4.発見
また、手が出てしまった。
カグナは、喉にまでせり上がってきている、もはや飲み込みきれないもやもやとした感情の塊を、一度、食い縛った歯の手前で噛み止めた。
吐き出しそうになった溜息をどうするべきか、決めあぐね、三秒ばかりも息を止めた挙句、鼻で更に大きく夜明け前の冷たい風を吸い込んでいく。鎧下を着込んでいる華奢な両肩がだんだんに怒った。
最初よりも遥かに大きく膨れ上がってしまった溜息は、最終的に、への字に曲げた、整った形の唇からではなく、まっすぐに通ったその鼻筋の間から、自己肯定の強い熱を帯び、勢いに任せてフンスと荒々しく吹き出される。
(──規律を守らない方が悪いに決まっている!!)
その内心は、夜の酒場で部下を殴り倒した直後に、頭を冷やしがてら、自ら街を飛び出したはずの指揮官のものとは思えない、ひどく尖った言葉で満ちていた。
月は既にその役割を終えんとして、天の彼方で眠りに就こうとしている。神代の昔から、季節がどれだけ巡ろうと、時間が幾ら降り積もろうとも変わらない、規律正しい運行だ。街を背に、そんな月の姿を眺めていると、さしも荒れ狂ったカグナの胸中も少しは晴れてきたらしく、徐々にその口元は刺々しい強張りを喪失していく。
あるべき世界の姿を、そうして守っている月へと、遠いまなざしで感謝と畏敬の念を捧げると共に、カグナは両肩をぐるんと、肩甲骨のあたりから肉をほぐし回した。
(私も鍛錬をしよう。いつもの通り、何も変わらずに)
大丈夫。街は、ずっと見えている。こうしている間も、遠ざかろうとして、背を向けたまま走り続けていた、その間も。
今も四方に張り巡らせている視界を確かめつつ、腕に結んでいた組紐を片手で素早く解くと、今度は長い青髪を高く結わえるために、後ろ手に両手を動かしながら、組紐を口で食んだ。
カグナは亜人である。それも、種族揃って人間に恋をするという、海から来た種族をルーツに持った亜人だ。三代を経て、元の種族の名残りはほとんど薄れたが、今も頭髪のあちこちにポツポツと濃紺色をして張り付いている、鱗状の小さな形質が、その、唯一の証左である。この鱗髪のせいで、どうにもうまく髪を編めないのが、カグナの毎朝の悩みの種だった。
体を動かす邪魔にもなっているのだから、切ればいいではないかと、かつての同僚達──今は遠い配下達──が言うのだが、この青い髪は、家族の全員が褒めてくれた、大切なものである。手を加えるなど、とんでもない。
そう、家族だ。
キッ、と組紐を咥えた口元が引き結ばれる。
家族こそ、一番大事なものに決まっている。
にも関わらず──……。
『何も討伐直後の夜ぐらい、堅苦しいことを言わんでもいいでしょう、王子殿下。兵達も疲れております』
こともあろうに、側仕えに配されて以来、『隊を家族と思ってください』と口にしてきた当の副官が……、
(あんなことを言うのか──?)
『王子には分からないでしょうが、人ならば、時として羽目を外したくなることもあるのです』
酔った兵卒達の乱行を、咎めることもせず、逆に自分を諌めるのか。
ダンッ!!! と踏みしめた足元が、そっくり踝あたりまで地面にめり込んだ。一瞬の緩やかな溜め。
直後、瞬間に閃かせた拳足で、草原が10メートルほども扇状に薙ぎ払われる。
「家族ならば……」
呼気。口内から溜まりに溜まっていた言の葉と、遅れてスウィングの衝撃で根こそぎにされた草の葉が、いっさんに前方へと解き放たれた。
「愛しているならば、野放しに────するなッ!!!!!!」
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そのまま30分ほども続けざまに体を動かすと、肢体の周りに、ゆらめく陽炎のような影が立ってきて、それで、カグナは朝稽古を終えることにした。
細身ながらも鎧下から浮き出るほどには鍛えられたカグナの胸は、激しい活動の終息とは正反対に、ようやっと内なる平穏を取り戻し始めていた。代わりに、あたりの景色がいささか荒れた。
数日にまたがる行軍、そして数週間をかけての広域討伐、更には夜通し動き回っても、なお、その立ち姿に疲れから来る歪みはない。あくまでも真っ直ぐだ。
いつしかカグナは、背にしていたはずの、街の方角を向いていた。
副官の頬をめがけて振り抜いた右拳が、痛むような気がして、左手でさすろうとして、止める。
「家族と思うなら、殴るなよな、私も……」
分かっている。
もう、何度も懲罰対象を庇って殴り倒されている副官が、実際には後で厳しく部下を叱責し、それこそ時には本来必要だった程度の体罰だって与えているぐらいは。
分かっている。
彼には出来ても、私には、怒りの加減が効かない。帝都でそうしてしまったように、相手を選ばず本気で殴ってしまえば、それまで積み上げてきた全てを失うことも、あるぐらいは。
(分かって、いるんだよ……ッ……)
未だに身分は剥奪されこそしないものの、罪を犯して辺境警備へと回された、王位継承の実質的な脱落者。
それが、カグナの現在の状況だった。
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太陽が威光を表すまでの、ほんの僅かばかりの間、カグナは薄暗がりに沈んだままの草原を無言で行く。街を守るべく、魔族の狩り残しがいないか、念入りに確かめているのである。
かつては敵国にすら名を馳せていたその蠱惑的な青いまなざしも、今は伏し目がちで、輝きを見せることはない。
それでもなお、こうして責務の一端を果たさんとする、その体を衝き動かすのは、果たしてどのような思いであったのか……。
不意に面が跳ね上がった。
走る。
一足ごとに、草むらが爆発的に広がる。踏み込みの勢いで押し割られる空間。地に穿たれた深い足型を中心に持つ円が次々に開いていく。そして、それらが開ききる頃には、既にカグナの姿は直上から遥かに遠くへと消えている。
青髪の残像が、溶けたみたいに引き伸ばされる。突風の如き余韻に引きずられて、数千数万の葉先達が一斉になびき指す方向は、鮮やかなまでに青く、一直線。
(いるな────それも、かなりの奴が!)
目が、捉えていた。
どくん、どくんと、地を這い、風を吸って、脈打つごとに肥大する、魔性の気配。
カグナの知覚には、まるでそいつは、魔力の塊で出来た心臓のように感じられた。眠りから覚めたばかりのように、どんどん強く、そして確かに鼓動を立ち上げていく、心臓。だが、覚醒したばかりではないだろう。その強まり方には、際限がない。
こんな気配は見たことがない。辺境に現れるレベルじゃあ、ない。
もしかしたら、我が王はこれを見越して私をここに……。
「王種か、矮族め!!」
天に跳ね、腰だめに拳を引き絞る。張っていた全ての目を解除し、四方から引き戻されてくる、見えざる無数の力の奔流をそのまま拳へと一気に練った。勢いのまま、滑空し、相手の直上を取る。
瞬間────
丘向こうから差し込む白光が、眼下にまで捉えた影の、正体を照らす。
怒れる笑顔が、そこにあった。