短編7.『影人形』その15
「子供が出来たんだ」
ドゥテから出会い頭に受けた報告を、ペアテは真顔で聞いてしまった。
「え……そう、なの?」
「うん。徴があってな、なかなか言い出せなくてすまない」
自分の下腹を撫でる姉の姿と、子供という言葉が結びつかないまま、彼女の頭はゆっくりと再始動していく。
「お姉ちゃんも、これでお母さん、かあ」
「手は、多いほどありがたい。これからも、どんどん産んでいくつもりだ」
「あは、お姉ちゃんらしい」
「ペアテも、クオタと始めているんじゃないのか?
母親になるのは、いいぞ」
怜悧な知性の象徴としてみなしていた顔は、不敵に微笑んで、そう主張した。
ここがどこで、今がいつか、何の用事があったのか、ペアテは全部を忘れた。
何をどう答えたのかも、何か尋ねたのかも覚えていない。
自分を作り育てた世界が、自分を見捨てたのだと、そう思った。
準備を待たず、世界は子供を大人に作り変えていく。自分がそうと望むこともなく、否応もなしに、時が体を作り変える。
二年間、そばにいなかったうちに彼女が見つけた相手とは、あのドゥテが認めた相手とは、一体どのような人物なのだろうかという、信じがたさだけは、真っ白に染まった思考の中に、微かに紛れていた。
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「そうか。それでヨウィとメルラの様子がおかしかったんだな」
夜、二人きりでクオタに打ち明けてみると、そんな言葉が返ってきた。
「ペアテはお姉ちゃん子だったから、きっと衝撃を受けると思ったんだろう」
「私、お姉ちゃん子だったかな?」
「おいおい、ドゥテが組を上がる頃と、上がってからしばらくの事、思い出せるか?
あの頃の君はひどい顔をしていたんだぜ」
そうかなあ、そうなのかな。
ペアテは心外そうにぺたぺたと両手で自分の頬を挟み込む。
「でも、よかったんじゃないか?」
「?」
「俺たちも、直に組を上がる。ハースの面倒を見るのも、いい予行演習になったと思えばいい」
「赤ん坊とハースとは全然違うよ」
「そうなのか? 分からんもんだな」
「うん。私、見る機会あるから」
大人の集落側では、子育てをしている女性の姿も散見される。
泣き声は盛んで、昼も夜もないと聞かされた折には、ガザのように体力をつけようと考えた。
「ねえ、私も、子供を作っていいのかな」
「うん?」
男であるクオタには、いまいち抱いていた不安が伝わっていないようで、首を傾げられる。
「私、まだ、全然大人になれていないよ」
「冗談はやめろって!
ペアテが子供なら、ほとんどの大人は子供のまんまだろ。
ドゥテもペアテも、立派な大人だよ」
「子供を作ることだけが、大人?
何かを作ることだけが、大人?」
「違うのか? 俺はそう思っていたけどな」
少年から男へと成長途上にある顔は、あっけらかんと言い切った。
つるり、つるり、顔の右側にある、潰れた傷跡を、手で撫でつつ、深呼吸。
表情が、置き換わっていく。
影人形を探そうと言い出した時の表情。
ペアテにだけは打ち明けてくれた、影人形を探そうという、本当の理由。
『俺、信じたいんだ。
こんな世界でも、自分を救ってくれるような誰かがちゃんといてくれるんだ、って』
「なあ、ペアテ。二年前に俺が言ったこと、覚えてるか?」
「驚いたから、忘れられないよ。
私はすごく子供っぽい理由で探そうとしてたんだもん。
クオタは誰かに救われたかったんだよね?」
「そりゃ、昔はな」
笑わずに、クオタは彼女を見つめてきた。
「無力な子供だと思っていた。他の皆と同じで、いつ死ぬかも分からない。
今もあんまり変わらないか。無族が湧き出せば、泥沼の殺し合いになる。
だから、誰かがこの世界を救ってくれるっていうんなら、いつだってありがたく恩恵に被るよ。
ペアテは違うのか?」
「『お礼が言いたい』っていうのは、今思い返すと、言い訳だった気もしてるんだ」
薄暗いテントの天井を見上げながら、遠くにかすみ始めた過去に手を伸ばす。
二年間近く、自分を守ってきた、影人形の布切れは、頭上へ差し伸ばした両手の先に、もう存在してはいなかった。
「私はね、生きたかったんだ」
「ペアテは皆を生かしてる」
「ううん、そういうことじゃないの。大人って、私が思う大人って、そういうものじゃないの」
肩を抱き寄せられ、ぬくもりに浸りながら、二年前、土砂の中に置き去りにされたままの自分が、隣の愛しい男の腕から抜け出す。
「何が出来るから大人、何かが出来ないから子供、そういうものじゃない」
「よく、分からないな」
まなざしを見れば、心がここにいないのは、クオタにも分かった。
いや、同じ体験をしているクオタだからこそ、本当は分かっていた。
「私はね、生きたいの。
お姉ちゃんが……ドゥテが、周りの大人たちと一緒に私を見捨てたあの日から、ずっと、皆の中で、生きたいの」
見捨てられた時、自分の一部は死んだ。
クオタの片目は永遠に損なわれ、本来そこに映されていたはずの光景も、二度と得られずにある。
だからよく分かる。
「だって、私を見捨てたドゥテが、子供を産むんだよ?
