脱出計画は慎重に
さて、逃げると決まった今、行動は早い方がいい。わたしはぐるりと首を回すと、背伸びを一つした。
ゆっくりしていると、ウルフレアからどころか、王城から出ることすらできなくなるかもしれない。いや、自室から出ることすら憚られるかも。
それは嫌だ。せっかく自由になったのだから、わたしは自分のためだけに過ごしたい。最終的に家に戻らなければならなくなったとしても、見つかる間まで旅を楽しんでもいいのではないだろうか。
わたしは、その能力を隠匿するためもあり、幼い頃からニーニヤにある実家と、今はサジ伯父さんが住む祖父母の家、そしてウルフレアにある本家ならびに王城にしか行ったことがない。隣国の手始めにロイユーグ叔父さんのところへでも行こうかな。うーん、でも顔を出すとすぐ強制送還されそうだ。
わたしは自由に生きる次兄のことを思った。あんな風に、気儘に全国を回りたい。父やラズ伯父さんのように、イセルルートへ渡ってもいいな。
「!」
そうだ、アヤ兄を捜して全国を回ろう。
長兄を捜して海を渡った父を思い出し、わたしはポンと手を打った。さすがにイセルルートへ渡るにはニーニヤに戻らないと船がないので(ニーニヤは伯父たちの尽力によって、ナザフィア大陸で唯一、イセルルート大陸とのルートが開かれているのだ)、まずはナザフィア内を漫遊しよう。
そうなると、ほしいのが足だ。幻獣のクロムがいてくれたらきっと楽だろうけれど、残念なことにクロムは父と一緒にイセルルートへ行っている。馬は乗ったことなので無理だろう。
従って旅をするには、他の人たちと同じく、駅馬車になると思われた。そうと決まれば、出発前に駅馬車屋に行って、チケットを買っておかねばならないだろう。
そして駅馬車屋に行く前に旅の支度をしないといけない。それに気づいたわたしは、慌てて魔法師団の研究室へと走り出した。ここは王城の廊下だけれど、王妃教育から解き放たれた今のわたしには礼儀作法など関係ないのだ。やってはいけないことがしたい。ただそれだけで、わたしは走る。
規則を破ることはハラハラしたけれど、ちょっと楽しかった。
◆
研究室兼私室に入るやいなや、わたしは魔法師団の制服のローブを脱ぎ、壁のハンガーにかけた。多少乱雑に扱ったせいか今にもずり落ちそうだが、今はこれがいい。
それよりも、今は時間との勝負だ。ナリスが国王陛下に話を通してコトが露見する前に、わたしはウルフレアを出る。絶対に出る。出るったら出る。
その勢いのまま乱暴に鞄を取り出し、その中に適当に服を詰めようとしたわたしは、クロゼットを覗いた状態で固まった。
なぜなら、わたしのクロゼットには旅に適した服がなかったのだ。なかったというか、皆無。あるのは魔法師団の制服の予備と、たくさんのドレス。──そう、あるのはドレスだけなのだ。
なぜドレスばかりあるのかというと、まぁ前述した王妃教育のためとしか言えない。礼儀作法やダンスレッスンだけでなく、語学や歴史を始めとした学問に始まり、手紙の書き方や筆跡の修正に至るまでの座学ですらドレスが必須だったのだ。前者はともかく、座学にドレスは要らないと心底思う。旅にもドレスは要らない。こんなのが必要なのはお城の中くらいだ。これからお城を出るわたしにとっては、完全なる不要物である。
仕方なく、わたしは下着と寝間着のみ鞄に仕舞った。だいぶ隙間がある。なんだか勿体ないので、机の上に置いてあった竪琴を袋ごと突っ込んでみると、すっきりと収まった。これでよし。
お財布等の貴重品を身に着けたわたしは、魔法師団の制服のまま出かけることにした。駅馬車屋に行く前に、古着屋に寄ろう。そこで適当に仕入れればいいだろう。金の縁取りや襟や袖口にあしらわれた青のポイントカラーが目を引く白のローブは、目立つし置いていこうと思ったけれど、春先とは言えまだ夜は冷える。ないよりはあった方がいいから、これも拝借していくことにした。
身支度はできたので、わたしは手早く書き置きをしたためた。王妃教育の成果が便箋一枚に凝縮された仕上がりになったけれど、まぁ簡単に言ってしまうとその内容は、「アヤ兄捜しに行くよ。しばらく留守にしま~す」というものだ。婚約のことには触れない。
「これでよし、と。それじゃ行きますか!」
壁のハンガーからローブを再びむしり取ると、わたしは部屋の鍵を書き置きの隣に置いて城を後にした。さあ、早く服と駅馬車の手配をして、ウルフレアから出奔しなくちゃね!
