100枚目
さて記念すべき100枚目になるが、それを粛々と迎え入れるという訳にはいかなかった。朝起きて時刻を確認した瞬間に、私はそこらにあったよれよれのTシャツを着て、家にいた母の顔など気にもせずに駆け出していった。ポケットに鍵を入れっぱなしにしていたことを、この時だけはGJと思った。しかし、本当ならばもっと早く起きてその手順を確認する予定だったのに、私にはそんな時間など与えられていなかった。全ては前日の夜更かしのせいだ。この時だけは1日寝たら悩み事が吹っ飛ぶ自分の性分を恨んだ。未だに結城の素性について悩んでいたとするならばこの寝坊も些か理解できると思ったからだ。しかしながらもう私の視野は阿部ちゃんのグリーンイグアナ一点に絞られていた。それ以外のものは何も見えていなかった。
自転車を爆走して、30分かけて阿部ちゃんの指定したマンションについた。ここに住んでるの?と尋ねたことがあるが、どうやらそうではないらしい。イグアナを飼うためにマンションを借りているというのだろうか。大した資産の持った親に生まれたのだなと自身を棚にあげつつマンションの来客者用自転車置き場に自転車を止めた。マンションからは恐らく出勤するであろうサラリーマンがぞろぞろと出てきていて、一様に私の様子を訝しく見ていた。まあそりゃそうだろうな。ただでさえ私は宇宙人だから、皆の衆目にさらされてしまうことは避けられぬ運命だ。頭の包帯か、よれよれのシャツか、それともクマのできた目元か……すべてではないのかという突っこみはなしだ。
カードキーを通して最上階へと向かっていく。マンションやアパートといった集合住宅の類は基本上階になっていくほどお金が高くなっていくものらしい。詳しい原理は知らないが、まあ地球人の考えることだ。なんとなく高い所にいる人の方が低い所にいる人よりも偉いという小さい優越感に浸るため作り出した慣習なのだろう。そうしてすぐ他人と比べてしまうのがこの星の人間の悪癖であると私は強く思うのだった。
指定された部屋のドアを開けようとして、私は思い出したかのように阿部ちゃんからもらった指令の書類を見ようとスマホを起動させた。充電が20%を切っていて、電池マークが黄色になっていた。画像を開くのにもバッテリーを使うのに大丈夫なのかなと思いつつも、これを見ないことには先に進まない。一度目を通したそれを復習がてら見直した後に、私はドアを開けた。
今から私がやることは、大きく分けると3つになる。一つ目は餌を与えること。まあペットの面倒といえば主にこれだろう。阿部ちゃんの指南書によると、グリーンイグアナは新鮮な野菜や果物を好んで食べる上に、彩色豊かに盛り付けていくことによってより食欲を増すらしい。私は部屋に入ってまず冷蔵庫に行き、そこに入ってあった野菜を細かく切り分けていった。この辺りは日頃の料理の経験が生きて、細かく取り分けることは上手くいった。あらかじめスライスしたものを冷蔵しておくのは新鮮味が落ちるらしい。だからこの作業が必要らしいのだが、彼女は日頃いつもこの作業をしているのだろうかと思うと気が遠くなった。
そして色鮮やかかはわからないが様々な食材をもって、私はリビングのドアを恐る恐る開けた。イグアナが襲ってくるのではないかという私の心配は杞憂に終わった。少しじめっとした部屋の中で、人間と同じくらいの体調をした緑色の生き物が、気持ちよさそうにゲージの中で眠っていたのだ。私はイグアナと呼ばれるものなど画面越しを通してしか見たことがなかったから、こんなにも大きな生き物なのかということと、こんなにもおとなしい生き物なのかということに驚いていた。しかも私という、いつもの飼い主じゃない初対面の人間が入ってきているというのにこの落ち着きよう。見た目は怖いが、案外飼いやすい生き物なのかもしれない。そんな私の錯覚は、すぐにかき消された。
2つ目にしなければならなかったのは、イグアナに霧吹きをかけることである。私は餌の容器を静かに取り換えた後に、部屋の隅っこに置いてあった霧吹きを持った。これだよねと一応中を開けて匂いを嗅いでみたが、流石にアルコールの臭いはせず無臭だった。イグアナは乾燥しやすい生き物らしい。だから1日に一度霧吹きをかけてしめっとさせておくことが大切だということだった。だから少しじめっとした気がしたのかと思いつつ、私はゲージの上から霧吹きをかけた。本当は体表の近くでかけるのが一番らしいのだが、それはゲージを開けて直接じゃないとできない。それを私に頼むのは流石に酷だとのことだった。いやいや私、別にそれくらいできますけど?宇宙にはイグアナなんかよりもわけわかんない形をした生き物、沢山いますけど?その時ばかりはそう思っていた。その時ばかりは。
霧吹きをかけた瞬間に、イグアナは目を覚ました。そしていきなり鋭い爪を立てて、私の膝めがけて鋭い爪を立て始めたのだ。
「ひぃや!!!」
私はそんな情けない声をあげて、へなへなとその場で座り込んでしまった。イグアナはゲージの中でひどくご立腹だった。先ほどまでの可愛い顔はどこへやら、ぎろっと私を睨んで、そのままじっとしていた。え?え?私何かしたかな?いや何かはしたけれどもさ。慄いて座り込んだままだった私だったが、イグアナはすぐに近くにおかれた餌の存在に気付いてバクバクとそれを食べ始めた、それを確認して私はそそくさとゲージから離れた。もしもゲージが無かったら、私は怪我してたかもしれない。そう思いながら、やはりこの動物を飼うのは並大抵のものではないと確信していた。
3つめの仕事は各種確認作業だった。まずはエアコン、ちゃんと室内温度が25から28度に調節されているか確認。ついで紫外線ライト、これはついてたらOK。続いてゲージ内やゲージ外におかれた流木。倒れてしまわないかしっかり点検。床材も忘れず、異常はないか確認。スポットライトも、後……それだけか。確認作業の多さに私は辟易していた。これはバイト代を要求してもよいのではないか?何て俗物的なことを考えてしまうほどだった。本当はここからトイレ掃除が始まるらしいのだが、それだけは大丈夫と言われた。本当はしてほしいのだけれども、ゲージを開けなければならないし、何よりも汚物の清掃まで任せてしまうのは忍びないとのことだった。そんなもの、宇宙に行けば触れたら即死の汚物なんて溢れているというのに、舐められたものだなと当時の私は思っていたが、今となってはこちらから願い下げる心情だった。
そしてすべての確認を終えて、私はドアを閉めた。時刻は朝の7時半。そろそろ撤退しなければならない。そう思って色々と片付けをしているうちに、ふとこんなことを思ってしまった。
なんで阿部ちゃんは、イグアナを飼おうと思ったのかな?
こう言葉を並べてしまうと月並みでこそばゆい称賛の連続になってしまいそうだが、阿部ちゃんは品行方正文武両道を地で行く少女だ。運動系部活の中心人物で、だからと言って驕らずえばらず、クラスのまとめ役として色んな人に気を配り、成績も優秀である。それに爽やかな短髪に少年っぽい可愛さを残した顔立ちと、見た目も清廉である。大凡、イグアナを飼うことに頓着している少女には見えなかった。しかも、親に隠れて飼ってるって、結城は言ってなかったかな?そこまでして育てたい熱意は、いったいどこから湧いてくるのだろう。
人は見かけによらないという言葉を、ここのところ痛感しているな。そんな雑感も胸にしまいながら、私は部屋を後にしたのだった。




