逃亡の覚悟はひっそりと
無事婚約破棄を申し出て障害がなくなったと思ったのか、ナリスとユナリーリア嬢は人目も憚らずいちゃいちゃとしながら出て行った。ちなみにわたしの承諾を取り付けたものの、まだ我々の婚約破棄は公になってはいない。ここは王城であり、従ってそれなりに人目があるというのに、ちょっと浮かれすぎてはいないだろうか。
ナリスはわたしに婚約破棄を突き付けて安心しているが、正式に破棄の手続きを取るこれからが問題なのだ。先程も言ったように、わたし自身は貴族令嬢ではないが、そういうわたしが一国の王子の婚約者であったことが重要だ。
分家の子であり、市井で暮らすわたしが王子の婚約者に選ばれたのは、わけがある。
それはわたしの母であり、兄や姉たちであり、わたし自身であった。
すべての魔力を見ることのできる“魔眼”を持つ父。
魔法使いを産みやすい、“時空の迷い人”と呼ばれる存在である母。
作るのが難しいとされる魔法陣のスペシャリストである長兄。
わたしも所属している魔法師団の副団長である姉。
国ではなくギルドに所属しているものの、魔法にも剣にも長けた魔法剣士の次兄。
父に似て魔法は使えないものの、ただその場にいるだけで大概の魔法は無効化してしまう弟。
そして──“魔声”持ちのわたし。
魔力に満ち溢れたわたしの家族は──父と弟は魔法が使えないけれど──魔法使いが欲しい人たちにはどんな手を使ってでも欲しい存在ばかりだった。また、魔法貴族として力を持つ本家や、従姉の嫁ぎ先である宰相家との縁を結びたいという目論見もあったと思う。
とにかくどうにかして縁を結びたい、という王命を受けて、従姉の夫であり宰相でもあるガルドバーサス・ダーニャドーズ閣下は、我が家にやってきた。
本当は先に長兄や次兄に王女様方との縁談があったそうなのだが、王命ということもあって無理に推し進めた結果、その当時魔法師団の副団長を務めていた長兄は行方をくらまし、次兄は国に仕えるのを取りやめてギルド所属の身となって放浪する存在となってしまった。
けれども、そんな状態になっても縁談の話はやまなかった。強い魔法使いの能力を血筋に入れ、また宰相家やディルスクエア本家との関係を強くしたかった国王陛下は、諦めなかったらしい。
そのせいで両親は激怒し、早々に姉を娶っていた従兄は義弟である宰相閣下に抗議をしたという。
なお、その当時、特殊すぎるわたしと弟の能力は公にされておらず、ディルスクエア本家によって隠匿されていた。
しかしながら、姻戚である宰相家には兄たちに弟妹がいることは知られていたため、年齢順としてわたしに白羽の矢が立ったらしい。
強引な縁談の話に両親は断りを入れたそうだが、なにぶん能力が特殊すぎて、その頃すでに普通に生きることが困難になっていたわたしのことを考えた姉と従姉が両親を説得し、わたしはナリスの婚約者になった。
そんな理由が背景にあったものだから、わたしはこの婚約が無事に破棄できるか、とても不安になった。国王の命令で宰相が結んだ、魔法貴族の中でも歴史上見たこともない魔法使いだらけの一家から生まれた魔声持ちの娘との婚約を破棄。……うん、これは荒れる。間違いなく荒れる。
国王陛下もだけれど、従姉の旦那様である宰相閣下も怒るだろうし、婚約するにあたってわたしの後見人を務めてくれた従兄シザーディアスも激怒するだろうし、両親や姉、兄、弟も手が付けられないほどに怒ると思う。下手をするとニーニヤのギルド長であるサジエール伯父さんや、イセルルート大陸にいるラズウェル伯父さん、隣国ラクトピアで騎士をやってるロイユーグ叔父さんにも飛び火する。……さすがに国際問題は起こさないと信じたいけれど、起こしかねないほどに溺愛されている自覚が、わたしにはあった。わたしの親族はすごく家族思いなのだ。ときに大問題を起こすほど。
そしてどうにかして婚約破棄が叶ったとしても、その後自分が無事でいられる自信もなかった。