◆
城門にたどり着くまでに、結構な人と遭遇した。魔法師団の制服を着ていてよかったと、このときばかりは思う。城門を出る際に外出先を尋ねられたものの、竪琴の修理に行くのだと告げるとあっさり通してもらえた。魔法師団への信頼の厚さが裏目に出た形だ。門兵には申し訳ないけれど、わたしは行く。心の中でこっそり手を合わせたが、それは誰にも伝わらなかった。
城門を抜け、わたしは城下町へと脚を伸ばした。ウルフレアに住んでだいぶ経つけれど、わたしはほとんどこの城下町に行ったことがない。ちなみに、そんな暇がなかったというのがその最大の理由だ。就業時間中は魔法師団の仕事をして、就業時間外は王妃教育。休日? 休暇? なにそれおいしいの?
そう思うと、今回の出来事は非常に腹立たしかった。わたしの貴重な時間を返せ! せっかくの王都だ。もっと楽しみたかった。そう思うが、すべては後の祭りである。もう、この町を楽しむことはない。
さて、勢い込んで向かったはいいものの、目当ての古着屋では、ちょうどいい服がなかった。夏物のワンピースか、大きすぎる男性の服か、男児用のズボンか、女児用のワンピースか。品ぞろえはよくないが、ちょうど仕入れた分が売れてしまったということだった。王都だけあって古着屋が少ないのが敗因だろうか。皆、新しく自分に合ったものをしつらえるのだ。そして、今回はそんな時間がない。オーダーメイドは仕上がりに時間がかかることを、わたしはあの数あるドレスを準備する際に知った。
ニーニヤならもっと古着屋があるのになと苦々しく思いながら、わたしは子ども服を両方購入することにした。試着室で袖を通してみると、この二つは腹立たしいことにサイズがぴったりだったのだ。逆に夏物のワンピースは色々と緩い。きっと元の持ち主が大柄だったのだ。そうに違いない。
まぁ幸いなことに子ども服はどちらもデザインがシンプルだったので、どうにか組み合わせて着ても酷い有様には見えなかった。濃い茶色のズボンの上に白のワンピースを羽織り、腰帯を締める。その上から元通りローブを羽織ってしまえば、ぱっと見は魔法師団の団員だ。
とにかく、外へ出る。そのためには魔法師団の団員のままでいた方が都合がよさそうだったので、わたしは堂々としていることにした。駅馬車をいくつか乗り換える途中で、制服は処分しよう。今回買った服も同様だ。そうすれば、なかなか痕跡はたどれまい。魔法の発現を抑制する魔道具があるとはいえ、わたしには竪琴がある。多少自分の痕跡を誤魔化すことなど造作ないはずだ。
こんなに大胆なことは産まれてこの方したことがないせいで、心臓はさっきからバクバクと不快なほど大きな音を立てているが、不思議と慌てることはなかった。
古着屋で買い物を済ませ、駅馬車屋に向かう。そのついでに屋台で食料などを買った。食べ物のことなどすっかり忘れていたので、思い出せてよかった。空腹は敵だ。腹が減っては戦はできぬと、よく母が言っていたことを思い出す。食事は大切だ。うん。
駅馬車屋は、意外なことに複数あった。さすがは王都といったところか。せっかくなので、ダミーも含めて複数枚買う。どこに向かうかはくじ引きにしよう。いや、早く出る順がいいか?
少し迷ったものの、出発時間が近いものの中から適当に一枚抜いて選び出した。行先はレガルタ。それなりに大きな町だ。
「大丈夫、無事に出れる」
魔声の効果を狙って、あえて口に出す。
気持ちは慌ててはいなかったけれど、咽喉から滑り落ちた声は、硬く緊張していた。