おかしくない?」
がり。
硬い音が、座り込んだ床から響いた。
「ドゥテ一人が、アリテラさんと親子のつもりで笑いあっていたの。
私、忘れない」
がり、がり、がり。
音がする。何の音だろうと、ペアテは不思議に思った。
あまりうるさくすると、寝ているハースを起こしてしまうのに。
「大人ってさ、『いないと困る人』でしょ?
いないと皆が困る人なんだよ。
だから私はもっと頑張って、新しいことをしなくちゃいけないのに、子供なんて作る必要、あるのかな?」
「ペアテ」
何故にか、短く呼び止められた。
がりがりと音がうるさい。
「ヨウィくんの魔法の話、私もすごくいいと思うな。
人間が皆魔法を使えるようになったら、皆も私たちを忘れないでしょ?」
「ペアテ!」
クオタに、手を掴まれた。
彼女の不思議そうな視線に対し、クオタはとても苦いものを口にした顔で、眉を苦しげにしかめている。
かり、かり、かり、かり。音がする。
「掘らなくてもいいんだ。
ここはあそこじゃない」
「クオタ、何を言ってるの? 急に変だよ?」
「君こそどうしたんだ!
指で床を掻き出して、ああ、爪が少し折れ曲がっている……」
両手とも持ち上げられた自分の指先を見て、ペアテは驚いた。
痛みがある。
「俺じゃ駄目なのか?
俺が君を大事にする。それじゃいけないのかよ?」
「……クオタくんが私を大切にしてくれてるのは、何となく分かるよ。
だって、」
ドゥテを選ばなかったでしょう?
あの人は、見捨てる側の人だから。
「……んんー」
ハースの寝苦しそうな声が、はっと二人を引き戻す。
気がつけば、声が大きくなっていたようだ。
「それでまた、影人形を探そうと思ったのか?」
「忘れたことは、ないんだよ。
ずっと他のことをしていただけで」
「だけど、あれから影人形に救われた子も出ていないし、手がかりが全然なかったのも確かだろう。
ドゥテだって大人に聞いてくれたりしてるし、ヨウィも霊族たちにまで尋ねて回ってる」
「クオタは、影人形さん、いないと思う?」
見上げてきた視線に、彼は言葉に窮する。
見開いた目は、どのような曖昧さも認めない垂直さでもって、クオタに切り込んできている。
「信じちゃいるよ。信じてる。
そうでなかったら俺たちはここに生きていないだろ」
「そうじゃないよ。クオタくん。
私はね、信じてるかどうかじゃなくて、いるかいないかって聞いたんだよ」
「信じてるって、いるって答えと同じだろう。何だよ、何でそんなことにこだわるんだ」
「影人形さんは、いるって思わないと、いないんじゃないかな」
よく、言っている意味が分からなかった。
言葉遊び以外の何だというのだろうか。クオタは、ペアテが姉の懐妊という情報を耳にして、混乱しているのだと解釈した。
だが、違った。
「子供が、一人で落盤に巻き込まれないと、影人形さんは現れない。
どうしてだろうね。そんなに誰かに姿を見られたくないのかな?
そうじゃないよ。
誰も見ていない条件でしか、影人形さんは現れることが出来ないんじゃないかな。
どうして子供だけなんだろう?
大人だって一人で落盤に巻き込まれること、あるよね。でも、大人はそのまま死んじゃってる。
誰が大人と子供を見分けるんだろう?
影人形さん?
でも、どうやって見分けてるの?
落盤の向こう側は、誰がいるのか、しばらく分からないこともあるよ?
誰が落盤に遭ったかは、確かめて回ればすぐに分かるよね。でも、そんな目立つことをしてる人、いたのかな?
いないよね。いたんだったら私たちが二年も掛けて聞いて回ってるのに、そういえばと思い当たって話してくれる人が出ないなんて、おかしいもの。
魔法って、どんな魔法なんだろうね。
子供が一人で閉じ込められている時にしか使えない魔法が、もしもあるんだとしたら、辻褄は合うんじゃないのかな?
