28枚目
ある種の奇跡が、そこには折り重なっていた。
1つ目の奇跡は、最近ほとんどしていなかった鍵の忘れ物である。不愉快ながらドジな人と評される私であるが、この手の忘れ物に関しては枚挙にいとまがなかった。他人のカバンに入っていたり、胸にポケットがないのに胸ポケットに入れようとしてみて落としたり、そんなイリュージョンのような離れ業を何回もしてきた。しかし、今回は違う。勉強会用にカバンを一回り大きいやつにしたから、前のカバンに入れていた鍵を抜き取り忘れたのだ。しかも、そこにキャッシュカードも一緒に入れてしまっていたから、私は今マンション内部に入るためのカードキーと少額のお金しかもっていなかった。
2つ目の奇跡は、母が連絡を入れてはいけないと指定したことである。母が連絡をするなといったということは、それは絶対に守らなければならない。私は昔財布を落としてしまって家に帰れなくなったことがあるのだが、その時もまた連絡してはいけない日だったが、母に電話をかけたらものすごい剣幕で怒られてしまった。高校生なんだから自分で何とかしなさいとのことだが、多分大人でもヘルプを求める人は多いのではないだろうか。そんなわけで、現状家の中に入れない大ピンチなのだが、母に連絡を取るという手段はない。そしてこうなった母は、朝まで帰ってこないのが確定している。下手すると朝に帰ってくるかすら怪しい。
そして3つ目の奇跡は…現状助けを呼べる人材が結城以外いなかったことである。遠垣はバイト、有田は電車に乗ってるから無理だし、そもそも2人は電車通学である。ならばと他の人を探したが、クラスで電話番号を知っていたのは、前ボーリングでかけてきていた阿部と、結城だけだった。しかも阿部はデート中である。これはだめだ。現状私を助けてくれるとしたら、結城しかいなかったのだ。
私は祈るような思いで電話を掛けた。3コールが過ぎて、結城が電話に出た。
「はいもしも…」
「ごめん、家入れなくなった。助けて」
私はごくごく簡潔に現在の状況を伝えた。
「はーそれは大変だね」
再び結城の家に来た私から詳しい事情を聞き、結城は能天気な返事をした。
「笑い事じゃないんだよ」
「いや笑ってねーけど…にしてもどうする?流石に今日どっか泊まらなきゃだめだろ?祖父母とか親戚とかは?」
「は?}
私はあまりにも冷たいは?を繰り出してしまった。そして直後にフォローを入れた。
「私はアルフェラッツ星人よ。今の家は仮住まいなんだから、仮住まいの家主の祖父母とか親戚とかって面識がないのよ」
「そうなんだ。案外こっち来てから日が経ってないんだね。正月とかに集まったりしなかったの?親戚全員一同集結!みたいなの」
「いや、そんなものはなかったな」
「そうか…んじゃあ、誰かの家に泊めてもらうしかなくない?」
結城がそう言うと、私達は数秒黙り込んでしまった。考えてみたら、誰かの家に泊めてもらう誰かの選択肢が狭すぎたのだ。
「まあしばらくここでのんびりしてなよ。クラスの女子適当に電話かけてみるわ」
「電話番号解るの?」
「LINEでできるじゃん」
そういやクラスLINEまだ入ってないな。また結城に教えてもらわないと…
「や、さすがに悪いかな…ここ来てるだけでもちょっと申し訳ないし…」
「別にいいよ」
結城はバタバタと手を振った。だだっ広い家なのに、私たち2人以外に人がいる気配がしなかった。そして彼は、私が悪いと言っているにもかかわらず、電話をかけ始めていた。
「阿部ちゃん?うん…ちょっと非常事態でさ」
阿部ちゃんって、今沢木とデートしてるんじゃなかったか…?そう思った矢先、彼はとんでもない発言をし始めた。
「忙しいって、どうせやってるだけだろ?あれ」
結城はこの文章をさも当然のように言っていた。
「いいじゃねえか。確かに激しいけどさ。大したことないって。電話しながらでも出来んじゃん」
激しい…電話しながら…いったい何を言っているのだ。
「まあ今発情期なのは認めるけど、そんなお年頃だもんな」
発情期⁉
「要件?いや、家田泊まりに行かせたいんだけど…あいつがいるから無理?いいじゃん家田も混ぜたら」
私も混ざる?なんてことを言い出しているんだ結城は…!
