27枚目
「有田、どういうことなの?」
話は3時間目終了後にまで遡る。私は有田に突っかかっていた。
「や、だってお前1人に俺ら2人は教えれねーだろ。今日は科目も増えるし、2人とも苦手な数学があるんだぞ。助っ人が必要だろう?」
そう言いながら彼は姫路を手招いた。姫路は私の方を睨んでいた。いやそりゃそうだ。一方的に言い合いになったのは一昨日だぞ。親の仇みたいな扱いを受けたやつと2日で仲良く勉強会など出来るわけもなかった。
「も、もっと別のやつにしない?ほら、阿部さんとか…」
「阿部は今日沢木とデートだ」
結城は何気に爆弾発言をした。少し教室がざわっとした。これは、来週の月曜日クラスが荒れるかもしれない。
「んじゃほら…遠坂君とか!」
「すでに誘ったが全力で断られた」
「古村さん!」
「いやあのマドンナは色々忙しそうだったから誘えねーわ」
「亀成君は?」
「あいつは眼鏡かけてるだけでそんなに賢くないぞ。俺らほどではないが…」
…え?やばい、他に賢そうな人いたっけ…そんなことを考えていたら、有田が小声で囁いた。
「ほら、最近お前と姫路なんか険悪そうだったじゃん」
「だから仲良くしてほしいと?」
有田は大きく頷いた。たぶん彼はとても性格が良くてお節介なのだろう。そしてなまじコミュニケーション能力があるから、そういう仲良くする場を設ける能力もあるのだろう。しかし…私は思う。悉く迷惑なのだと。そんなものはいらないから、もう争いの火種となるものを私に振りかけて欲しくなかった。
「つーわけで姫路誘ったら二つ返事で了解したから、今日はこの4人で勉強会だー」
有田と結城は握りこぶしを高々と掲げたが、私と姫路はお互いを見合って硬直していた。
「何ですか?纏菜がいると都合が悪いとか言い出す気ですか?」
姫路はそんな言いがかりをつけてきた。前の盛り上がっている2人には聞こえない程度の声量だった。
「むしろ帰りたいんだけど…ってかあんたは二つ返事で了解してんのよ。前は勉強会なんてしてうつつ抜かしとけとか何とか言ってたくせに」
「な…!あれは…その…」
姫路はしどろもどろになっていった。顔を赤くし、少し視線を逸らした。
「仕方ないじゃん。有田くんの頼みなんだよ」
このとき私は察してしまった。そして絶望してしまった。ぽわーと有田の背中を見つめる姿は、まさに恋慕のそれだった。ことあるごとに突っ込んできて迷惑をかける女と同一人物とは到底思えなかった。
ほんと、うちのクラスには有田ファンが何人いるのだ。そんなことを思いながら、私は前の2人に聞こえそうなほど大きな溜息をついた。
ひたすら愚痴っていた私だったが、いざ勉強会を始めようかと思った時、とんだ妙案を思いついた。これなら、波風が立たないのではないか?
