20枚目
話は急に次の日に飛ぶ。私はとても憂鬱だった。気落ちし過ぎてこのままベットに沈んでしまうかと思った。強いて幸いだったのは、次の日が土曜日であったことだろう。もしも学校があって、クラスメイトと顔を合わせないといけないと考えると…これぞ、不幸中の幸いというやつだろう。
目を覚ました時の周りの雰囲気を察すると、どうやら私は救急車で病院に運ばれたみたいだった。まあ転んで4キロあるボールに側頭部をぶつけて気を失ったのだから、ごくごく真っ当な判断だった。その時いたクラスメイトには感謝しかない。そしてそれ以上に、楽しそうな雰囲気をぶち壊してしまった責任が重くのしかかった。
まだ頭はグラングランとしている気がした。少しタンコブのように晴れていた傷跡は、徐々にその負荷をかけてきている気がした。
右手には点滴、頭には包帯。しかも普段から巻いている包帯の上から巻かれていて、なんという配慮だと感心してしまった。
「あ、家田さん起きましたか?」
看護師さんがまるで私が起きたのを見計らったように部屋に入ってきた。台車をガラガラと引いていて、そこには味付けが薄いと噂の病院食が置かれていた。
「朝ごはん置いておきますね…昨日からどうですか?まだ頭痛いですか?」
「少し…だけです…」
私は少しだけ強がった。
「あの、私いつ頃に退院できますかね?」
「すぐだと思いますよ。今日のCTで異常が無ければ退院の手続きになると思います」
この話を聞く限り、比較的軽傷なのだろう。地球人にとって頭は弱点だ。転んだだけで脳や頭蓋骨に影響を与えてしまうなんて言われるほどだ。だから私も念のため入院していたのだろう。
「そういえは…お母さんについて何か聞いてますか?」
看護師の問いかけに、私は自重しながら首を横に振った。
「そうですか…出来ればお母さんにも説明したかったのですが…昨日夜に仕事に出かけられてから帰ってこなくて…連絡などないですか?」
はいダウト!あんた仕事してねえだろ。主婦しない専業主婦だろ?いくら仮宿の住民だとしても一緒に暮らす人間に最低限の心配すらできないのか。本当に、こんな親の元で高校生まで育てられた人は可哀想だなあと思った。大泣きしたいくらい、そう思った。いや、実の娘ならもっと心配するのだろうか。そんなことを妄想するのも、余計辛くなって泣きそうになってしまった。
「それでは、また検査の時にお呼びします」
そう言って看護師さんは出て行った。まるで私の心情を把握したかのように、私を1人にした。私は、目一杯泣くことにした。こんな時、母親が、父親がいたらどれだけ良かっただろう。そんな意味のない妄想をして涙が止まらなくなってしまった。
結局再検査したものの、特に異常は見られなかったらしい。私は腫らした目を擦りながら説明を聞いていた。難しいことはわからなかったが、とりあえず退院らしい。
ふとここで重大なことに気づいた。私の手持ちのお金である。私の財布の中身は2000円と数百円。治療費と入院費を払える金額とは到底思えなかった。なんて母だ。見舞いどころか金すら渡さないのか…読者の方々も、私がここまで彼女を貶す理由もなんとなく理解できただろう。
精算窓口にお進みくださいと言われても、足取りは重かった。そりゃそうだ。退院するための金が無いんだから。そんなことを思いながら精算窓口に到着すると、そこの椅子に見覚えのある顔がいた。くしゃっとこっちに笑いかける姿は、完全に爽やか高校球児のそれで、しかしその裏の顔を知る私は純粋に受け止められず狼狽した。なんで彼が、ここにいるのだろう?
私は整理券を取ると、迷わず彼の隣を座った。
「結城、何しにきたの?練習は?」
「サボった」
「またサボり?あんたあんな厳しい部活でよくそんなことできるね」
「お金渡さなきゃダメだったから」
そう言って結城は福沢諭吉を20枚手渡した。私はこれまで生きてきて見たことのないほどの大金を持って動揺してしまった。
「な…なにこれ…」
「お前のお母さんが渡してきた」
あのクソ野郎。私は心の中で暴言を吐いた。母は、本当に私のことが嫌いだ。もし少しでも良心が残っているなら、せめて大怪我して入院した時くらい支えてくれるだろう。しかし、母がしたことは同級生に20万を渡すだけだった。これがもしやましい気持ちのある人間だったら、私の方にお金がこない可能性だってあったのに…
「これ、治療費だって。ほら、練習出るわけにはいかないだろ?」
結城が腐った人間じゃなくて良かった。私はその一点で、ただただ安堵していた。
「それで今まで待ってたの?」
「昨日一度帰ったぞ」
「そりゃそうでしょ。そうじゃなくて、朝からずっと待ってたの?」
「早くて朝退院って聞いてたからな」
結城は少し眠たい目を擦った。
「退院おめでとう」
結城は手を差し出した。
「ありがとう」
私はその手を自然に握った。
「…痛く、ないか?」
どこが?なんて訊かなかった。
「…痛くないよ。大丈夫」
本当は涙の跡があったのに、隠すように呟いた。心から叫びたいほど辛く痛かった私を、留まらせてくれたのは間違いなく、目の前の少年だった。
「昨日はごめんな」
「え?なにが?」
「や、無理やりボーリングに誘った挙句、あんなことになって…」
無理やり誘った自覚はあったのか。私は彼の優しさを直視しないように、心の中でそう茶化した。
「や、大丈夫だよ。楽しかったし」
「本当?」
「こちらこそ、楽しいクラス会を台無しにしてしまってごめんな」
「や、大丈夫だよ」
2人でぎこちなく会話をした後、ポーンという音がした。私の精算の番だった。
「ボーリング楽しかったけど、ちょっと参加者が多かったかな…次は、数人くらいの規模で行こう!」
私はそう言って結城の爽やかスマイルを真似てみた。結城は少し顔を赤くして、おう!とつぶやいていた。そうして、まるで申し合わせたかのように私達はともに踵を返した。私は精算窓口へ、彼は野球部の練習へと戻っていった。一歩一歩進むごとに痛みが波を打って押し寄せて来る気がした。しかし、それさえも、私には許容できた。右手に握られた20万円が、なにも持っていない左手よりも軽く思えた。
その後、有田や遠垣や阿部や沢木など、様々な人間から心配の連絡が入り、私のスマートフォンが過労で死にそうになったことも、付け足しておこう。