立ち食いそば屋で、声を荒らげる男。
2016年11月09日 18:40 新宿。
新宿駅西口から、大久保方面に進んだ所に、一件の立ち食いそば屋を見つけた。
暖簾越しに店内を覗き込むと客が二人。
そして、職人気質の店員が、一人で切り盛りしているようだった。
中に入ると、食券を買わずにカウンターで注文する形式らしく、「ご注文が決まりましたら、言ってください」と店員は微笑んだ。
私は、何を食べようかと壁に貼ってあるメニューに目を向けた。
天ぷらそば、うどん 350円。
月見そば、うどん 330円。
わかめそば、うどん 320円。
かけそば、うどん 300円。
この4品を見て、一番天ぷらそばがお得な感じがし、サイドメニューにも注目していた。
後から入店した男が、躊躇なく「ワカメそばっ、ネギ抜きで」と注文。
ワカメそば・・・?
余り聞き慣れない言葉の響きとワカメそばこそが、蕎麦界の王道であるかのような物言いに、笑ってはいけないと思いつつも、ふっと、鼻から息が漏れた。
しかも、ネギは邪道だと言わんばかりの堅牢な意思にすごみがある。
確か320円だったはず。壁のメニューを今一度確認する。
あと30円足せば、天ぷらそばが食べられるのに、どうしてワカメそばなんだ・・・。
私は水を飲むふりをして、隣の男をちらりと確認した。
瞬時に、その意を解した。そうかっ、ハゲているからか。
ワカメそばを頼んだ中年サラリーマン風の小太りの風体に納得し、少し間を空けてから、
天ぷらそばとおいなりさんを注文した。
2分と立たない素早さだった。
ベテラン店員はカウンターから手を伸ばし、丼を隣の男の前に置いた。
すると、「ネギを抜いたんだから、ワカメを多く入れてよ〰ぉ」とゴネ出した。
新宿は、世界でも有数の大都市。様々な思いを持った人間、人種が犇めき合う街。
それゆえに、欲望も多彩だとでもいうのか・・・。
店員は、わずかに表情をゆがめて丼を取り、ワカメを足して再び男に渡した。
「えーっ、これだけ?もっと入れてくれよ〰ぉ」
ワカメに対する執着が只ならない。これが新宿なのか・・・。
私は恐る恐るゴネる男を再び見やる。それは慎重に。
隣の男の頭が、薄毛なら致し方なしとも思うが、額から後頭部まで、すっきりと道が出来ている。ワカメじゃ効かないレベルだ。
知り合いが、薬とリアップで、髪の毛が復活した情報を教えてやろうとも思う。
だが、男の欲望に口出しをする訳にはいかなかった。
この見ず知らずの男が、神通力のようにワカメを信じていたなら、信心を逆撫でてしまう。さすれば、命は幾つあっても足りない。
何度も言うが、ここは新宿なのだ・・・。
私の心配を他所に、ベテラン店員は動じなかった。
ちらりとワカメ男に視線を向けた後、「申し訳ありませんが、これ以上ワカメをご希望でしたら、トッピングの追加として30円お願い致します」と丁寧に頭を下げた。
「えーっ、30円も取るのかっ」
このサラリーマンのせいで、天ぷらそばが出てこない。
私は沈黙を続けて観察した。常人ではない、ここまでずうずうしい男はそうはいない。
「え〰っ、おまけしてよ〰ぉ」
尚もゴネる。
ベテラン店員は、慣れた様子で渋い顔を作り、頭を下げる。
「すいません、こういった安い店ですので・・・」
臆しながらも、さすがに苛立ってきた。この男のせいでそばが出てこないのだ。
他の客も、ワカメと騒ぐ男に白い目を向けている。
いい加減にしろと、私が咳払いをしても、この男にはワカメしか眼中にないらしい。
「こんなに頼んでるんだろうがっ、ケチるなよっ」
この店には、ワカメ男以外4人いた。皆、お前がケチってんだろうと思っている。
ワカメ男は尚も息巻いた。
「俺は客だぞっ、どうせ雇われ人だろう。上に言ってクビにしてやろうかっ!」と熱く、
そして、焼いたトマトのような色つやを帯びてきた。
この一言に、店員はさい箸を力強くぴしゃりと置き、鋭い眼差しを向けた。
「だったら、食べなくていいですっ。帰って下さいっ」
「食わないとは言ってないねっ。食ってネットに書き込んでやるっ」
ワカメ男は、ぶつくさと文句を言って、ずるずると食べ始めた。
ベテラン店員は、悔しさを面に出さず、「天ぷらそば、お待ちどうさま」と私の前に丼をコトリと置いた。
あーっ、やっと食べられると箸を割って、七味をかける。
喜びも束の間、ワカメ男が私の丼を覗き込んできたのだ。
「あれっ、こっちの客の天ぷらそばには、こんなにワカメが入っているっ。俺はワカメそばだぞっ、ワカメ中心ってことだろうっ」
私は驚愕した。今確かに、「俺はワカメそばだぞっ」と言い切った。
人間じゃないのかっ!?
