短編7.『影人形』その8
「お母さんと会えたんだね、ドゥテお姉ちゃん。
頑張ってきたおかげだね、良かったぁ」
ペアテは咄嗟に口走った。
賢い姉に機先を制されると、きっと自分はうまく言いくるめられてしまうだろう。
ううん。言いくるめられたがっているのだから、間違いない。
だから、真っ先に刺さって抜けないだろう、この場での致命傷となる言葉を選んで、姉の耳に刺した。
そこまで自分の思考の流れを把握したのは、喋り終えたのと同時だった。
耳に伝わってきた声は柔らかだったから、顔も、きっと微笑んで祝福出来ているはずだ。
その方が、よく刺さる。
だからペアテは意識して喜びの感情を自分の中に作った。
これはとてもいい出来事なのだ、と。
そう、ペアテは自身に言い聞かせた。
「あ……」
「ん?」
珍しく言いよどむ姉を、にこにこと見つめながら、手を後ろに組み、小首を傾げる。
隣では、ガザたちが成り行きの違和感に気づき始めていた。
ペアテの反応が、いつもより早すぎる上に、話す内容も段取りを飛ばしている。普通なら、母親かどうかを確かめる対話を挟んでから来るべき言葉だ。少なくともガザは、直前に彼女が母親の顔を覚えてもいないという話を聞いたばかりであったし、ヨウィも、場の空気から情報を読むのに長けているため、このおかしさに気づけた。
また、ペアテの言葉を受けての、ドゥテと隣の女性の反応が不自然でもあった。
「アリテラというんだ、そうだ」
不自然な箇所で言葉が切れかけ、継ぎ足される。まるで頭の回転が追いついておらず、その場で考えながら喋っているようなドゥテの対応は、紹介された隣のアリテラにも影響が及んだ。
ガザたちからは、明らかにアリテラはどう振る舞ったらよいか戸惑っている風に見えた。
「そう。お母さんは、アリテラさんなの」
「あの! 俺、その、クオタさんたちの話に混ざりたくって、それで!
ドゥテさんにも意見を聞いた方がいいってクオタさんが言うから、迎えに来たんだよっ!」
ヨウィが割って入るみたいに、前に出る。
いつもの調子でやらかしてしまったのは自分だとばかりに、大きな身振りで説明した。
その行動が誰に向けられたものであるかは、対象であるペアテにもよく分かっていた。
「ごめんなさい、ドゥテお姉ちゃん。
見つかっちゃうと私たちが怒られちゃうから、邪魔しちゃって悪いけど、一緒に帰ってくれないかな?」
アリテラは、ペアテの視線の先で、彼女と、傍らにいる娘と、どちらを見るべきか、目を泳がせそうになるのを懸命に堪えている。
「ほら、ガザくんについてきて貰っちゃったから、大人の男の人と顔を合わせると、喧嘩になっちゃうかもしれないでしょ?」
「な……!」
心外そうにガザは怒鳴りかけ、止めた。
相手であるペアテが自分を見ていない。
「そう、だな。元々ここまで送ってもらうだけだったんだ」
こくりとドゥテが頷く。それから、隣のアリテラに、
「おやすみなさい」
とだけ、夜の挨拶を交わしてお辞儀した。
集落の出入り口から歩み出てきた姉を、ペアテは小走りで迎え入れ、ぎゅっとその腕に両腕を絡める。
肩越しに、姉と同じように挨拶をした。
「おやすみなさい、アリテラお母さん」
二人の男子を率先するように、帰路につく姉妹を、慌てて追いかけるガザたちには、アリテラへと会釈をする余裕も与えられなかった。
佇む大人の女性の輪郭は、彼女らの背後で、徐々に遠くなっていくも、完全に見えなくなる距離が開くまで、いなくなることはついぞなかった
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白々しい夜空が、相変わらず子供たち四人の頭上に広がっている。
世界を守っているという、満天を掃き染める無数の星粒と、一際大きく、また一番に輝いている、丸い銀盤。
それらは眼下の営みを一顧だにする素振りも見せていない。
ヨウィとドゥテが、ペアテとガザの前で、何か言葉を交わしているようだった。
ペアテには聞こえていない。
ペアテには、姉の背中しか見えていない。
(お姉ちゃん 、お姉ちゃん 、お姉ちゃん 、お姉ちゃん ……)
頭の中が、頭の中のドゥテでいっぱいに満たされていて、目の前の姉の、背中しか頭に入ってこない。
ペアテは、ドゥテだけが母親と何度も会い、語らっていたのだろうという事実には、衝撃を受けていなかった。
逆だ。
ドゥテに、妹であるペアテよりも、もっと特別な存在がいた。そのことに、傷つけられていた。
(顔も覚えていないアリテラさんより、ずっとそばにいてくれたお姉ちゃん の方が大事に決まってる……!)
