125枚目
「え?え?何言ってるんです先輩??いきなりなんですかー?」
あはは、あはは、あはは……掠れそうな笑い声が冷たい廊下に響いた。遠垣は少しいたずらっ子っぽい笑顔をした後にポツリとこう呟いた。
「やっぱり、誤魔化せる雰囲気じゃないっすよね」
そして彼女からしばし笑顔が消えた。笑っていなくても、遠垣来夏は美人だと確信できた。
「先輩、答えにくかったらこの家から私を蹴り出してくださいね。私、先輩だったら蹴られてもいいって思ってるんで」
なんだその限定的ドM宣言。私は呆れた感情を表には出さず、シュールだと思いつつもこくりと頷いた。
「わかりました。わかりましたよ。先輩、一緒に住んでいる女性、お母さんじゃないですよね?」
正直なことを言うと、すでに面食らってしまった。いや流石に家から出て行く前のいざこざについて聞かれるだろうという腹づもりはしていた。しかしながら、連れ込まれて来た男の方ではなく、連れ込んで来た女の方を指摘してくるとは思っていなかった。普通、年寄り若い男を愛人だと思っても、年相応の母を疑う人間はなかなかであろう。
「まあね、私は宇宙人だから?そもそも母って言うのは私の便宜的名称で……」
「目も鼻も口も、全くと言っていいほど違う。いくら女子が父親に似ることが多いと言っても、何一つ似ていないのは不自然だし、何より……家田先輩を見る目が、子供を見るそれじゃなかった。ほんの一欠片も、相手に対し興味のある視線を送っていなかった。愛情でも、憎悪でも、戸惑いでも後ろめたさでもない。ともすれ無関心でもない。あれは、他人を見る目だった。違いますか?」
また私は同じ調子で頷いた。遠垣はふうと息を吹くと、少しだけ強張った顔がさらに強張った。
「先輩、本当にここからは怒るかもしれないので、蹴る準備してて下さい」
そんなこと言われても、人なんて蹴ったこと……まあ何回かあるか。そう言われながらも私は、頑固に蹴るフォームへと移行しなかった。
「私、最初はあの人を見て軽蔑したんですよ。家に愛人を連れてくるなんて、不倫もいいところじゃないですか。男も女も、めっちゃ軽蔑しました。でも……」
すうっと、息の音が大きく聞こえた。
「私、いつかああなるんじゃないかなって、そう思ってしまって怖くなったんです」
「え?遠垣ちゃん、ああいうのめちゃくちゃ嫌いそうなのに……」
「違うんです!!」
大きな声だった。風呂場にいる結城にも聞こえんほどの声だった。徐々に遠垣が俯いていった。
「違うんです……違うんです……違うんです」
そしてそのまま、蹲ってしまった。膝を抱えて、顔を隠してしまった。その一連の行動に、私はついていけなかった。
「ど、どうしたの?どうしたの?」
そう言って遠垣の肩に手を置くことしかできなかった。
彼女は絞り出すように言った。
「私、本当は男の人からちやほやされるのが好きなんですよ」
そしてその言葉を聞いた瞬間に、私はすべてのことが腑に落ちた。何故彼女が電車の中で痴漢撃退運動を行なっているのか。何故彼女は男嫌いなのか。そして何故、彼女は男嫌いなのにメイド喫茶でウェイターをしているのか。私はわかってしまった。彼女にとっての嘘は、男嫌いだったのだ。
「な!何言ってるんですかね私!!先輩に聞きたいことあるって言われたくせに、自分のこと話して!!かまってちゃんかよ!自分大好き人間かよ!ってね」
また乾いた笑い声。顔を上げて、立ち上がった時に、右頬に一筋だけ涙の流れた跡があるのを発見した。
「んじゃ、聴きたいことは全部聞いたので、私は帰ります……」
がしっ!遠垣の手を掴んだ。恐らく手を振ろうとしていたのだろう。
「話して、全部。話さないと、リビングのソファまで蹴り出すから」
遠垣は振り向いてくれなかった。
「離してくださいよ」
「話したら離す」
「ややこしいですねw」
こんなことで笑うほどの精神状態ではない。
「いやですよ。先輩には」
「なんで?」
「だって先輩……先輩は、先輩には、無理ですよ」
この瞬間だった。何者かの悪い悪魔がこう呟いた。私はそれを、はっきりと、くっきりと、聞いてしまった。
ーお前には無理だよー
と。
ー虚構の世界で生きてるお前に、一体誰が自分の過去を告白してくれるんだ?身の程をわきまえろよー
と付け足しまでくらってしまった。そしてその声に従順になるかのように、私は手を離してしまった。
恐らくその離し方が悪かったのだろう。私はすってんころりんと転がってしまった。遠垣はドアに頭をぶつけ、私は後ろ回転をしようとして背中を打ち付けられてしまった。私は廊下で大の字になってしまった。
痛かった。背中の痛みが全身にくまなく行き渡った。身体中が悲鳴をあげていた。それなのに、1番痛かったのは心だった。
「先輩、大丈夫ですか??」
遠垣の声が、遠くに遠くに聞こえた。目の前にいる人間とは思えないほど、そのセリフは響かなくて、まるで世界を断絶されているかのように思えた。
まただ。またやってしまったのだ。結城の時と同じだ。いやあの時はましか。あの時はもっと傲慢で愚かだった。自分すらろくに逃げ回っているのに、自分すらままならないのに、他人を助けようとして失敗したあの時。それから私は何も変わらないまま、もう少しで彼女を傷つけることになる所だった。そもそも無理な話なのだ。私が言葉で世界を救えるわけがない。私は宇宙人だ。地球侵略が目標のアルフェラッツ星人だ。そんな異世界の私が、彼女たちを救えるわけがないじゃないか。だからこそ、それがよくわかっているからこそ、彼女はしっかりと声に出したのだ。家田先輩には、話したくないと。
涙が出てきた。一筋、二筋と涙が出ては廊下に落ちた。身体中が痛かった。心はそれ以上に痛かった。もう2度と、立ち上がれないかもしれない。そう思えるほどだった。
目元を腕で隠した。誰にも見られたくない酷い顔だった。そうに違いなかった。今この時だけは、心の底から大泣きをしていた。本当の私が、本気で、悲しく、苦しく、痛いと泣き喚いていた。それからのことは、実はよく覚えていない。彼女がこの日、どんなことを思ったのかはわからない。しかしながら、次に目を覚ました時、遠垣来夏はもう結城の家から出て行ってしまっていた。結局私はまた、目の前で打ちひしがれる人に、何の手助けもできないまま終わってしまったのである。