しかも、ワカメ中心って、ワカメを中心に、この地球が回っているとでも言いたいのか。
コペルニクスもビックリする発言だ。
ワカメ男は、今度は私のそばにケチを付け始めた。只ならぬ男の執着にサイコを見た。
私も店員も他の客もムカムカするも、万能ボンド的な粘着力に危険を感じ、無視を決め込んだ。
相手にされないワカメ男はずるずると、そして、くちゃくちゃと意地汚く食べた。
満を持して、箸でワカメを束ね、一思いに口に放り、噛み締めた・・・。
「あうっ!」
突如、ワカメ男は、新体操のシライ2を彷彿とさせるが如く、仰け反った。
今度は何だと、全員が、目を見張る。
「うーっ!頬を噛んだっ」と実況し、騒ぎ立てた。
私はざまーみろと内心ほくそ笑んで、眼光鋭きベテラン店員の様子が気になり、ちらりと見ると、くるりと背を向けて肩を上下に揺らしていた。
ワカメ男は頬を抑えて、箸を置くと俯いた。
「痛ーっ・・・」
あれほど、ワカメと喚いていた男は、打って変わって、おとなしい。
すーはーしーはーと呼吸することで、痛みが過ぎ去るのを待っているようだ。
私は、やっと静かに自分の天ぷらそばと向き合えると、つゆを含んだ天ぷらを口にした。
ワカメ男が黙ると、店内がこんなに静かだとは思わなかった。
とはいえ、隣では、さっさと帰れば良いものを、未だにすーはーしーはーと息を漏らし、時折、「ううっ」と声を漏らすため、存在感がこの上なくうっとうしい。
ベテラン店員さんは、溜まりかねた様子で、ワカメ男に声をかけた。
「お客さん、お水を差し上げましょうか?」
自らを、ワカメそばと名乗り、ワカメ中心説の提唱者として振舞っていた男は、頬を抑えながら顔を上げた。
「いっ、いらない・・・」
風船がしぼんだように、それはか細い声だったため、店員は聞き返した。
「えっ、なんですか」
「いらない、帰る・・・」
食欲が失せたのだろう、ワカメ男はアゴをへし曲げ320円を置く。
財布を持つ左の薬指には、銀色の指輪が輝いていた。
否応なく、彼を一人の人間として、あるべき背景を想像させる瞬間であった。
ワカメ男は背中を丸め、もの寂しさを滲ませて、店から出て行ったように映った。
隣の丼を覘いてみると、ふやけたワカメがつゆの底に沈んでいる・・・。
憶測だが、恐らくワカメ男は、家庭でも職場でも疎んじられているのかもしれない。
私を含め、人は、物事がうまくいった時。また、誰にも相手にされず、見向きもされぬ時。
いずれにしても、他者に認めてもらいたいと思う。
自慢する者、SNSで『いいね』を強要する者、強情者。あるいは、他者を攻撃し、自己存在の正当性を知らしめようとする者。手段は違えど、肯定してもらいたい気持ちが裏にある。
バカバカしく見えるワカメ男が、特殊な変態ではない。
程度の差こそあれ、満たされぬ思い、苛立ちが、たまたま立ち食いそば屋で爆発したように思えた。
悲しき人間の性を、この新宿で見た思いがした・・・。
私は、丼の底にへばり付いたワカメを口に入れ、気をつけねばと自戒し、
天ぷらそば代350円を店員に渡した。
「お客さん、あと30円お願いします」
私は意味が分からず、壁の値段を再確認した。
「天ぷらそば350円ですよね?」
「そうですが、ワカメのトッピング代を・・・」
私は頼んだ覚えはない、瞬間的に怒りが込み上げるも、平静を装う。
「頼んでいませんよ」
ベテラン風の店員は首を捻って、疑惑の眼差しを向けている。
「あれ〰っ、さっきワカメって言っていませんでしたか?」
「ワカメはさっきの客だろうっ!俺じゃねえよっ」
突発的に、私は怒りをぶちまけてしまった。
店員は尚も押してきた。
「え〰っ、でも、トッピングしたんですけどね」
つい5分前の記憶が巻き戻された。
私の天ぷらそばが出てきた時、ワカメ男が「こっちのワカメが多い」と騒いでいたことを思い出す。
やみくもに因縁をつけていた訳ではなく、アイツは間違っていなかったのだっ。
このそば屋のオヤジが聞き間違えて、勝手に私の天ぷらそばにトッピングしたのだ。
しかも、今、私を見る目が「ワカメを多く食ったのに、金を払わず渋る客」と責任を転嫁している。
この野郎・・・誰が好き好んでワカメなんかトッピングするかっ!
更に、怒鳴ったり怒ったりしたら、アイツと同じになる。
たかが30円を渋るつもりで、怒っている訳じゃないっ。
不必要にゴリゴリと固く、恐らく中国産と思しき美味くもないワカメで揉めること自体、腹立たしい。
悔しいけれど、30円踏み倒して警察沙汰にされたら、笑い者もいいところだ。
仕方なく、財布を取り出した。
ベテランを気取る店員は、惚けてレジの画面を見て、スカしている。
その白々しい惚け方が、ムカムカとし、さっき食べた天ぷらが脂っこいと怒りと入り混じる。
このまま、大人しく勘定を済ませるのかっ、泣き寝入りするしかないか。
飲み屋でクソまずいお通しに、500円支払うくらいに悔しい。
財布の中を見つめていると、私の内なる悪魔が囁いた。
それ、出しちゃえよ・・・。
多少の戸惑いもあったが、スカした店員に微笑んだ。
「じゃあ、1万円でっ」
私は王手とばかりにビシっと置き、指先を前に進めた。
店員は、この世の終わりのように目をひん剥いた。
勝ちも負けもない、小さい丼のつゆの中で、ふわふわと浮遊し、沈殿するワカメのように、
私もこの新宿で浮遊する存在なのだろう。
(終)
貴重なお時間を割いて御拝読頂き、誠にありがとうございました。
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