そう、わたしがフリーになったらなったで、今わたしが勤めている魔法師団も荒れるだろうことが予見されたからだ。
魔法使いを定期的に排出する家が魔法貴族となるくらい、元々魔法使いは数が少ないのだが、中でも特に女性の魔法使いは貴重だった。魔法使いを生む確率を上げるために魔法使い同士で結婚したいのに、その肝心な相手がいないのだ。そんな希少な女性魔法使いであるわたしがそのターゲットから外れていたのは、ひとえに王子の婚約者であったからにすぎない。
その婚約の話が流れたとしたらどうなるか。そりゃもう、血で血を洗うような争奪戦が繰り広げられることは想像に難くない。ナリスの婚約者だった頃から、「婚約していなかったら立候補するのになぁ」と、独身の同僚たちにどれだけぼやかれたことか。なお、モテモテだったのはわたし自身の魅力ではなく、わたしの能力と血筋であることは言うまでもない。
だが、縁談の嵐に身を委ねる覚悟は、わたしにはなかった。人と関わることは得意ではない。その理由は、ひとえにわたしの能力にあった。
魔声。それは魔法使いが持つ能力の中でも特殊な能力だ。
もとより魔法使いはその身体に魔力を備えているものだが、魔声持ちは特に声に魔力を秘めている。そのため、呪文も魔法陣をも介さず、言葉を発するだけで魔法を行使できるという特色を持つ。
それだけなら魔法を使うのに便利なだけで済むが、魔声持ちが問題なのは、それだけではないことだった。
難儀なことに、強い魔力を秘めた声は──人を従わせることもできるのだ。要は魅了の魔法や行動抑制の魔法の流用なのだが、それはひどく危険な能力だった。王城などの重要な場所は結界によって魔法の行使が制限されているため、魔声の能力も抑えられているが、そうでない場所では、言葉を発するだけでまわりの人間を支配できてしまう。
だから、わたしは喋るのをやめた。
実家にいたときは、天然結界たる弟の特殊能力がわたしの能力の発動を抑えていたから、その影響を気にすることなく話せたけれど、ウルフレアにいる今、わたしが気兼ねなく話せる場所はどこにもなかった。王城の中でも殊更強い結界が張られている謁見の間か、王族の私室くらいならば、身に着けている魔力を抑えるチョーカーの効果もあって話せるけれど、まずそんな場所に行く用事がない。王子の婚約者といえ、好き勝手に歩き回れるほど王城は自由ではないからだ。
わたしが“魔声持ち”だということを知っているのは、家族と伯父や従兄たち、国王陛下に宰相閣下、そして魔法師団をまとめるジーンルース・リゲルゼルダ団長くらいなものだった。
普段のわたしは、「風変わりな魔法を研究する魔法使い」としてウルフレアの魔法師団に在籍している。魔法を使うときには皆と同じように呪文を使うし、魔道具で魔力を抑えられているせいでその効果は平凡なものだ。
そのせいか、以前よりナリスは婚約者がわたしであることに不満を持っているようだった。魔法使いの血を入れたいのと、宰相家並びに魔法貴族とのパイプを強固なものにするためという対外的な理由を信じているナリスは、一応婚約者としてわたしを大事にはしてくれたけれど、今思うと心は伴っていなかったように思う。
だから、ナリスがわたしの持つ“本来の価値”を知らされたら、さすがに婚約を撤回するんじゃないかとは思う。“魔声”は、悪用しようとしたらいくらでもできるからね。それを恐れてか、過去の魔声持ちの中には殺された人もいたみたいだから。
とはいえ、あそこまで言われて戻るわたしでもない。話し合いの際にユナリーリア嬢がいなければ、その場で能力について明かしていたかもしれないけれど、一旦こういう結果に落ち着いた今となっては、もうどうでもいいというか、ナリスと結婚はしたくないなぁというのが本音だ。
ということで、逃げよう。そうしよう。
誰もいない廊下で一人、わたしは拳を握りしめた。