136枚目
帰って来る途中で母と偶然会った。ちょうど駅に着いた時に、彼女も居たのだ。
「あ…………」
もう遠垣も有田も解散していたから、私も1人だった。知らない人のふりをするわけにもいかず、動揺している母の近くに歩いて行った。
「今日は早いんだね」
母親は視線を逸らしつつ答えた。
「最近は早めに帰ってきているでしょ?」
そうだったかな?あまり記憶になかった。
「これからどうするの?」
「スーパーに寄って行くつもり。今日の晩ご飯は何がいい?」
まるで私の方が母親みたいだ。
「……ハンバーグ」
「そう」
子供みたいだねと冗談を言おうとした瞬間だった。
「作り方教えてくれない?」
それは、これまでの彼女からは想像もできない言葉であった。彼女が家事をやりたがるなんて、天変地異の前触れとしか思えなかった。もしかしたらこの星は超新星として大爆発をするのかもしれない。世紀末なのかもしれない。
「……杏里、驚き過ぎじゃない?」
固まる私に眉を上げる母。
「それとも何?私に教えるの嫌なの?」
「まあ、これまでのあんたの振る舞いを考えると仕方ないんじゃない?」
「ひどいー」
「ひどいと思うなら日頃から料理とか作りなさいよ。まったく」
そう言いつつ、スーパーへと向かって行く私達。
「ねえ杏里」
「どうしたの?」
「都合のいい女だと思ってる?」
「うん」
嘘をついたって意味はない。こんなんでも今は母と娘なのだから。
「最低だと思ってる」
「ひどい奴だとは思ってる」
「何もあんたにしてあげられてないもんね」
「よく分かってるじゃない」
話が止まる。沈黙が跋扈する。
「……お父さん、いつから帰ってくるんだっけ?」
核心に迫る質問に、あちらも正直に答えた。
「来月の13日。で、15日には帰る」
「3日間だけ?」
「そうみたいだけど、これまでよりマシでしょ」
まあそれもそうか。3年ぶりに会う親子なんて、おかしいにもほどがあるからな。いやそれは流石に大言壮語すぎるか。それくらいの家庭だってあるかもしれない。あるかもしれない。あると信じたい。
母がこんな風に軟化しているというのは、父が帰ってくるからだ。私のお父さんは、3年ぶりに日本へと帰ってくるのだ。
「お母さん的には帰ってこなかった方が良かったんじゃないの?」
皮肉だ。最大限の皮肉だ。それを彼女は無言で返した。そしてそのまま、スーパーへと向かっていったのであった。
お父さんとの思い出は、恐らく一つもない。七五三だっていた記憶はないし、入園式も入学式も来てくれた記憶はない。物心ついた頃から私には母しかいなかった。父親というものは、私にとって遠い存在だった。この頃の年頃の娘というのは、父親を疎んでしまうと聞く。同じ洗濯機で下着を洗わないでとか、同じ部屋でご飯食べたくないとか、そういうことを言いはじめるのだという。そんな経験も私にはなかった。そう考えると、少しだけ悲しい。
父は恐らく今のこの家庭環境について何も知らないであろう。私が包帯を巻いて生活をしていることも知らないだろうし、母が男連れ込みまくって私の世話なんて一ミリもしていないなんて想像すらしていないであろう。だからこそ私たちは誤魔化さなければならないのだ。母は真っ当で私のことをよく世話してくれている存在で、私はその恩恵を受けて毎日快活に暮らしている。そんな設定を忠実に守らなければならない。そうした共通認識が私達の間にあった。
「因みにお父さんの好物なんていつ知ったの?」
「言ってたのよ。パパが」
「あーじゃあ信頼できる情報源ね」
「……私よりもパパの方が信頼できるんだ」
「過ごした時間が違うでしょ?それに、貴女と父さん、会ったことある?」
「流石にあるわよ!じゃないとここにいれないわよ」
まあそりゃそうだろうな。流石に軽口が過ぎたか。私はひき肉をカゴに入れながら少しだけ反省した。
「ハンバーグってひき肉だけでできてるの?」
「んなわけないでしょ。玉ねぎも入ってるわよ」
「あーそうだったわね」
味音痴が過ぎるだろ流石に。いやこれは味音痴と言うよりは常識力の欠如であろうか。ハンバーグを食べたことのない大人なんていないのだから、中に玉ねぎが入っていることに気がつかないということだろうか。私は流石に呆れながらほうれん草をカゴに入れた。
「ハンバーグ以外のものも作るの?」
「それだけだと栄養偏るでしょ?」
「まあそうでしょうけど」
「ほうれん草の卵とじとかどう?」
「いいねー」
どんなものかわかっているのだろうか……色々と不安になる出来だなこれは。
「サラダはまだ冷蔵庫にあったからそれを使うとして、お米もまだ余裕があったかな」
「よく覚えてるわね」
「ちゃんと炊事してるのよ私だって」
卵を少し丁寧に入れる。
「ヨーグルトいる?」
「乳製品苦手」
その胸でか!!その胸でそんなことを言うのか!!やはり乳製品と胸の成長は比例しないのか!!!私はぐちぐちネチネチと文句を言いたくなったがやめておくことにした。いくらなんでも大の大人を責めるのはお門違いというやつだ。
「デザートなんかいる?」
「洋風の何か」
洋風の何かってなによ…そう心の中で突っ込みつつ市販のショートケーキを二つ購入した。
「他に足りないもの……ミネラルウォーターとかは?」
首をかしげる母親。
「まあ買っておくか」
そして無人レジへと持っていく。
「だいぶ定着して来たわよね、無人レジ」
「楽でいいよ」
特に私みたいな人と話すのがあまり得意ではない人間からしたらな。と言うのはつけない方向で行こう。虚しくなるからな。でもここの無人レジは何度も何度も利用させてもらっている。
ポチポチと機械を押して、商品を左から右へと運んでいく。
「慣れている手つきね」
「そうでしょ?」
「……あんた、色々と大変だったのね」
こんなことだけで同情して欲しくなかった。私の日常はもっと辛かったのだから。これは自意識が過剰になっているわけではない。事実だ。学校帰りに買い物して炊事して洗濯して掃除をするくらい、私にとって苦でもなんでもなかった。だから同情して欲しくなかった。そんな急に中途半端に歩み寄られても、私からしたら少しの苛立ちを生むだけだ。
恐らくここから何週間かは、こんな感じになるのだろう。今日の日付は7月31日。お盆は徐々に近づいてきていたのだ。