短編7.『影人形』その4
「他の人に手伝ってもらうことは出来ないの?」
調査を開始してから一ヶ月ばかり経過した、ある日の夜のことである。
ペアテは、話を聞かされた時に考えついた案を、停滞が長く続いた後に、やっと口にすることが出来た。
テントの中、彼女と対面に座り込んでいたクオタは、腕組みをして唸る。
「よその組まで巻き込むと、誤魔化すのが難しくなるんだよな。
大人は誰も影人形に助けられてないし、会う機会も限られる」
ペアテは、布を繕っている姉を見やったが、ドゥテも首を横に振った。
「ここから誰もいなくなるのは無理だ。よく考えろ」
「ごめん……」
ドゥテの哀れみを含めた目線に耐えかね、彼女は面を伏した。
違うのだ。本当は、賢い姉の知恵を借りるつもりで顔を見たのだが、伝わらなかった。
でも、そのことを説明し直すのも、頭の悪い子がする弁明みたいになるから嫌だった。
(脱走しようとしてると思われたら、どうなるか位、私だって知ってるの)
最深部送り。それは、子供にとっての死刑宣告に等しい。
良くて無族に殺される。悪ければ、誰の目も届かない暗闇で、同族であるはずの大人たちに搾取し尽くされて誰にも知られず殺される。男が戻ってきた事例はない。女も、番いを作らないまま、誰の子供かも分からない赤子を抱いて戻ってきた年配者を見たことはあるが、あの状態を無事に戻ってきたとは言いたくなかった。
肉体的に頑健すぎる人間族は、それに比すれば、あまりにも精神が脆すぎた。
「ヴゥーヴァーズさんや他の霊族に、正直に言って、調べさせてもらうことって出来ないのかな?」
思い出してしまった嫌な光景を振り払うためにも、ペアテは、姉を見つめた素振りの真意の説明の代わりに、かねてより考えていた案を二人に披露してみた。
「誰かが死んじゃったり、脱走以外なら、そんなに問題にはならない……よね?」
「ヴヴァが取り合うと思うか? 私たちの管理を担当していない他の連中なら、尚更だ」
駄目だった。ドゥテが、ヴゥーヴァーズの略称を持ち出すと共に、にべもなく否定してきた。
人間族は、名目上こそ同じ霊族として絶対者たる王の下の平等を保証されているものの、他氏族に提供出来る利益が労働力以外になく、必然的に奴隷種族のような立ち位置になっている。誰の奴隷かと言えば、強いて言うなら王なのだが、こうして現場に来てしまえば、それはお題目だ。必ず他氏族が上に立つ。
そして、上に立って管理をする側も、ほどほどに庇護さえすれば、勝手に増えるし知恵も出す、便利な動物だからと、普段は手間を掛けずに放っておいてくれるのだが、勝手に増えるのは良くても、勝手に減るのは気に食わないらしく、逃亡と人死にだけは厳しく取り締まるのだ。
(自分たちの命を守る、いざという時の盾が減るのは、誰だって嫌かな)
ペアテは、資源採掘以外での自分たちの価値が、無族に対する戦闘力、兼、時間稼ぎであるという事実を、改めて認識した。
「逆に考えたら、私たちの話を聞いてくれた相手が、影人形さんの正体かもしれないよ?」
「ペアテたちに応じて言外に自認するようなら、そもそも正体を隠さないだろう」
食い下がったら、呆れられてしまった。
流霊族のように、人間に親切な他氏族も、ない訳ではなかったが、彼らは水の眷族だ。大きな河川や湖、海沿い以外で見かけるのは稀である。
また、事の始まりからして、どんな物好きの霊族がペアテやクオタたちを助けてくれたのだろうという謎があった。協力を求めて手助けしてくれる心当たりがあったのなら、こんな苦労はしていない。
姉の理屈はもっともであるため、ペアテもすっかり肩を落としてしょげかえってしまった。
「やる前からそうやって妹の意見を否定するなよな、ドゥテ。
向こうがそこまで考えてやっていないってこともあるだろ?」
クオタが、顔の右半分を強く歪めながら割って入った。
驚いてペアテが彼を見やると、左目が頼もしげに視線を受け止め、頷いたような気がした。
「どのみち、手詰まりなのは確かなんだ。
聞いて回っても馬鹿にされるか邪魔に思われるだけで済むなら、俺はやるぜ」
「お前らが聞いても時間の無駄だろう」
布と針を床に置くと、ドゥテが立ち上がる。
一瞬気色ばんだクオタは、彼女の次の言葉に、立ち上がりかけた足を止めてしまう。
「私がやる。私の方が、まだ相手からの覚えが良い」
「お姉ちゃん……!」
ペアテは感極まった声を上げた。それから、恥ずかしそうに、口元をもじもじとはにかませて、ねだってみる。
「今日、一緒に寝てもいい?」
「好きにしなさい」
クオタと顔を見合わせる。
二人は、この一ヶ月、毎晩のように、どうやって探そう、誰だろうと、相談しあっていた甲斐があったと思った。
きっとペアテたちの熱意が伝わって、ドゥテの合理的な考え方に、何らかの変化を与えることが出来たのだろう。
それとも、もしかしたら、と、妹であるペアテは考えた。
(ドゥテお姉ちゃんも、私を助けてくれた相手に、本当はお礼が言いたかったのかな?)
