131.5枚目
最初彼女に興味を持ったきっかけは、実は本当に平凡なものだった。新しいクラスが発表されて、上から3番目にかいてあった名前につい反応してしまったのだ。大した理由があったわけでもない。ただ、母親と全く同じ名前だったから、何となく目を引いただけだった。
杏里という名前が一般的かどうかについては、個人差が出そうな議題であろう。しかしながら、漢字まで全く一緒な杏里となれば、それはそれは稀有なことだとなったであろう。だから別に、最初は彼女と関わろうだなんて思っていなかった。珍しい偶然もあるもんだなとか、それよりまた泰斗と同じクラスかよとか、そんなことしか思っていなかった。
次に彼女に興味を持ったのは、彼女の顔を見たときだ。ちびっこい身長に、頭に巻かれた包帯。誰とも話さずに窓の外を見ているか何かノートに書き込んでいる。それは、比較しては申し訳ないが優れた美貌として知られた母と比べてあまりにも滑稽だった。そして案の定、彼女はひとりぼっちだった。あえて1人だったのか、諸事情あったのかはわからないが、彼女は1人で登校し、1人で昼ご飯を食べて、そして1人で下校していた。自分はそれを、側から見つめるだけだった。
「あれ?家田?確かに変だよな」
帰り道に2年から同じクラスになった篠塚と話しているときに、どんなきっかけかは忘れたが家田杏里の話題になった。
「つうか仁ちゃん、ガチで知らんの??結構有名人よあいつ」
「そうなのか?」
「ほんと、そういうの疎いよな仁ちゃんって。なんか、ゴシップネタに弱いっていうか」
篠塚の呆れた声に、この1年間彼女について知らなかった自分が急に異端な人間に思えたのを覚えている。
「泰ちゃんは?知ってる?」
「ん?何がっすかー?」
「あれだよ。家田さん」
「あーあれっしょ??宇宙人から来たとかいう……」
「……それを言うなら宇宙から来ただろ?」
「あーそれっすそれっす。仁ちゃん詳しいっすね」
いや初耳だが、日本語的にそれが適合だろう。
「不思議ちゃんっすよねー。確かになんか絡みづらいというか、話しにくいというか、そんな感じっすよね」
「俺去年同じクラスだったけど、話してるとこマジで見たことないわ。あ、授業で当てられたときとかは話してたけれど」
そうなのか。そういうやつなのか。何となくがっかりしたのを覚えている。当時の自分にはそうした反応が精一杯だったのだ。その後すぐに話題が変わって、新しいクラスで誰が可愛いかについて議論が始まっていたのを聞き流していた気がする。
そして次にその考えが改まったのは、たまたまスーパーに駆け寄ったときである。その日もまた、俺は1人で晩御飯を食べなければならなかった。スーパーに行けば、食材もあるし、レンチンで終わる簡単なものも置いてある。あまり料理スキルは上昇していないので、そうした冷凍食品などを重宝していたのを覚えている。そうしてその日も、雑に買い物カゴをとってまっすぐ冷凍食品のコーナーへ向かおうとした。その時だった。
家田杏里は非常に目立つ。そりゃそうだ。街に包帯巻き巻きの女子高生がいたら、良い悪いは置いといて目立つのは間違いないだろう。家田杏里は野菜コーナーで品定めをしていた。ピーマンを一つ一つ手にとっては、その色合いでも見ていたのか真剣な眼差しを向けていた。その買い物カゴには、到底一人前のものには思えなかったし、その日凌ぎのものにも思えなかった。
その時だ。話しかけたくなったのはその時だ。もしかしたら彼女は、似た者同士なのかもしれない。そんなことを始めて思ったのは、その時だ。
そして最後のきっかけは、一月後に行われた席替えだった。別に話しかけたくなったからといって、気になる子の隣になれるかどきどきする少女のような心境だったわけではない。何も望まずに引いたくじは、隣に彼女を連れて来た。
