141枚目
その日から私は、車が嫌いになった。あんな危険なものを、間違いばかり起こす人間が運転するなんてありえないと。行き先を入力したら、機械が自動で連れて行ってくれたらいいのに。どこでもドアはいつになったら開発されるんだろう。もしもそれがあったなら、母も、行人も、元気に遠征していただろうに。もしかしたら、来年2月の冬季オリンピックの主役が、私の弟だったかもしれないのに。あ、まだその時は14だから、出場できないのか。そっか…それじゃあ次だな…次……
2014年6月3日未明、スケートボードの試合を終えて東北から深夜バスに乗っていた2人は、自動車事故でそのまま帰らぬ人になった。居眠りをしていた大型のトラックがバスに突っ込み、そのまま側道に落ちてしまったらしい。ハンドルを急に切られ、横からぶつかった衝撃に耐えられなかったらしい。その日深夜バスに乗っていた人間は少なかったが、運転手含め全員が亡くなったという。
私は驚くほど冷静だった。警察官に向けて泣き言一つ言わなかった。すぐさまテヘランに居た父親に連絡した。父は言葉を詰まらせて居た。何を話せばいいのかわからなくて、私も黙ったままだった。そのまま暫く時間が経った記憶がある。
大きな事故だ。色んな人から可哀想にと言われた。なにわ星蘭では、学校の先生くらいしか言ってくれなかったけれど、それでも、けいちゃんとかすみれちゃんはすぐさま電話をしてくれた。それでも私は、多分この頃から、今自分に起こっていることを現実であると認識できなくなってきていたのだろう。まるでそれは、夢の中のような。目を覚ましたら母も弟もいるんだろうなって思うような、変な浮遊感で包まれていた。だから電話での対応もぼんやりしていた。自分ごとに思えなかった。自分ごとに思ってしまったら、頭が張り裂けてしまうほどの苦痛が襲ってくるからだ。
いくら多忙な父親でも、妻帯者と息子が死んだとなれば長期の休暇をもらえるらしい。そこから少しだけ、私と父の2人で過ごした。これが幸だったのか不幸だったのか、後になって考えることになった。
そんな激動な頃でも、いじめは止まるどころかエスカレートしていった。そりゃそうだよ。いじめている側からしたら他人の親が死のうがどうでもいいもん。特に中学生の精神構造なんて、中学生で狂って腐った奴の精神構造なんてそんなもんだよ。人前で怒鳴られることも増えたし、家に帰る時にもひどいこと言われたし、誰に話しかけても無視されたし…ひどい話だ。そしてどんどんと学校のことを話していかなくなる私を、父親は気づかなかった。彼には年頃の娘と共に生活した経験がない。過干渉を嫌うというテレビで見た知識のみで接していたら、自然と介入してこなかったのだ。不幸といえば、不幸だったのだろう。
そして、エスカレートしていたいじめがある飽和点を迎えた。その日、流石に彼女の言動に不穏なところを感じたのだろう。今野が宮崎咲子を窘めたのだ。その頃もう彼は転出の手続きを進めていたことを、後で知った。もう勉強ではなく陸上で生きていくとのことだったらしい。
そして彼女は、宮崎咲子は、あろうことか私に対してその愚痴をぶつけ始めたのだ。
「あんたでしょ?今野君に色々吹き込んだの」
その日は私1人で理科室の掃除をしていた。本当はもう1人いたのだが、宮崎咲子が変わってあげたらしい。その結果がこれである。その頃になるともう、私はハイとしか答えなくなっていた。
「ほんとムカつく!!何?『暴力的な言葉使うなよ』とか『最近家田に何してんだ!?』とかさ。あんたはいいわよね!!そこら辺のグズで!!間抜けで!!どうしようもないゴミで!!それなのに心配されちゃってさあ??」
八つ当たりだ。誰がどっからどう見ても八つ当たりだ。でも、暴力を振るう理由なら、なんだっていいのだろう。
「なんかいえよこら!おい??」
彼女はそう言って箒の履く部分で私を叩いた。痛みはないが気持ち悪い。私は何発か殴られた後へたり込んだ。それでも彼女の暴力は止まらない。
「いや……痛い……痛い……」
頭を抱えて沈み込む私に対して、彼女は胸ぐらを掴んで持ち上げて来た。軽かった私はすぐに持ち上がった。そして薬品の棚にめがけて私を突き飛ばした。
強度耐性のあるガラス面にばああんとぶつかって、背中の肉が食い込んだ所を、彼女は追い討ちをかけた。結果的にこれが、更なる悲劇を呼ぶと知らずに。
意図せずガラス板にもたれかかる格好になった私を、彼女は私の首を持ち、グッと更に押し込んだのだ。背中にガラス板の取っ手が食い込んできた。メキメキ、メキメキと音がした。
「やめて!!!痛い!!!痛いから!!」
そんな叫びなんて聞くはずもなく、更に力を込めてきた。すると……
ぱあああああああんんん……
ガラス板が割れた。そのまま私は薬品棚に突っ込んだ。塩酸だかアンモニアだかわからない、危険物無害薬品入り乱れた色んな液体が頭からぶっかけられた。背中は完全に切れてしまい、血がダラダラと流れ、そこに先の液体が流れまるで焼き切れるかのように熱かった。身体のどこら彼処が痛んでいる中、割れたガラス破片の一部が目に入った。痛い!!!痛い!!!私はまずそれを対処しようと思った。すると……
目の下側を深く切られた。
切ったのは偶然ではない、目の前の彼女がやったのだ。
あまつさえ、物を壊し大きな音を立て、色んなものをひっくり返してもまだ、私を傷つけようとしてきたのだ。
切った下瞼からも血が出てきた。最早左目はどうなっているのかわからなかった。私はまたその場でへたり込んだ。そして今度はさすがに、周りの人に言い訳ができるものではなかった。
「おーい咲子!ここに居るん…おい!これどうなってんだよ!!」
駆けつけてきたのは今野だった。その場で彼は先生を呼びに行った。そこからの記憶は、もうない。ただ、泣き続けた記憶はある。延々と、永遠を感じるほど。どこが痛くて、どこが辛いのかわからないまま、私はひたすらに泣き続けたのであった。