繕い終えた布を掴んで畳み、床に就く準備を黙々と進めている姉を見つめる、ペアテの視線は熱かった。
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暗くて寒い、夢を見る。
夢が、夢なのかどうかさえ確信の持てない夢。
夢だと自覚しているのに、振り払えない、夢。
指先から流れ出る、か細い自分の熱と痛みを啜って生き延びる、夢。
乳飲み子のするように、自分の指を咥えて丸くなっている夢。
夢なものかと、心臓を冷たい爪が鷲掴みにする。
今までが夢で、現実は、あの時間の延長線上にしかすぎないのだと、頭の中で誰かが囁く。
無限に血が補われる肉体に比して、あまりに脆い心が、壊れて夢を見せている。
自分の意識はこれから、死ぬこともなく、永遠に体温の世界へと奪われ続ける暗闇に閉ざされるのだ。
ちゅうちゅうと、指を懸命に吸う。
痛くて仕方がないのに、指へと流れる血の流れと、血を飲み込み消化して血に戻す、その赤い円環だけが自分の生きる唯一の証であるかのように感じられて、止められない。
一方で、これは夢であると自覚している頭のどこかが、指先にずっと巻いてあるはずの布の感触が口中にないのを、これが現実ではない証拠だと、懸命に訴えかけてくる。
布がないのは当たり前だ、何故なら私は助かっていない。だから布は巻かれていない。夢特有の矛盾を、夢を見ながら、自分でそうやって補う。補うことで、夢を続ける。
さむい。
ふるえる。
さむい。
ふるえる。
できそこなったと思って。
デキソコナイ。
作り直そう。
イナカッタ?
私は、生まれていなかった?
ここは、お母さんの中ですか?
思考がぐるぐると無秩序に、想起される情報を片っ端からひとつなぎに結んでいく。
赤ん坊の住む、母親の体の中は、寒いのだろうか。人間の体は、あんなにあったかかったのに。
ドッドッドッドッ、心臓が苦しいほどに鳴っている。
体をあたためようと、必死になって、頑張っている。
知らず、指先を歯で噛み締めていた。
その指が、不意に誰かの手によって外されて、代わりの指が口元に運ばれてくる。
何でもいい。反射的に噛み付くと、指は痛みに痙攣したが、震えはすぐに止まる。
あたたかい感触がした。
自分ではない誰かとつながる、ぬくもり。
自分以外の血を飲んで、不思議と心が休まるようだった。
乳も、同じ体液だ。
私は赤ん坊だ。だったら、乳を飲んでもおかしくない。
ここはお母さんの体内なのに?
ここがお母さんの体内でも。
お母さん、お母さん。
お母さん?
オカアサンッテ、ダレダロウ。
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目を覚ました時、既にドゥテは彼女の隣にはいなかった。
ぼんやりと自分の指先を見つめると、そこには確かに布の切れ端がしっかりと巻かれていて、赤い染みも見られない。
うなされて、自分の指を噛んでしまったのかと思ったが、血が出ていたのなら布に痕跡が残っているはずだ。
「おはよう、ペアテ。朝の食事を取りに行くぞ」
中で動く気配を察したのか、テントの外から彼女の姉は顔だけを覗かせた。
いつもと変わらない、自分によく似た、けれども似ていない、頬が丸くて目だけが賢く凛々しい、小さなドゥテ。
生まれてから、ずっと見てきた顔のはずなのに、なぜだかその日の朝は、見つめていると、ぽろぽろと白い涙が溢れてきた。
テントの隙間から漏れ射す朝日の鮮烈な輝きが目に痛かったのか、それとも、もうほとんど思い出せない、さっきまで見ていた夢のせいなのか、ペアテには自分でも分からなかった。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なんだ?」
心なしか、ひどく優しげな声でドゥテは応じた。
「私たちのお母さんって、どんな人だったっけ?」
「……さあな。随分会っていない。正直、顔も思い出せない」
ペアテがのろのろと立ち上がると、姉は、それまでの優しい声が嘘のようにさっと顔を引っ込めて、さっさと先に配給所へと向かってしまった。