26枚目
「ねえ、ちょっと杏里」
次の日の朝、珍しく母に呼び止められた。私は気怠げな表情をしつつしっかりと母の方に振り向いた。
「今日は私、家に帰ってこないから。だから連絡とかしてこないでよ。お願いだから」
お、珍しいパターンだな。前も話したが、母は大方黙って帰って来るか、黙って帰って来ないかの二択であり、事前に知らせる時は帰って来るから言うことが多い。こんな風に事前に帰らないことを知らせるなんて親切なこと普段はしない。よっぽど連絡してきて欲しくない何かがあるのだろう。もしかして未婚を偽って男遊びにでも興じるのだろうか?全くひどい話だ。
「わかった」
私は素っ気なくそう言うと、そそくさと家を出た。今日からテストなんだぞ。もっとかける言葉あるだろ?私はそんな言葉や感情を押し殺しながら、自転車を目一杯漕いだ。
その日のテストは、そこそこ取れた気がする。勉強会の成果が出たのかと言われたら、甚だ疑問が残るが…それでも、特に生物は結城に重点的に教えたところが出たので、サクサク解くことができた。そんなものだろうか。まあ少なくとも他の2人は成果が出たみたいだ。
「やべーよ結城!俺答案の8割くらい埋めれた!高校入って初めてだわ」
「ふふ、甘いな有田!」
「ん?」
「俺は、すべて埋めた」
「マジで!?お前マジ天才じゃねえ?」
「ああ、俺自身が1番驚いているぜ。まさか自分にこんな才能が隠れていたなんてな」
「あんたら…テストは答案埋めたら勝ちってゲームじゃないからね」
私は呆れた顔で2人の会話に入っていった。
「おお、現人神だ」
「ありがたやありがたや。念仏唱えな」
結城、よく現人神なんて言葉知ってたな違うけどな。そして有田それは仏教な。せめて神社の作法とか言って欲しかったな私は神でも仏でもないけど。
「とにかく、いつもよりできたんなら教えがいもあったよ」
「今日もよろしくお願いします」
有田が深々と頭を下げた。
「その前に3限あるだろ」
ん…3限…
「あーあったな。保健体育」
あ…私は完全に失念していた。今日はリーディングと生物のことしか頭になかったが、3限に保健体育があったではないか。やばい。いくら授業真剣に受けているからって、直前に何も確認しなければ点数はだだ下がりだ。
「結城君お願いがあるんだけど…」
「ん?」
結城と有田がこっちを見る。
「保健体育の教科書、見せてくれない?」
なかなかに屈辱的だなこれ。
「ん?なんて」
結城は耳に手を当て、少し小馬鹿にしたような顔でこっちを見てきた。明らかに聞こえていないふりをしてきていた。
「保健体育の教科書忘れちゃったから今の時間に見せてくれないか?」
「んー聞こえないなあ。もっと誠意のこもった頼み方だったら聞こえてくるかも…」
「もう一生勉強教えないぞ」
「すみませんでした。一緒に見ましょう」
私は誠意のかけらも見せずに教科書を見ることに成功した。
「お前ら…本当に仲良いのな」
「仲良くないよ」
「仲良いよ」
2人同時に反応したのに、2人で意見が割れてしまった。
「家田は素直じゃないからな」
「な…そんなわけじゃないし。結城が嘘ついてるだけだし」
「俺は生まれてこのかた嘘などついたことがない」
さっき聞こえないふりしてたじゃねーか。
「いやいや、男女2人で保健体育の教科書見合うとか、相当仲良くないと無理じゃね?」
私は有田の真意が汲み取れず、非常に真っ当な質問をした。
「何でそうなるの?そんなに同じ教科書2人で見るのってそんなにおかしい?」
「いや、おかしくないけど、保健体育の教科書だからなあ」
「??保健体育の教科書だと何でそうなるの?」
有田は少し困った顔をし始めていた。
「やーまあね。色々書かれてるじゃん」
「色々って?」
保健体育って、環境のこととか体育の有用性とか人の生まれる仕組みとかが主な勉強課題だが、それのどこに男女仲良くしなきゃいけない要素があるのか。私には分からなかった。
「まあいいや、俺も見せてよ。忘れたから」
「なんだお前も忘れたのかよ」
結城は呆れた顔で有田を見た。いーなあ男子は有田のこと公衆の面前でもお前とか言えて。
「後3分くらいだしぱっぱと見よう」
わたしがそう言って真ん中に立ち、教科書を手にとってパラパラと眺めていくと、それにつられて他の2人も覗き込んで来た。まるで私が教科書を持って来たみたいになっていた。にしても、テスト科目を1つ忘れていたのはどじの領域を超えた何かである。猛省が必要だ。おかげさまで殆ど見直しができずに問題を解く羽目となった。
勉強が不十分な科目ほど、解いている時にブラストレーションが溜まる。当然のことだが、自業自得だが、何処と無く誰かのせいにしたい気分だった。でもそんな気持ちを押し殺し、反省を促した。
しかし後に、今日忘れていたのはテスト科目だけでは無いことが発覚するのだが、それはほんの先のお話である。
初日のテストが終わったら、私達4人は結城の家で第2次勉強会を開催することにした。
「へー、結城の家広いなあ」
有田が興味津々な顔で結城の家を見ていた。
「お前の家お金持ちなんじゃね?」
「いや気のせいだよ」
「部屋何個あるん?自分家とは大違いだわ、なあ?」
なあ?と話を振ってきたが私は首を振って目を合わせなかった。
「え?ここ何の部屋?」
めげずに有田は結城に尋ねていた。
「そこは昔は育児ヘルパーさんの部屋だったけど、もう雇って無いから母親の趣味の部屋になってる」
「趣味の部屋!!んなもんねーよ普通、なあ?」
有田は別の方向を向いてなあと言ったが、反応は乏しかった。
「なあ、2人とも何でそんな怒って…」
「別に怒ってないわよ、でも…」
ここで2人、なぜか息を揃えてこう言った。
「「なんでこいつがいるの?」」
そう言って私は、なぜか今日緊急参戦した姫路の姿を見た。向こうはまるでなわばりを荒らす相手を牽制するかのような凄い形相で睨んできていたが、私はどちらかというと蛇に睨まれた蛙のような怯えた目で見ていた。