「まあ慣れてない人がいるのもな…ああそれは無理か…んじゃあな」
結城は電話を切ってこっちを見てきた。
「なんだ家田。まるで汚物を見るかのような目をしているぞ。不快だからやめてくれ」
「あんたが…あんたがそんな人間だとは思わなかったわ」
「は?何の話だよ」
「何の話って…その…何…ふ、2人の大事な時間を邪魔しちゃだめだよ。しかも、私も混ざれとか…何それあんたそんな趣味…」
「なんだ?イグアナの世話位でギャーギャーうるせえよ。それともあれか?女の子はそう言う生き物なのか?」
イグ…アナ…?私の予想より斜め上を突き進んでいたため、私は赤面してしまった。つい数十秒前の私の妄想を、早くかき消したいと思った。
「他の人に言うんじゃねえぞ。あいつら、ペット禁止のマンションでイグアナ飼ってるからな」
結城は続いてこんなことを言っていたが、ほとんど頭に入ってなかった。かーっとなっていく私を見て、結城はぽつりとつぶやいた。
「案外、宇宙人も俗っぽいのな」
私は返す言葉もなくへたり込んだ。こいつ…私の国を馬鹿にしやがったな。性犯罪者数年間一桁を5年以上キープしている私たちの星を…許せんが、全面的に私が悪かったので何の口答えもできなかった。
「次はだれにする?姫路さんとか?」
「…や、もう自分で電話するわ。ありがとう」
「そんなに顔真っ赤なのに?」
「な…!それは関係ないでしょ!ほらスマホ貸して」
そう言って私は手を差し出した。結城は首を傾げながら姫路に電話をかけ、それから私にスマホを手渡してきた。
「あーもしもし」
「!?!?!?!?!?!?」
電話越しにも動揺しているのが見てとれた。
「あのー家田です。姫路さん」
「家田さん!!!!!!!!!!!」
電話越しにも姫路の動揺が悪化しているのがわかった。やたら重いものが次々と地面に落ちていく音がした。
「どうしたんですか家田さん!?!?何で結城君の電話から…はっ!」
「や、これはね…」
「そうですか…そういうことでしたか…私はとんだ勘違いをしていました。まさか、有田君ではなくそっちだったのですか…私は、私は、なんて謝れば…」
「落ち着いて!そんなんじゃないから?」
私が焦ってなだめている時に、結城は目の前で疑問を持った顔をしていた。それを一瞬睨みつけてから、私は落ち着いた声で話し始めた。
「ちょっと鍵忘れちゃって家には入れないんだよ。しかも親が今日帰ってこなくて…」
「そ、そうでしたか…残念ながら私の家はダメですね。あ、ちょっと!今電話しているから…」
急に誰かが部屋に入ってきたのか、いきなり音が遠くなった。微かになった音の中で、唯一しっかり聞こえてきたのは、これまで聞いたこともないほどの図太い声だった。
「たるんどる!飯の前に、道場へ行くぞ!纏菜」
この声を境に、携帯から音が聞こえなくなった。そういや姫路さん、確か剣道部だったな。私は何かを察した顔をして、電話を切った。
「ダメっぽい?」
「ダメっぽい」
私は肩を落とした。
「あとは遠垣さんだけか」
「あの子は今バイトしてるから、しばらくしてからね。そういや、親御さんはどこ?いつ帰ってくるの?」
「え?」
結城は明らかに動揺した声を発した。
「いや、え?じゃなくて、こんな感じに転がり込んでるんだから挨拶くらい必要でしょ?で?いつ帰ってくるの?」
私のこの質問に、結城は苦虫と甘味を両方味わったかのような顔をしながら答えた。
「悪いけど、今日は親が帰ってこない日なんだ」
私は目をまん丸にした。これが、第4の奇跡だった。よりにもよって、私の親が帰ってこない日と、結城の親が帰ってこない日が一緒になってしまったのだ。私と結城は、お互い固まって何のアクションも起こせなかった。ただただ広い結城の家の存在感が、私の背中にまとわりついて仕方なかった。