間ないかも!」
そう言って彼は部屋を出た。おそらく自分の部屋に行ったのだろう。私も洗面所に向かって昨日脱いだ服を着始めた。ブラジャーをつけるために上の服を全部脱ぐと、脇腹のあたりが少し赤くなっているのを発見した。なんかの跡だ。なんの跡かは分からなかったが、これが無理な体勢で2人寝ていた証かもしれないと思い、少しだけ気が上向いた。
「結城準備できた?」
「出来てないけど出来たことにする!」
「ジャージ洗面所に置いてていい?」
「いいよ!ありがとう」
「下着どうしよっか?」
「貰って!」
「え?それは…」
「いや俺使わないし」
「お母さんとか」
「要らないよ。多分入んないし。それより、そっちは準備できた?」
「できたよ!元々荷物あんまないし」
「んじゃ行こうか!」
そう言って2人揃って玄関を出た。そして私はもう一度お礼を言った。
「本当にありがとう、結城!試合頑張ってね」
急いでいた彼は手を上げてそれに答えた。そして私はこの家を後にした。
不思議な空間だった。あまり体験したことのない時間だった。それなのに嫌悪感は一切なく、もう一度味わいたいとすら思えた。結城仁智という男について、私はまだよくわかっていない。それでも、どこか私と似ているのではないかと思え、それは光栄なのか恥なのかと戸惑ってしまった。
それでも上機嫌に帰り道を歩き、マンションが見えたその時だった。
電話がなった。有田からだった。
「もしも…」
「おー家田?起きてるか?」
「起きてるわよ。そろそろマンション。何?話し相手でもしに来たの?」
「ちげーよ。結城から昨日の晩連絡入ったんだけど、そんとき疲れすぎてて寝ててさ。結局泊まったの?身の危険は感じなかった?」
「…切るぞ」
なんでこう、地球の男子はこの手の話が好きなのか。こういう話を毛嫌いしている私にとってそれは、不愉快極まりないものだった。
「やー冗談だよ。にしても、本当に泊まったのかよ」
「仕方ないじゃん、鍵なくて家は入れなかったんだし」
「その件なんだけど、大家さんに言ったらよかったんじゃないか?」
ん?大家さん…
「やー俺もマンションに住んでて、一回鍵落としたことあるんだけど、そん時は大家さんに言って学生証とか見せて確認取って貰ったら鍵開けてくれたよ。ほら、大家さんって万能のキー持ってるから。なんでそれしなかったの?」
あ…私は頭を抱えたくなった。テスト科目だけじゃない、鍵だけじゃない、私は大家さんの存在すらも忘れていたのだ。
「忘れてたか?」
「完全に失念してた」
「マジかー俺起きててそれ伝えてたらなんとかなったのに…」
私は顔から血が吹き出るんじゃないかと思うほど赤面した。目の前に見えたマンションが、攻略不能な要塞から村人の家までランクダウンされた瞬間だった。
「…今から聞いてくる」
「おおう、お疲れ様」
そう言って有田は電話を切った。私は、私に向かってこう叫んだ。
ー昨日の私の苦労を、返せええええええええー
そう心の中で叫んでから、マンションに入り大家さんに連絡した。部屋はすぐ開いた。私は絶望的な徒労感に苛まれながら、着替えもせずにベットに飛び込んだのだった。