「もうさ、担当決めない?姫路さん」
私は唐突にそんな提案をした。他の3人がぼーと私を見ていた。恐らく意図を図りかねたのだろう。
「このバカ達2人いっぺんに対応するの疲れるからさ、マンツーマンで教えようよ。お互い得意科目とか苦手科目とかあるかもだけど、わかんない時は私らでフォローする感じで」
ここまで言って、まず意図を把握したのは結城だった。
「確かに、その方がしっかり教えれるかもね。んじゃ、俺は家田さんに教えてもらおうかな?」
よっしゃよくやったあ結城!!やっぱ空気読める奴はいいなあ。そうだ。こいつはちょっとおかしな性癖を持っているだけで、それ以外は普通の人間なのだ。むしろ普通より優秀に思えた。
「んじゃ、有田は姫路さん、よろしくね」
私は首をカクンと横に傾けた。やり慣れていなかったから胃の下あたりが気持ち悪くなった。姫路の顔がみるみるうちに赤くなっていくのがわかった。私は心の中で頑張れ!と声をかけて、結城の隣を陣取った。その反対側には、姫路と有田が隣同士座っていた。
「んじゃよろしくね、姫路さん」
有田は屈託無い笑顔を見せた。姫路はまるで借りてきた猫のように大人しくなっていた。にしてもこんなあからさまに好意を寄せてるとわかるのに、気づかないものなのだなあ。地球の男がそんなものなのか、それとも有田が特別なのか、もっと調査が必要だと思った。
「んじゃ、家田さん山月記の話…」
「現代文は最終日だからまだ大丈夫だよな。月曜日は数Bとライティングだよな」
私はにっこり威圧した。結城はそれでも現代文の教科書を机の上に置いていたが、私は笑顔を絶やさず片付けさせた。対面ではガチガチの姫路が、ペンを震わせながら有田に基礎的なことを教えていた。
こうして数時間が経過した。
「俺もう、人生で1番数学と向き合った気がする」
結城はフラフラになりながらそんなことを呟いた。全く大げさな奴だ。
「ごめんね姫路さん。基本的なこと全然分かってなくて」
有田はそう言って手を合わせた。おいおいそれは片思い相手にやることじゃないだろ。
「いえ!全然!大丈夫!です…」
姫路は動揺を全く隠しきれてなかった。声完全に裏返ってるぞ…
「んじゃ、そろそろ帰りますか」
そう言って、その日は解散になった。電車通学の有田は先に私達と別れ、少しだけ私は姫路と2人で話した。
「ありがとうございました!家田さん」
姫路は嬉しそうだった。まあそりゃそうだわな。
「良かったね。勉強進んだ?」
「はい!とても進みました。誘ってくださってありがとうございました!」
「はは、誘ったのは有田だけどね」
私はそう言って、少しだけ視線を上向かせた。まだ隣を見ながら歩く勇気はなかった。しばしの沈黙。それは有田と会った頃のように簡単に耐えられるものではなくなっていた。
「家田さん、この前は…すみませんでした」
唐突だった。本当に唐突だった。いきなり謝りだした姫路を見ようと、私は視点を月から姫路へとシフトチェンジした。
「いきなり大きな声であんなことを言って…怒ってるだろうなって…いつどうやって謝ればいいかなって思ううちに数日経ってて…」
姫路は一言一言、言葉を丁寧に紡いでいた。
「本当にごめんなさい!」
そして頭を地面に着かんとするほど下げた。
「や、大丈夫だよ。怒ってないから」
「本当…ですか?」
「本当だよ。ちょっとびっくりしちゃったけどね」
私は少し照れながらはにかんだ。こんな風に、全力で謝られたことなんて人生で一度もなかったから、変に照れ臭かった。
姫路は私の顔をじっと見て、そしてこんな言葉をかけてきた。
「謝った後にこんなこと言うのもダメかもしれないですけど、なんか…めっちゃ大人っぽいですよね、家田さん」
「へ?」
この見た目でそんなことを言われるとは…姫路は続けた。
「周りも見えてるし、気も使えるし、怒らないし…本当に、私達と違う世界に生きてるみたいですね…」
そう言うと、姫路はふあああと言って顔を押さえ始めた。
「すみませんなんかうまく言えなくて…それじゃ私こっちなので!!失礼します!!また来週会いましょう!!」
そう言って姫路は元来た道を戻り始めた。私は動揺して手を振ることしかできなかった。そして噛み締めた。姫路の、私への率直な印象。ここで、当然だ!よりも、そっかあと言う感想が出てくるようになってしまったのが、多分自分が弱くなった証拠だなと思った。生きてる世界が違う、かあ。それはどこまでも純粋な言葉だったが、極上の皮肉に仕上がっていた。だからって姫路を責めたりしない。彼女は悪くない。誰も悪くない。そう思わないと、耐えられない現実がそこにはあったのだ。
考え事をしながら、マンションに着いた。カードキーを通して、中に入った。そしてポケットに手を突っ込み、鍵をまさぐった。鍵を探した。鍵を…
ん?ちょっと待って…今年最大級の嫌な予感がした。私はあらゆる場所のポケットを探した。それでもなかった。セーラーの胸ポケットも探した。無論なかった。次に私はカバンをひっくり返した。それでもなかった。ついには筆箱を開け始めた。あったのは鍵型のキーホルダーのみだった。そして、今日はよりにもよって母に連絡してはいけない日だ。
耐えられない現実は、思っていたよりも目に見える形で存在していたのだった。