初めて抱く、胸焦がす感情は、自分でも意外なことに、クオタへの緩やかな慕情が、姉によって葬り去られるのではないかという甘い焦燥や恐怖ではなく、実の母親への、火を噴くような嫉妬だった。
いや……血を噴くような、と形容するべきかもしれないと、口内を舌がなめずり回る。
夢で見た、母の乳の味を、ペアテは忘れていない。
あれは、ドゥテの血の味だ。
何千時間も見つめてきて、なんで口内に含んだ感触を間違えようはずがあろうか。
あれは、ドゥテの指の形だ。
目覚めた直後、姉がテントの外から顔をしか覗かせなかったのは、指先が傷ついており、見せられなかったためだろう。
気づかれれば、心優しい妹が胸を痛めるとでも、あの心優しい姉は思いやってくれたに違いない。
血が出る程度の傷なら、土砂運びの労務を終えた後には、すっかり汚れで紛れてしまって目立たない。そこまで誤魔化せればいいのだとでもいう風に、あの後のドゥテは手先を隠し続けていた。
(私たちのそばにいなかった癖に、ドゥテが立派になったからって、今更のこのこ現れて、私の居場所を取っていく……!)
ペアテの瞳が、ドゥテの目の届かない背後でぐるぐると濁り、その灰色の輝きは陰った。
眼窩の輪郭は、その小さな顔の薄べったい皮膚の下、どこにこれほどのシワを寄せる筋肉があったのかというほど、歪に波打っている。激しく尖っているのは、そこに巻き込まれた、細い眉毛だ。
(ドゥテ、ドゥテ、私のたったひとりの間違いのない居場所を……!)
目の前を歩くのは、彼女と同じで小さな背中だ。
だが、ペアテにとっては、隣を歩く屈強なガザの肉体よりも信頼の置ける背中である。
賢く、大人からは勿論のこと、大人に一目置かれているガザからすらも認められている、最良の庇護者。
その影に隠れたまま、これからもペアテは気弱で優しいその妹として一生を過ごしていくつもりだった。
だってそうだろう。
(私より早く死ぬに決まっている、そばにいてくれもしなかった実の母親なんかより、お姉ちゃんの方がずっと母親にふさわしい)
いたい。さむい。くるしい。こわい。
さみしい、つらい、たすけて、タスケテ。
そんな時にいなかった相手のことを、どうして初対面で信じられようか。
ペアテは、本当は影人形のことも、ドゥテではないかと既に当たりをつけていた。
だって、その方が、よっぽど納得が行く。
普段は冷たくて、でも、賢い姉。
ヨウィの言う通り、賢ければ、学べば人間も魔法を使えるようになるというのなら、真っ先に魔法使いになるべきはドゥテだろう。
ううん、本当は嘘だ。ドゥテが影人形である方が、自分が特別でいられるような気がしたのだ。
卑しい、浅ましい。特別な誰かのお下がりで、自分も特別扱いされるつもりでいた。
誰がそうしなくとも、自分で自分を特別扱いしようとしていた。
でも、事実は違った。
ドゥテは、ペアテに嘘をついていた。
ペアテと違って、母娘の関係の方が、姉妹の絆より、特別だったのだ。
その嘘をついた罪悪感からか、前ゆく姉は、ついに自分たちのテントにたどり着くまで、後ろの妹を振り返ることはしなかった。
「…………」
ガザもまた、隣を歩く小さな少女の、そんな静かな静かな激情を、ずっと隣で眺めてはいたが、あえて語りかけようとはせず、黙って夜道の警戒だけに専念した。
その夜は、子供たち四人が獣に襲われたり、坑道から無族が溢れ出したりもせず、無事にドゥテの承認を得て、ヨウィとメルラたちが影人形探しに加わる運びとなって、それで終わりだった。