128枚目
杏里は優しい母親だった。誰よりも優しい母親だった。まだ大学生だった頃の智四に子供こしらえられて、ドラフト候補だった智四が変なスキャンダルをつかまされないよう、2人で隠匿し誰にも言えないまま子供を産んだ。大学の四年生だったことからあまり外に出なくても文句を言われなかったのが功を奏し、智四のキャンプインの頃には立派な赤ちゃんが産まれた。球団にはその頃連絡したらしく、少しだけ怒られてしまったらしい。その産まれた子供は、近くに父親がいないまま、名前を仁智と名付けられてしまった。名付け親は父だった。自分の名前と自分の恩師の名前をとって、勝手に連絡してきたらしい。数ヶ月前堕ろせとこっぴどく説教してきた人間と同じ人物とは思えなかったが、杏里は何一つとして文句を言ってこなかった。家族もこない、友人も来ない、そしてパートナーも来ない中、看護婦さんと2人で産まれてきた子供の世話をしていたという。
プロ野球の世界は厳しい。関西の大学で圧倒的な成績を収めてきた智四でも、当初はプロの壁にぶち当たっていた。入団した球団の本拠地が横浜にあったことも災いして、関西に帰ってくることはほぼ無かった。それこそシーズンオフの一時期だけである。それでも杏里は、何一つ文句を言わずに子供の面倒を見ていた。両親には事後報告の形で連絡を入れたら、ろくに話を聞いてもらえずに縁を切られたらしい。2度と私らを頼るな、お前はもう大人なのだからと。しかし齢23の杏里に、子育ての全てを押し付けるのは中々に酷な話だった。しかしそれでも、杏里は文句の一つも言わずに、仁智の世話を焼いていた。
仁智は自然な流れで野球を始めた。シーズン中毎日のように野球中継をつけていたなら、それも妥当という奴である。まだその頃は智四の給料もそこまで無かったのだが、杏里は自ら働き始めてグローブとバットを買ってあげた。平日は派遣業、夕方からは保育園にいる仁智を回収し、まだ空が明るければキャッチボールをして、夜には父の活躍する姿を見る。そんな、まだ綺麗な姿がそこにはあった。
仁智が小学生になる頃、智四はチームを優勝に導き、自身もタイトルを取るなど、選手として充実期に入り始めた。生涯収入レベルの年収をもらい、智四がしてくれたことは3つだった。広い家の購入、家政婦の雇用、そして脱サラした弟にカフェのスペースを確保、この3つだ。この頃になるとテレビにたくさん呼ばれるようになって、オフシーズンすら帰って来なくなった。12月にプロ野球選手の父親とキャッチボールするのが何よりの楽しみだった仁智にとって、それは中々に辛い出来事だったらしい。
本格的に少年野球を始めた頃には、徐々にその成績に陰りが見え始めた。少し人より能力の減衰が激しかったのだ。無論成績が下がれば給料は減る。更にカフェをしたがっていた智四の弟というのがまた厄介な男で、無茶な経営をしては金を無心する輩だったらしい。まだ子供だった仁智にはよくわからずに弟の娘である杏子と遊んでいたが、母親は何も言わずに働き続けていた。母親は口癖のように言っていた。
「あれはお父さんが身1つで稼いだお金だ。だから私がどうこう口を出すものじゃない。ほら、あの人だってあんたの野球にかかるお金とか、食費とかには手を出してないでしょ?だから私からしたら、あの人が好きに生きてくれたらそれでいいのよ」
この考えがどうにも甘かったとなるのは、智四が戦力外通告を受けた時である。
最初受けた時には、まだ比較的若かったこともあって手が上がった。しかし仁智が中学生になった冬、2度目の戦力外通告を食らってしまった。最初の時とは違い、明らかな衰えと鈍った運動神経が隠しきれなくなってしまったのだ。もうその頃にはテレビに映らない父に疑問を持つような年頃では無かった。仁智も、杏里も、これからは3人で暮らすのかなっと、そう思っていた。
しかしそこで、智四はこう言い始めたのだ。
「俺はこれから、台湾へ向かう!」と。
丁度、脱サラして始めた弟のカフェが潰れ、次はラーメン屋をしたいなどとうつつを抜かしていた時だった。そして更なる一言が、結城家を苦しめることになった。
「お金ぎりぎりだから、土地の維持費以外は全てそっち持ちで頼むわ」
無論、反論する言葉も待たずに切った。次に電話をかけても反応はなかった。そして本当に、我が家にお金が入って来なくなった。
本当はこんな広い家なんて要らなかった。カフェの跡地も取り壊したかった。2人で暮らしていくのなら、それ相応の場所で暮らしたかった。しかし、その維持費だけはしっかり払い、売り払うこともできなくなっていたらしい。なんせ契約者その他名義は全て智四だったからだ。家政婦さんは申し訳ないがクビにすることにしたが、そんな経費削減で補えるわけがない。そして杏里は、学費と食費と生活費を稼ぐために身を粉にして働き始めた。まだ35歳。無理して働けると錯覚するには十分に若い年齢だった。
仁智はその頃、硬式から軟式に変わった。簡単な話だ。クラブチームなど、できるはずもない。本当は野球自体やめようかと思ったが、杏里に中学の部活を続けられないほど我が家の財政は悪くないと諭されてしまった。なお次の日には沢木がくっついてくるように軟式に鞍替えしていた。いい奴だと思った。野球部の息子に、どえらい豪邸。言い風に思わない人も一定数いる中で、沢木だけはニコニコしつつついてきてくれた。
高校は公立に行こうと思って、比較的野球の強い藤ヶ丘を受けたのはたまたまだった。学費面での補助などもあり、また野球を続けられることになった。その間に、智四は連絡をよこさなかった。音信不通のままだった。もしかしたら、適切にどこら法律事務所やらに相談していたら、豪邸やらなんやらを全て売り払うことはできたかもしれない。しかし、杏里は優しかった。優しすぎたのだ。
この頃の彼女は、仕切りにこう言っていた。
「もうちょっと我慢したら、あの人が帰ってくる」
そう言って無理する杏里が、その頃から少し苦手だった。仁智がバイトしようとしたら、
「高校生のうちからバイトなんてしないで!お母さんは大丈夫だから!」
と怒鳴られてしまった。無理しないでと何回言っても、
「大丈夫よ!私まだまだ若いんだから」
と連日朝番夜番を欠かさなかった。その頃からずっと思っていた。何で杏里は、こんなにも苦労しているのだろうと。自分がいるからだろうか、などと阿呆らしいことも考えてしまった。
事態が急変したのは、つい2ヶ月と少し前だ。わかり切った結末だった。杏里が倒れたのだ。
過労、栄養失調、様々なことを言われた。でもそれ以上に、きつい一言を言われてしまった。どうやら、杏里は癌らしい。
それが日々の生活の軋みからか、遺伝的なものかはわからない。しかし、彼女の乳房にはしっかりとしこりがあったのだという。それに彼女は気づいていたのか、もはや不明だ。
杏里は起きなくなってしまった。病院のベッドで、今も入院している。他にも様々な合併症を引き起こしており、どうしてここまでになるほどほっておいたんだ?父親はどうしたのかねと怒られることになってしまった。そんな時でも、智四は連絡をよこさなかったのだ。
一体、どうしてこんな風になってしまったんだろう。病院にお見舞いをして、帰ってきた空虚な豪邸で1人。仁智は、もう現実と闘えなくなってしまっていたのだった。