大人と子供の違いって、何なんだろう。
思うんだけど、『子供がいるかいないか』とか、『体がどれだけ大きいか』とか、そんな曖昧な条件じゃないんだよ。
そんなの、魔法でどうやって見分けるの?
そうじゃない。
魔法でしか見分けられない基準があって、それが、私は『皆に必要とされているかどうか』なんじゃないかって言ってるの」
クオタは驚いた。
これだけしっかりとした考えがあるにも関わらず、話してくれなかったことにも驚いたし、そこまで理屈を並べるほどに、自分の中にある考え方を肯定しようとしているペアテの異様な情念に、何より驚いた。
ペアテは両手を掴まれたまま床を眺めている。
床に、視線を、落としているというよりも、床に突き当たっているようなまなざしだった。
どこにも切れ目のない壁に、立ちふさがられているようなまなざしだった。
「いつも君は言いたいこと、なかなか言わないんだな。
二年前のことをやっと今になって言うんだぜ、困るって」
「聞かれなかったからね」
力なくペアテは微笑んでいる。
「大人はいつも、子供に聞かないんだ」
「俺が、大人だって思ってたのか?」
「クオタくんは、大人に見えた。だから好きになった。
あなたの子供が欲しいって思った。
あんな地獄にいて、まっすぐに救われることだけを考えられるあなたを、私はいい人だなと思ったんだよ?」
掴んでいる両手から、力が抜けたのを察し、クオタは離してやった。
床にだらりと垂らしたペアテの両腕は、視線と同じで、そこに行き当たると、無気力に止まってしまっている。
「誰かが救ってくれたって、どうして信じられたのかな。
どうして偶然助かったって思わなかったのかな。
どうしてそんなに、あなたは世界を信じられたのかな。
裏切られたのに」
「だから俺が大人に見えたっていうのか」
「うん。
だって、私にあなたは必要とされていた。
必要な人だった。
だから大人だと思ったんだよ」
「いないと困る人、か」
頭を掻いて、ため息をついた。
「同じ目に遭った仲間だからか?」
「他の子たちとは違ったよ。
昔助けられて、今、大人になってしまった人たちとも、あなたは違った。
大真面目に、自分を救った誰かが本当にいて、それを確かめようとした。
目を付けられて、怖い目に遭うかも知れなかったし、困ったことになるかもしれなかった。
ううん、眠かったし、大変だった。それだけでも、あれを続けるのは、私だけじゃ難しかった」
最初の頃、坑道にこっそりと潜り込んでは、手がかりを探していた頃のことだろう。
今思えば、無茶なやり方だ。前に崩落したからといって、もう安定した訳ではないのだし、手がかりが目に見える形であったら大人たちが持ち帰って同様に影人形を探していたはずだ。
それでも、周りに話を聞いて回ることも出来ず、魔法で調べるなんて都合のいい方法もなく、行くところが他にどこにもなかった。
だから、そうした。
クオタに言わせれば、一から十まで苦肉の策で間違いない。
「誰が影人形さんだとしても、無条件で私たちを救ってくれない以上、見つけてもしょうがないと思ってた。だから、今まであんまり考えていたことを話さなかった」
「魔法を人間が使えるようになるって、本気でペアテは信じてるのか?」
「…………」
沈黙が、雄弁にペアテの内心を伝えてきた。
やはり、そうなのだ。
あんな夢物語を本気で信じているのは、やっぱりヨウィ一人だけだ。
「どうしても答えを出さないと、生きていけそうにないのか。
大人って何かが、そんなに大事か?」
「子供を産めないクオタくんには分からないよ」
「ドゥテは?」
ぴくり、ペアテが体を揺らして反応した。
「ドゥテには分かるんじゃないのか?
どうしてドゥテには聞かない?
あいつこそ、周りが必要としている、『いないと困る人』で、『何かを作った人』で、『子供を作っている人』だろ。
あいつこそ、ペアテのいう大人そのものだ。
聞けば良かったじゃないか」
「聞けると思うかなあ?」
ゆるり、首が回って、顔がクオタの方を向く。
「大人を信じていない私が、大人の代表に、聞けると思うかなあ、クオタくん」
「大人に、ならないつもりなのか?」
子供を作らないというのは、ここで暮らす以上、考えにくい生き方だ。
それが当たり前だと皆で思っている。
彼が引っかかったのは、そこだけではない。
「大人だと、周りが君を認めた時、大人を信じない君は、自分を一体どうするつもりなんだ?」
ハースが寝返りを打ち、再度唸り声を挙げた。
「うるさいよう、ペーねぇ、クーさん」
それで、どちらからともなく会話を止め、二人は床に就いた。
ハースを間にして、寄り添うように眠る格好に変わりはなかったが、眠りに落ちるまで、二人の視線が結ばれ合うことは、ついになかった。