そして最初に話しかけたのが……あの数学の時間だった。
「うぎゃー!!!!ちょっと結城!!!結城!!!!何で私が先頭に立った瞬間で青甲羅投げつけてくんのよ!!!」
「結城先輩まじナイス!!ナイスっす!!」
「まが……まが……曲がれない……」
「しゃーキノコ来たー!!」
「あ、次カミナリな」
「「「「うぎゃああああああああああ」」」」
4人の叫び声が部屋中に鳴り響いた。
「ちょっと待ってくださいよ!!!やっとこのカーブ曲がれそうだったんですよ??」
「俺キノコ消えたんだけど……!!」
「つうか結城先輩なんすかその運!!何でその順位でカミナリ出るんですか??」
「くそう、ようやく初の1位取れそうなんだ。負けない……絶対に負け……」
「家田赤甲羅飛ばした」
ゴール直前に家田のバイクが転倒し、俺は一位をもぎ取った。
「ふ、ふぎゃあああああああ」
「いやもう、二度とやらんですはこんなクソゲー」
「ショートカットでキノコなくなったんが敗因ですわ」
「最下位は……最下位は嫌だ……」
そして4人ともゴールしていった。時刻は夜7時を指していた。別にこのゲームだけやっていたわけではないが、13時間もよく遊んだものである。いつもはひとりぼっちのこの時間に、今日はこんなにも騒がしくやかましい。
「もう一回!!もう一回!!」
「家田まだやんの?」
「私が、勝つまで、やる!!!!」
昨日はあんなに美しい泣き顔を見せていたというのに、今日はレースゲームの結果で涙目になっていた。頬を膨らまして上目で見ている。正直に言おう。可愛い。昨日のせいで特に、愛おしく思ってしまった。
「家田さん、そろそろご飯にしましょう?」
「ほらー、注文したピザそろそろ届くってさ」
有田がそういったタイミングでチャイムが鳴った。俺が取りに行こうと思ったのに、勝手に遠垣が取りに行ってしまった。
「お金払っとくので後で5等分して下さいねー」
「あー運ぶの手伝う」
「ほら、家田さんどーどー」
「ぐるるるるる」
みんな楽しそうだ。いまだに慣れない。いつもは1人のこの家で、友達……なんだろうか。みんなでワイワイ騒いでいるのが肌に合わないのだ。昨日の彼女も、そんな気持ちだったのだろうな。
「何ですかこの黒いピザは?」
「イカ墨じゃないですか?誰が頼んだんすかこれ」
「あーこれ私だわ」
「家田!?らしくねえ」
「ちょっと有田!!何よらしくないって」
「なんか先輩ってこれみたいなハニー系の甘いの好きそうじゃないですか??」
「あ、それ……私です」
「姫路先輩??」
俺は分かっている。こんな日々が、これからもう片手で数えられるほどしかないことを。ひょっとするともう二度とないことも。いつか打ち明けなければならないのだ。
「結城ーぼうっとしてないでピザ切り分けてよー」
そう遠くで呼ばれて俺はようやく立ち上がった。そしてみんなの輪に入っていった。絆も優しさもわからないが、今この時が楽しいことだけは真実だった。
……最初に彼女を見たときに、少しくらい助けてやろうと思ったのは本当の話だ。困っている彼女を見過ごせなかったという側面は、当初からずっと抱えていた。昼ごはんに誘い、ボーリングに誘い、勉強会に誘い、そして落ち込む彼女を助けてきた。でも、本当に助けられていたのは自分だったのかもしれない。一方的に何かを与えるのではなく、与え頂く今の彼女との関係が、楽しくて、心地良くて、だからこそ手放したくないと強く思えた。あと1ヶ月、これが一時の夢だとしても、それ無しで生きていくなんて考えたくもなかった。いずれかはそれなしに生きて行くのだから、せめて今だけはこの現実の中で生きていこうと、そう再び心に決めたのだった。