短編7.『影人形』その13
ペアテは、擬似坑道へは入らなかった。
森を拓く許可や、木材を切り出し、加工する道具も得られたし、人間をあからさまに馬鹿にしたヴゥーヴァーズのやり口が酷かったので、臆病者だなどと文句を言う大人も出ていない。皆、彼女が一年前、落盤に遭っているのも、知っていた。
きっと、地霊族たちも知っていたのだろう。
(人間の見分けなんてついていないふりをして、たまらないよな)
ヨウィは、肩を震わせているペアテの後ろ姿を、当分忘れられそうになかった。
悔しさか、それとも恐怖でか、彼女は震えていた。
目的を無事に果たせたはずなのに、その横顔に、微笑みはなかった。
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さらに一年が経った。
「ハース、時間だよ」
怜悧なまなざしの少女は、蹲る女児を引き起こし、寝癖の跳ね回る伸び放題の髪を撫で付けてやる。
「今日は森に行くんでしょ、皆に遅れちゃ駄目だよ」
「ペーねぇ、早いー。まだご飯前だよ……」
二年前、抜けたドゥテの代わりとして、ペアテらの組に入れられたのは、まだ物心ついて少ししか経っていない、幼いハースだった。
「ガザが、大人組に混ぜたら当分危なっかしいままだから、きっと最年長になる位まで上げるのを引っ張る気で、小ちゃい子を入れたんだよ!」
ヨウィは当時、そのように主張していた。彼の言を信じるなら、周りからは、ペアテとクオタが番いになる前提で厄介者二人の面倒を見させていることになる。
だが、彼女はもう、以前ほどクオタに執着はしていなかった。
「もう行くのか?」
子供らしい丸みの完全に消え、ひょろりと全体的に伸びたクオタは、くたびれた顔つきをしていた。影人形探しは、しばらく前からしていない。
すっかりと大人の仲間入りをする準備が出来たらしく、このところはもう、誰かが救ってくれるなんて夢みたいな話は口にしていなかった。
「私はいいと思うんだけど、ごはん前からみんなと一緒にいろってペーねぇがー」
「ははっ、そりゃ仕方ないな。ペアテが言うなら、そうなんだろうよ。
ほら、ヨウィたちとしっかりやって来いよ、ハース」
暖かい笑みを隻眼の顔に浮かべ、ハースを送り出すクオタ。ペアテが惹かれたその優しさは、今も失われていない。順調に、年を重ねるごとに深まっている。
だから、彼が変わってしまったのではないのだ。
誰かに救われると信じるより、目の前のハースやペアテ、ヨウィらを、自分の両手で救っていこうという覚悟に、その思いが結実していったというのが、本当のところなのだろう。
(それは、変化というより、成長だもの)
順当に行けば、来年には結ばれる相手と柔らかな視線を交わし合い、彼女は述懐を締めくくった。
テントの幕を捲り上げて出て行く小さなお尻を見送りながら、ペアテは既にいないもう一人の共同生活者を話題に上げる。
「ガザくん、うまくやってるかな」
「力だけは認められてるんだ。文句を言わせなきゃ、あいつだって好きで揉めたりはしないだろ」
ガザは、あまりにも体力がついたので、坑道の奥に籠る組に混ぜられていた。時折戻ってきては、無族を倒しただの、デカい岩を掘っくり返しただの、土産話を聞かせてくれる。今のところは大きな怪我もなく、無事にやれているようである。
「ハースとも、意外にうまくやってて驚いたぜ」
「あんまりひ弱な相手だと、壊しちゃいそうで、却って慎重になるんだって。お姉ちゃんの策がうまくはまった感じ」
テント内の昔馴染みのメンバーの前では、ペアテもまた、姉に似せた気丈で張り詰めた仮面を脱ぎ去り、表情を緩ませている。
引き締まっていくばかりのクオタと打って変わって、体つきのメリハリが付き始めた彼女は、無邪気に無防備な格好で、彼のそばに身を寄せていた。
「……こうして俺たち、少しずつ年をとってさ、少しずつ世界を変えて、子供たちの暮らしが、いつかは良くなったりするのかな」
足の爪先を手入れしつつ、ぽつりとクオタがつぶやく。
「俺なんかだと、想像もつかないんだ。
ペアテやドゥテみたいに、変われる未来を見つけられないからな、俺」
足の爪の手入れは、素足で暮らす彼らにとり、欠かせぬ生活習慣の一つだ。割れでもしていたら、血の通っている部位と違って、なかなか再生しない。それで、丁寧にこすり、手入れをする。
大人も子供も関係ない、人間族共通の習慣。
これを必要としない未来を、クオタは思い描いたことがない。
そもそも、ここ以外で人間がどのように暮らしているのかすら、数年に一度、流れ着いてくる外の人の口からしか聞く機会もない。
変わる、という発想が、日常のどこにも転がっていない。
(それだけに、影人形探しは何かが変えられると思ったんだ)
正体不明の存在。しかも、魔法を使う、人間の味方。
ヨウィに言わせるなら、
「この手掛かりを放すわけにはいかないって!」
というほどの、大転機に、彼もするつもりだったのだ。
年さえ取らなければ……。
「そんなことないよ!
言い方は良くないけど、クオタ、落盤に遭う前より優しくなった」
「そうか?」
口では疑問をさし挾んだが、あの地獄を体験して、間違いなく良かったと受け止めているのは、自覚していた。
今ではこうして、ペアテとも気を許し合う仲になれている。昔の自分だったら、真面目で浮かない姉よりさらに冴えない妹、この子と一生暮らすのかと、反発していたかもしれない。
(影人形には、やっぱり感謝しかないな)
かつての自分は、明らかにこの子の価値を見誤っていた。二年前に影人形探しを賛同してくれた時でさえ、同じ体験を共有する仲間意識以上のものは持っていなかった。
「どうしたの?
じっと見つめて、恥ずかしいよ」
「ペアテが言うんなら、そうなんだろうなと思ったんだよ。
さあ、俺たちもそろそろ行こうぜ!」
照れてはにかむ近い将来の伴侶の肩を軽く叩いて、クオタもまた、外の世界へと赴いた。
濡れないだけの簡素な住居で、じっと身を寄せ合いながら過ごしてきた家族。世界は厳しいままだが、彼女となら、そんな世界に生きてもいい……、今を踏みしめ、未来に歩き出せて行けそうだと、緩やかな勇気が成長期真っ盛りの少年の体を、押し包むのだった。